なされました」
とか、口早に、騒がしく喋った。調所が
「医者を呼んで、手当をしてやれ。一同、出い。これしきに、何を騒ぐ」
と、怒鳴って、未だ、何か、声高に云いつつ、深雪を、運んで行く女中達へ
「静かにせんか」
と、叱りつけた。
お由羅は、蒼白な顔に、固い微笑をして、着物をつくろいながら、脇息を引寄せて、元の座へ坐った。
「大外《だいそ》れた――」
と、いう呼吸が、喘《はず》んでいた。
「お方を斬れと、命じられたのでござりましょう。然し――」
「目をかけてやっておるに――」
「だから、斬るに、斬られず。察しておやりなされ。あの女と、地をかえて、あの女になったとして――きつい処分をせずに、狂人にして、宿へ下げてしまいなされ。小女の一人、二人、罪にしたところで、手柄にはなりませぬ。平生慈悲をかけられて、親からは、何か申しつけられて、十七や、八で――お方など、あの娘盛りには、四国町の小町娘で、付文を読むのに忙がしかったばかりでござろうがな。あはははは」
お由羅も、笑った。
「許してやりなされ。よい、功徳になりまする」
「許しましょう」
「有難うござりました。齢寄りの手前として、それが何より、有難うござりました」
お由羅は、調所も、老いてしまったものだ、と思った。
仏壇の中の黄金仏は、つつましく、燈明の光に、微笑んでいた。白い菊の供え花、餅、梨、米――それから、新しい金箔の光る先々代、島津重豪の「大信院殿栄翁如証大居士」と書いた位牌が、中央にあった。
金梨地の六曲屏風で、死の床を囲って、枕元には、朱塗の経机が置いてあった。そして、その上には、紺紙金泥に、金襴の表装をした経巻一巻と、遺書を包んだ袱紗《ふくさ》とが、置かれ、その机と、枕との間には、豊後国行平作の、大脇差が、堆朱《ついしゅ》の刀掛けに、掛かっていた。
調所は、白麻の袷を重ね、白縮緬の帯をしめて、暫く、仏壇の前で、黙祷していたが、手を延して、経机の下から、金の高蒔絵をした印籠を取出した。そして
「お流れ頂戴仕ります」
と、小声でいって、仏壇に供えてあった水を取下した。印籠を開けると、黒い、小さい丸薬が、底の方に、七八粒あった。調所は、それを、掌の上へ明けて、暫く眺めていた。部屋の中を、静かに、見廻したり、俯向いたり、又、丸薬を眺めたり――そして、微笑して、口のあたりへ、掌をもってきた。それから、指の先で、摘み上げて、暫く、いじっていたが、そのいじっている一粒を、静かに、口の中へ入れた。
皺の多い、筋肉のたるんだ、歯の少し抜けた脣を、暫く動かしてから、ちょっと、眉を寄せて、水を、一口飲んだ。そして、両手を、膝の上に置いて、じっとしていた。
人々は、寝静まっているらしく、何んの物音もしなかった。次の間には、茶釜が、微かに鳴っていた。
調所は、自分のして来た努力の完成したことに、十分満足であったし、もう、これから後に、自分が出ようとする仕事の無いのにも、十分、安心ができた。
腹の中が、少し熱くなったようであった。調所は、脣を嘗《な》めてから、もう一度、仏壇へ御辞儀した。そして
「ただ今、おあとを、お慕い申しまする」
と、いった。それから、膝を斉興の居間の方へ向けて、同じように、頭を下げて
「つつがなく、御帰国、遊ばしませ。これにて、御家は、安泰にござりまする。御寿命の後は、冥途にて、又、御奉公を勤めまする」
そういってから、暫く、言葉を切っていたが
「斉彬公にも、つつがなく、在しますよう。御幼君には、あの世にて、お詫び申し上げまする。老人の亡き後は、意のままに、御消費下されますよう。三年越しにて参りましたる江戸の形勢は、仰せの如く、開けて参っておりまする。御賢明の段、当家のために、祝着至極《しゅうちゃくしごく》、老人、思い残すところ、一つも、ござりませぬ」
調所は、脣に微笑を浮べて、眼に、涙をためていた。それを、暫く、拭きもしないで、じっと、襖を凝視めたまま、微笑していた。遠くで、時計が、三つ鳴った。
調所は、膝の上に置いている毒薬の入った掌を、口へ当てて、仰向いた。掌が空になると、水を取上げて、一息に飲んだ。そして、仏壇と、斉興の方とへ、御辞儀をして、床の上へ坐った。白い木綿の下蒲団の上に、甲斐絹《かいき》の表をつけた木綿の上蒲団であった。その上へ、仰向きになって、眼を閉じた。幾度か枕を直してから、身動きもしなくなった。
だんだん、胃が熱くなって、呼吸が、せわしくなり出した。
(楽に死ねると、いっていたが――)
調所は、熱さを増して来る胃の腑を、じっと、眺めていた。そして、脈へ手を当てると、脈搏《みゃくはく》は、急であった。自分でも、感じるくらいに、呼吸が烈しく、肩が、自然に動き出した。然し、胃は、それ以上に、熱くなって来なかった。
その内に、身体中が、少しずつ、倦《だる》くなってきた。関節が、倦くて、堪らないから、揉みたい、と思ったが、もう、手を動かすのも、厭であった。
(いよいよ毒が、廻ってきた。この位で死ねたら――)
と、思った。倦さが、少しずつ薄らぐと、手の先、足の先の感じがなくなって、いつの間にか、胃は、熱くなくなっていたし、呼吸が早いが、低くなっていた。そして、だんだん眠さが、拡がってきた。
(深雪を、赦してやれと、いったが、赦したかしら?)
調所は、少し、口を開けて、静かに、呼吸をしていた。
(鬱金、十二貫目)
調所は、袋に入れた、鬱金の包が、近くにあったり、遠くにあったりするのを見た。
(将曹は、奸物じゃ。然し、斉興公の御引立を蒙ったわしが、斉彬公の御味方になれるか? 奸物と申しても、綱手と申す女は――益満か――御金蔵に、火がついた?)
調所は、脣に、微笑をのせて、少し、口を動かした。
(わしは、何を、考えていたか? 夢をみたのか?――いいや、死んで行くのじゃ。ちがう、今死んでは、島津の家を、何うする?――島津――島津というのは――)
調所の、眼の下に、脣に、薄い隈取《くまど》りが出てきた。細く、白眼を開けて、薄く、脣を開いたまま、だんだん冷たくなって行った。二三度、微かに、蒲団が、動いた。
四つの時計が鳴って暫くすると、邸の中が騒がしくなった。人声は低く、物音は高く。それは、邸内のみでなく、門の外にも、馬の嘶《いなな》き、馬蹄の音、話声がしていた。
長い廊下の端から、調所の部屋へ、近づく足音がして
「御家老様」
と、いう声がした。
「御用意を、お願い仕りまする」
暫く、そういったまま、黙っていたが、返事が無いので、立去った。
物音も、人声も、だんだん高くなってきた。そして、小走りに、走って来る足音がして
「調所殿」
と、叫んだ。返事が無かった。
「御免下され」
襖が開いた。仏壇の明りは、微かになって、またたいていた。
「御出立でござりまするが――」
侍は、臥っている調所に、こう声をかけて、じっと、顔を眺めていたが
「調所殿」
と、叫んだ。そして、さっと、顔色を変えて、膝を立てて、滑るように、近づいて、額へ手を当てた。素早く、経机の上を見た。胸へ手を差込んだ。そして、立上ると、廊下を、けたたましく走って行った。
暫くすると、忙がしく、大勢の足音がして来た。参覲交代のために、帰国する旅支度の斉興が、躓くように、廊下を急いで来た。眼を光らせて、脣を顫わせて、危い足取りを、急いで、小走りに走って来た。手燭を持った若侍が、足許を照らしていたが、斉興の足とすぐ、ぶっつかりそうになって、その度に、燭が揺いだ。
地獄相
「綱手」
百城は、床柱に凭れて、膝を組みながら
「大阪へ戻っては――存じておろうが、取締りが、厳しゅうて、思うままには、逢えぬ。それで、ここで、ゆっくり、話をしたいが――御国許で、同志の人々は?」
外には、高瀬川が、音もなく、流れていた。綱手は、宿の女に、云いつけて買わした、京白粉、京紅で、濃い化粧をして
「母から、聞いておりますには――」
ちらっと、百城の顔を見た。そして
(男らしい――やさしい――)
と、思って、眼の底に残っている、百城の顔を楽しみつつ、俯向いた。
「それを聞かしてくれぬか? 同志の人々も、存ぜずには、手段も、廻《めぐ》らせぬ」
「でも、母は、女のことゆえ――」
眼に、十分の愛を――媚を現して、下から見上げて
「しかと、しましたことは――」
「いいや、母上は、男優りであるし、御存じであろう――略《ほぼ》、重だった人の名さえ聞いておけばよい」
「では、心憶えのままに――」
綱手は、首をかしげた。
「少し待て、硯を――」
百城は、床の間の硯をとった。
「水が、ござりましょうか」
硯の中は、乾いていた。百城が、手を叩こうとするのを
「これを――」
と、化粧した使い残りの水を、鉢から、指の先で、硯へ落して
「いいえ、妾が――」
百城が、墨をとったのを見て、硯を、自分の方へ引いた。百城は、微笑して
「手が、汚れるに」
綱手は、百城の差出した墨の端を、指ではさんでいたが
「まあ」
と、低く叫んで、やさしく睨みつつ、墨を引張った。そして
「お手々が、汚れます」
二人は、墨をもったまま、一寸、顔を見合せたが、百城が
「お互に、汚れた」
綱手は、真赤になって俯向いた。
「綱手」
百城は、左手を延して、綱手の手首を、握った。
「今夜は?」
綱手は、首を斜めにして、襟元の美しさを、見せながら、黙っていた。
「戻るか――それとも――」
「どちらなりと――」
「泊るか」
綱手は、小さい声で
「御意のままに」
百城は、手と墨と両方を放して
「さて、同志の面々は?」
綱手は、黙って、墨を摺り出した。百城は、懐中から紙を取出して、筆を、硯へ入れた。
「未だ、薄う、ござります」
「そなたの、情のように――」
「まあ――」
綱手は、筆を置いて、眼を見張りつつ
「では――貴下様の手で――濃くなりますように」
と、云って、硯を静かに、百城の前へ押しやった。
「摺ってはくれぬのか――怒ったか?」
「はい」
綱手は、俯向いて、少し、膝を百城から反向《そむ》けた。
「では、濃くしようか、濃くなるかの」
百城は、片膝を立てて、綱手の肩を、引き寄せた。
「町奉行兼物頭、近藤隆左衛門か」
百城は、紙へ、認《したた》めた。
「御同役の、山田一郎右衛門様」
「それから?」
「御船奉行の高崎五郎右衛門様(高崎正風の父)
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家老 島津壱岐
同 二階堂主計
物頭 赤山靱負
屋久島奉行 吉井七郎右衛門
弟御の 村野伝之丞
吉井七之丞
裁許掛見習 山口及右衛門
同 島津清太夫
兵具方目付 土持岱助
宗門方書役 肱岡五郎太
広敷横目付 野村喜八郎
郡見廻 山内作二郎(山内八二祖父)
地方検見 松元一左衛門
製薬掛兼庭方 高木市助
琉球館掛 大久保次右衛門(大久保利通の父)
広敷書役 八田喜左衛門(八田知紀)
関勇助(関広国)
諏訪神社宮司 井上出雲守
[#ここで字下げ終わり]
それから――軽輩の方々では――」
「軽輩は、よい」
百城は、書き終って、じっと、眼を通していたが
「成る程、いや、忝ない」
そういって、頷いた眼の色には、決心が、十分に現れていた。
「兄と、一緒に、お力添えを願いまする」
「おお、聞き遅れたが、小太郎殿は? よい方かの」
百城は、紙を懐へ仕舞った。
「はい、明日にも、下山して、と申しておりました」
「刀が、使えるかな」
「脚の疵が、癒りきらず、少し、危うござりますが、腕は、十分と申しておりました」
「流儀は?」
「鏡心明智流でござります」
「桃井春蔵の?」
「一刀流も、習いましたそうで――」
「目録か、免許か、その上か。なかなか、よく使えると見えるが」
「いいえ、免許は取っておりますが――」
百城は、じっと、考え込んだ。
「脚は? 跛を引くくらいに?」
「はい、少しばかり」
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