く知っていてくれるし、わしの志をも継いでくれるであろう」
「久光殿と、殿と、較べ物になりませぬ」
 益満は、鋭くいった。
「では、わしに万一の事があれば、誰が志を継ぐ? お前が、島津の当主になれるか?」
「万一のことなどと――よって、奸物共を――」
「万一とは、兇刃に倒れることだけではない。薬品の爆発もある。意見の相違による刺客もあろう。幕府の方針の変更による処分もあろう。わしも、わしの身辺も、多事なのじゃ。だから、いつも、申すが、お身達には、判っておるようで、判っておらぬらしい。つまり、わしの仕事を助けてくれること、天下のために、生犠となる所存の下に、この国の危機を救い、福利を計ること。僅か、百万石足らずの家督を争ったり、子供の二人、三人の死ぬことに、腹を立てたりしておる時では、ないではないか。わしは、幾度、幕府にすすめられても、相続せぬのは、それゆえじゃ。しても、せんでも、わしの仕事に変りはない。幕府は、父君が、保守家ゆえ、わしを立てて、幕府の進歩的方針の一助にしようと、考えているらしいが、問題は、開国するか、せぬかの一つではない。それも重要なことにはちがいないが、もっと、国民の根本を富ます、産業の発達法も、わしの外には考えている人がない。わしは、紡織機械に工夫を凝らしているし、シリンドルの製造にも、着手している。又、電信と申す、人智では考えられぬものにも、手を着けておるが、こういう理化学品を、どんどん作るほかに、天産物に乏しいこの国の福利を計る方法は無い。然し、世の中は、大船を造ることさえ禁じられている。いつになったら、わしの意見が、輿論となり、実行となるか? それを考えると、眠る暇も惜しい。のう、益満、お前と、わしとは、考えていることが、根本的にちがっているのではないか。お前の、只今、申したことは、わしには、よく判る。有難い志じゃ。然し、わしには、何んの役にも立たぬことではあるまいか? わしの仕事には、何んの助けにもならぬことではあるまいか」
 益満は、俯向いたまま、答えなかった。一人が
「如何致しますれば、お助けできましょうか」
「それは、いろいろとある。異国へ渡って、異国の文物を見て来るのもよいであろう。わしは、わし自身でも行きたいと、思うているくらいじゃ。又、語学を学んで、よい書物を訳してくれるのもよいであろう。又、機械の取扱いに熟練するのもよいし、何か、有益なものを発明してくれるのも嬉しいことじゃ」
 一座の人々は、未だ、黙っていた。斉彬の言葉は、よくわかりはするが、遠いところに灯っている大きい燭光のようであった。自分達の近づけない、えらい主君であると思うと同時に、余りに、その距りがありすぎて、斉彬のこうした意見には、誰も、何も、いうことができなかった。
「某の処置は?」
 と、益満がいった。
「お前は、お前のしたい通りにするがよい。とめはせぬ。然し、うれしいことでもない。お前は、国許におる西郷吉之助と二人で、仕事をしたなら、やりすぎが無うてよいがの」
 斉彬は、然し、頼もしそうに、益満を眺めていた。

「遠路、お疲れなされたで、ありましょう」
 お由羅は、古代紫の綸子の被布を被て、齢に似ぬ大奥風の厚化粧をしていた。調所は
「手前は、御覧の如く、齢をとって皺くちゃになり、従って、疲れを覚えるようにもなりましたが、お方様は、だんだん若くおなりになりますな」
「お前様のお蔭で、近頃、ずんと、くったくが無くなりましたからのう」
「結構な至りにござります。手前は、旅にも疲れを感じるようになりましたし、又、生きているのも、物憂くなって参りました」
 調所は、こういって、お由羅の側にいる深雪に、じっと、眼を注いでいたが
「その御女中は、近頃、召抱えになりましたかな」
 お由羅が
「あれかえ」
 と、深雪の方へ顔を向けた。深雪は、お由羅と、調所との眼を、ちらっと見て、すぐ、俯向いた。胸が波立った。調所が
「お前は、仙波の娘ではないか」
 深雪は、調所の言葉にはっとして、耳朶を赤くしたが
「いいえ」
 お由羅が、鋭く、深雪を見た。
「ちがうか――益満休之助と、同じ長屋の隣同士に住んでいた仙波と申す者の娘が、大阪へ、わしを手頼《たよ》って参ったが――瓜二つじゃで」
 お由羅が、口早に
「仙波の娘が、お前様を、手頼って?」
「母子二人で――」
「そして、何う致しましたえ」
「手前、その娘を、浜村孫兵衛の倅へ、縁づけるよう申し残しておきましたが、如何致しましたか」
「仙波は、牧様を討とうとして、殺された、八郎太とか申す者ではござりませぬか」
「ま、その話は後にして、少々、内密のことを――」
 お由羅は、女達に
「次へ退りゃ」
 と、命じた。女中達が、立って行った。深雪は、立ったのも、歩いたのも覚えなかった。見破られたのではないか、という不安よりも、南玉が、半分疑いながら知らして来てくれた父が殺されたということが、確実になったので、覚悟をしていながらも、深雪は、胸をくだかれた。
(この間見た夢のように――)
 と、思うと、父の外、兄にも、母にも、姉にも、何んな不慮のことが起っているか、知れぬ気がしてきた。深雪は
(お由羅を刺せ)
 と、父からいいつけられたが、何も知らずに、自分を、意地の悪い老女からかばってくれ、助けてくれ、古参よりも可愛がってくれるお由羅を、何うしても刺す気にはなれなかった。
(でも、父が、殺された上は)
 そう思って、萎えてくる心を励ましてみても、父が、兄が、何故あんなに、敵党の人々を憎むのか?――お由羅でも、斉興でも、調所でも、いい人だのに――と、深雪は、男のように、心の底から、憤りを、これらの人々に感じることが出来なかった。いくら
(憎め、殺せ、刺せ、悪人だから)
 と、いわれ、悪人だと思ってみても、毎日やさしくしてくれ、可愛がってくれる人を、殺す気にはなれなかった。然し、父が殺され、お家が危い以上、自分のそうした感じを捨てて、命じられた通りに刺し殺すより外に、小娘の深雪としては、考えようも、しようもなかった。
 女中達は、次の間で、二人のところへ持って行くべき、茶と、菓子とを備えていた。深雪は
(自分さえ死ぬつもりなら――)
 と、思った。
(死んだ方がいい)
 とも、思った。そして
「妾が持って参りましょう」
 と、菓子台へ手をかけた。

 梅野が、茶をもって先に立った。深雪は、心を、手を顫わしながら、少し、顔色を、蒼白めさせて、菓子台をもって、その後方からつづいた。梅野の前へ行く女中が、襖をつつましく開けると、お由羅と調所とが、ちらっと、こっちを見た。二人とも、引締った顔をしていた。梅野が、茶を調所へ差出し、深雪が、菓子を置くと
「深雪、話がある。梅野は、下りゃ」
 と、お由羅がいった。深雪は、俯向いて手をついて、懐の懐剣の紐の解いてあるのを、見られまいとした。
「お前、隠しているのではあるまいのう」
「はい」
「小藤次も、あのお医者も、信用のできぬ者じゃが、お前の、いとしそうな顔を信用して召上げたが、まさか、仙波の娘ではあるまいのう」
 深雪は、心臓をしめつけられるように、苦しくなってきた。情の深い、お由羅を欺くこともできなかったが、仙波の娘だという事も出来なかった。じっと、俯向いていた。調所が
「いや、軽輩には、却って見上げた人物がいる。その輩が、悉く斉彬公を、お慕い申しておるが、お方、これは、悲しんでよいか、喜んでよいか――つくづく思案致しますと、判りませぬぞ。将曹殿、平殿、豊後殿――こう指を折ってくると、碌々人によって事を為すの徒ばかり、手前も、又、お部屋様も、これ軽輩上り――。この女の如きも、又、もし、仙波の娘としたなら見上げたもの――それに、久光公が、又斉彬公に見倣って、若者好き――所詮は、暫くすれば軽輩、紙漉武士の天下に成りましょうか。今度の訴状の如き、その用意の周到さ。御家を傷つけずと、老生のみを槍玉に挙げようとする策略。家老、家老格が十人よっても、出る智慧ではござりませぬ。今、少々、生き延びて、御小遣いを差上げようと存じましたが、いろいろと、案じまするに、手前が、よし亡くなっても、この軽輩の手より、経世上手が出て参りましょう。その上に、密貿易《みつがい》は、斉彬公の仰せられる如く、そのうち、天下公然としての交易になりましょうが――安心して、明日にも手前、死んでよい時節となりました」
 調所は、一息に、ここまで喋って、茶をのんだ。お由羅は、頷いたが、調所には、返事をしないで、深雪に、鋭く
「何故、返答せぬ」
「はい」
「仙波の娘か、娘でないか――」
 深雪は、頭の中が、くらくらとしてきた。腋の下にも、額にも、汗が滲んできた。そして
「娘でござります」
 と、答えると、身体も、心も、冷たくなったような気がした。手も、膝も顫えた。
「そうかい、それで、何んのために、名を偽ってまで、御奉公に上ったえ?」
 深雪は
(三人きりで、調所は老人だし、この間に突いてかかろうか)
 とも、思ったが、そう思っている心の底には
(済みません、許して下さい)
 と、お由羅の前へ身体を投げ出して、泣きたいような気持もあった。
「深雪、何をするために、お上りだったい」
 お由羅の言葉が、鋭くなってきた。
「返事が、できませぬか」
 いつもの、やさしいお由羅でなく、深雪の身体も、心も、針のついた手で、締めつけてくるように感じる、声であった。
(お父上も、殺されなされた――妾も、こうなった上は死ぬほかはない)
 絶望的な、つきつめた心が湧いて来た。
「責めても、云わせますぞ」
 と、云った時、深雪は、懐へ手を入れた。そして、立上った。
「御免っ」
 と、叫んだ。

 深雪の手には、細身の、五寸程の、懐剣が、握られていた。お由羅が
「あっ」
 と、叫んで、よろめきながら、立上った。そして、両手を、前に突き出して、深雪の刃を、防ぐようにしながら、恐怖と、憐みを乞う心との、混じたような眼で、深雪を見た。
「お許し下されませ」
 深雪は、甲高く叫んだ。そして、短刀を突き出して、一足進むと共に、お由羅は、後方の床の間へ逃げ上った。深雪は、お由羅の眼の中の、恐ろしがっている表情と、自分に憐みを乞うている色とを、感じると共に、声を上げて、泣きたいような気持になってきた。
(許して下さいまし。妾も、お後からお供致します。済みません。勿体無い――妾風情に、あんなに恐れて、あんなに、いじらしい眼で、憐みを乞うて――妾は、決して、決して、お殺し申すような、大それた心はありませぬが、これも仕方の無い――許して下さいまし、妾も、何うしていいのか?――何うしたら――)
 そんなことが、きらきらと、頭の中に閃いた。短刀を突き出して一足進んだきり、お由羅を見つめて、立ったままであった。何故かしら、勿体ないようでもあり、気の毒のようでもあり、可哀そうなようでもあり――突いてかかれなかった。
「たわけがっ」
 調所は、叫んで、立上った。
「誰か――誰かっ、早く」
 と、お由羅が、叫んだ。お由羅が、こう叫ぶと、同時に、深雪は
(見苦しいっ――何んという、周章てた振舞、いつものお部屋様に似ず――)
 と、感じた。そして、そう、感じると、何故かしら、腹が立って来た。
(町人上りの――)
 と、微かに、憎らしくもなってきた。そして、短刀を振上げて一足迫った。その刹那、調所が立上って来て、深雪の、右手を掴んだ。そして
「放せっ」
 と、叫んで、短刀を持った手を、力任せに、締めつけた時、二三人の女中が、襖から、中をのぞくと
「あっ」
 と、叫んで、駈け込んで来た。深雪は、ちらっと、それを見ると、その瞬間、懐剣を、自分の胸へ突き刺した。そして、よろめいた。眼がすっかり、上ずってしまった。顔色は、灰色であった。
 二三人の女中が、蒼白になりながらも、深雪を、後方から抱きすくめるのと、調所が、深雪の手から、懐剣をもぎとるのと、同時であった。
 次の間には、高い声と、それから、幾人も幾人も入って来て、深雪を取巻いたり、お由羅へ
「御無事で」
 とか
「如何
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