されているのだと感じた。初めて見た時から、ただでない僧だ、と思っていたが――仏の前に、ひれ伏す罪人のように、義観の前では、小さくなって行くのが感じられた。
 だが、何かしら百城に、悪いところがあるような、義観の言葉には、小さく反抗したかった。悪いのは、皆、自分が悪いので――百城様に、悪いことがあれば、それは、妾が、悪くさせたので、百城様の罪ではない、といいたかった。そして
(気をつけぬといけない、と、仰しゃいましても、もう、取返しのつかぬことになりました)
 と、心の中で呟いていた。
「熱が退いて、もう、口が利ける。逢うがよい」
 綱手は、少しでも早く、義観の前を去りたかった。
「有難う存じます」
 と、両手をついて、すぐ、次の間の襖を開けた。小太郎が、仰向いたまま、細目を、襖の方へ向けた。二人の眼が合った。綱手は、小太郎の鈍い、表情の無い眼を見て
(まだ悪いのかしら――見えたにちがいないのに、眼の色一つ変えないで――)
 と、思った。そして、小太郎に、笑いかけて
「よく、お癒りになりました」
 と、枕の横へ行って、上から、なつかしそうに覗き込んだ。だが、小太郎の眼は、冷静であった。
「何しに参った」
「ええ?」
 綱手は、小太郎の口調が、意外なので、はっとした。
「お前には、お前の仕事があろう。わしに、付添うていて、それが、何になる? 死ぬものは死ぬ。癒るものなら、癒る。そんな覚悟で大事がなせるか――帰れ。母上にも、そう申せ。一旦、袂を分った上は、事成就の暁まで、濫りに、小さい恩愛のためには、動きますまいと――」
 綱手の方を向いて、低く、こういうと、くるりと、仰向けになって、眼を閉じてしまった。
「でも――お母様は、お兄様の生死を案じなされて――」
「たわけっ。お別れする時から、生も、死も覚悟をしておるのではないか。これが、京と、大阪の間じゃから、とにかく、もし、わしが、国許で、生死不明にでもなったなら、それでも己の仕事をすてて、国許まで、探しに戻るか。た、たわけたっ」
「はい」
「帰れっ」
 義観が、襖を開けて
「そう叱ってはいかん」
 と、首を出してから、ゆるゆる立上って入って来た。
「老師」
 小太郎は、義観へ、微笑した。
「暁頃に、誰か、忍んで参りましたが――」
「猿じゃろう」
 義観は、こともなげに答えた。小太郎は、義観が、猿だと信じているのへ、押返して聞くのは、悪いような気もしたが
「いいえ――老師は、馬鹿と、一喝なされましたが」
 小太郎は、義観の眼を、下から、じっと凝視めながら
「猿ではござりませぬ」
「猿みたいなものじゃ、猿ではないが――」
「忍びよる気配には殺気がござりました」
「感じたか」
「害心無きものの近づく音とはちがっておりました」
「のう、妹御」
 と、義観は、綱手の正面から
「昨夜、遅くに、小太郎を殺そうと、忍んで来た者がいた。わしが、一喝したら、転げて逃げた。心当りがあるか」
 綱手は、自分が、百城と、愛欲の世界に歓喜している間にも、兄にはそんなことが、起っているのか、と思うと、心の底から済まぬように感じたが――そう感じた刹那
(あの畳の上の土、砂――)
 綱手は、全身を蒼白めさせた。
(もしかしたなら、百城様が――いいや、いいや、決して、そんなことは、そんなことを百城様が)
「心当り?――さあ」
 と、口だけで答えて、じっと、俯向いていたが
(急に、大阪へ戻ると云って、暁に立って行ったのも、怪しい、と思えば、怪しいが――百城様が、そんな――あの、やさしい、頼もしい百城様が、そんな、兄を殺すなどという)
 打消したが、綱手には、立っている崖が崩れかけたように感じた。遥かの下に渦巻いている深淵へ陥込んで行くような、絶望さを感じてきた。
「よく、剣禅一致と申すことを聞きまするが、不立文字《ふりゅうもんじ》にて、生死を超越する境地は、剣も、禅も同じと致しまして、昨夜の、馬鹿と申された一喝、その気合の鋭さは、剣客の気合とても遠く及ばぬ気魄が、迸っておりまして、某の腹の中へも、ぐゎーんと響いて、暫く、呆然としておりました。最初に、何んの用か、と、やさしく聞いて、敵の意表に出《い》で、後に虚を衝いての一喝、その虚実の妙――」
「よしよし、もう判った。ところで、女、気をつけるがよいぞ」
「はい」
「よく考えてみい」
 綱手は、自分の身体が真暗な中の空間に引っかかって、手足を、もがいているような気がした。
「綱手、牧は、何処へ参ったであろうか、存ぜぬか」
「江戸へ参られました」
「調所は?」
「矢張り、御勝手方御調べのため、近々に、御江戸へ」
「そうか――わしは、二三日、こうしておって、すぐ江戸へ立とう。益満から、便りでもあったか」
「いいえ」
「あれも、この辺へ参っている筈だが――」
「益満様が?」
 綱手は、こういう時に、益満に逢えたなら、と思った。
「疵は、皆浅手じゃで、心配することは無い」
「腹の疵も、少し痛むくらい――」
 と、小太郎は笑った。
「自分で斬ったのが、一番、深手じゃとは、おかしい、あははは」
 綱手は、二人の話によって、小太郎が、自分で腹を切ったと判ったが、それに対して、口を利くことさえできなくなっていた。月丸のことで、頭の中に熱い風が吹きまくっていた。

  調所の死

 斉興は、調所が、襖のところへ平伏したのを見ると
「何うじゃったな」
 と、声をかけた。調所は、それに答えないで、静かな足取りで、斉興の前へ来て
「御人払いを――」
 その眼の中にも、言葉の中にも、いつもの調所に無かったものが感じられた。
「人払いか」
 と、斉興は、軽い不安を感じながら
「皆、退れっ、遠慮致せ」
 と、手を振った。近侍達は、一人一人、礼をして、作法正しく、次の間へ立って行ってしまった。
「何事じゃ。又、わしに隠居をせいと――かな」
 調所は、黙って、首を振った。それから、じっと、斉興の顔を見て
「手前、覚悟致しておりました時節《とき》が参りました」
「覚悟しておった?――何ういう覚悟」
 調所は微笑した。
「十余年前に申し上げました覚悟――万一、密貿易《みつがい》露見の暁には、手前、一身に負いまして、御家の疵には――」
 と、まで云うと、斉興の眼は、鋭くなって、叱りつけるような口調で
「そりゃ、真実か。真実、露見致したのか」
「致しました」
「そいつは伊勢(老中、阿部伊勢守)の手に握られているのか」
「はい」
「何んとして?――誰が、そのような――」
「心当りもござりまするが」
「誰じゃ、其奴は――」
「匹夫の業、格別咎め立てしても」
 斉興は、烈しく、首を振って
「いいや、八裂きにしても飽き足らぬ奴。他国《よそ》者か、家中の者か」
「その詮議は後として、御前、伊勢の手に、証拠が入りました以上は――」
「何ういう証拠が入ったか?」
「しかとは存じませぬが、それにも、心当りがござります。然し、緊急の御相談は――密貿易《みつがい》の罪は、手前負うと致しまして、手前亡き後の財政処理のこと、又、密貿易を、今のままに続けるか、続けぬか? 琉球の処置方、同意町人共の処置方、又、もし、公儀より、この件について、御手入のあった場合の時のこと、又、手前以外の貿易方御取調べのあった節、何う口を合せるか。それから、手前の務と致しまして、亡き後の物品の処置方、帳面の整理、引合せ等、いろいろの、短い時日の内に、山の如くござりますゆえ、御大儀ながら、その辺、御意見をお洩らし下されますよう――」
 斉興は、俯向いて、じっと、調所の言葉を聞いていたが
「忝《かたじけ》ないぞ」
 と、低く呟いた声は、湿っていた。調所は
「はい」
 と、答えて、同じように俯向いた。
「二十年近くの間、今日死ぬか、明日死ぬかと、覚悟をして来てくれた心底、わしにはよく判っておる。忝ない。笑左、改めて礼を申すぞ」
 調所は、答えなかった。
「島津を救い、島津の礎を築いてくれた功績は――」
 斉興は、脇息から手を放して、両手を膝の上へ置いた。
「家中の者に代り、御先祖代々の御霊《みたま》に代って、礼を申すぞ」
 調所は、畳へ両手をついたままであった。

「笑左――然し――」
 斉興は、手早く、眼を拭いて、いつまでも黙って俯向いている調所へ
「何か、よい分別はないか」
「手前――」
 と、いって、調所も、指で眼頭を押えた。そして、少し紅味がかった眼を上げて、微かに笑いながら
「勇士は馬前の討死を本望と致しますからには、手前は、密貿易にて死ぬのを、本願と致します。この齢をして、三年、五年生き延びんがために、なまじ、悪あがきは致したくござりませぬ」
「うむ」
 と、斉興は、大きくうめいた。
「御茶坊主から取立てられまして三千石近い大身となり、家老格にも列しました上は、仕事は、まず、十中八九までは成就、最早思い残すこともござりませぬ。それに、竹刀持つすべだにも存ぜぬ手前、腹の切りようは、勿論、存じませぬが、従容死に赴いて、死に対する心得のあったことだけは、老後の思い出、若い者に、示しておきたいと存じまする。ともすれば、坊主上りと、世上の口にかかりますが、その坊主上りの死ざまを見せて、冥途の土産にと、平常から――」
 と、いって、調所は、手を懐へ入れた。そして、紙入を出して、その中から、小さい錫の容物《いれもの》を取出した。
「毒薬でござりまする」
 斉興は、黙っていた。
「伊勢の手にて取調べるにしても、まだ、十日、二十日は命がござりましょう。その間に、御奉公の納め仕舞、もう一儲けしておいて、さようならを致す所存、先刻申し上げました処置方のいろいろに就きまして、掛《かかり》の者共を、御呼び集め下されますよう。夜長ゆえ、あらましは、二三日にても取片付けられましょう」
「心得た。わしも、手助け致そうが、その毒薬を、そちは飲むのか」
「蘭法にて、何んとか加里と申すようにござりますが、口へ入れると、すぐ、ころり――」
「試みたか」
「犬に試みました。まことに、鮮かに、往生仕ります。老体のことゆえ、長い苦しみは致しとうござりませぬ。なめると、すぐに、ころり。一名、なめころ、と申します。あはははは。いや、こうして居る内にも、時刻は経ちまするから、それとなく、暇乞をするところだけは、今日の内に廻って、明日早々より後始末ということに致しとう存じまする」
「由羅には、申さぬがよいぞ。死ぬなどと」
「はい、御部屋様には、例の方の始末の話もあり、ただ今より御伺い申しましょう」
 調所は、こういって立ちかけた。
「笑左、伊勢へ、密告した奴は、斉彬に加担の奴ではないか」
「で、ござりましょうが、手前にとっては、よい死際、憎い奴でもござりませぬ」
「存じているなら、名を申せ」
「さ――いや、ただ心当りと申すだけ――申しますまい」
 調所は、立上った。
「笑左、本当か、真実露見致したのか」
「これは、異なことを」
「※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]のように思えてならぬ。お前が、毒を飲んで死ぬなどと、そうして、笑っているお前が――」
 斉興は、独り言のように呟いた。
「拝顔仕りましてより六十年、夢と思えば夢、長いと思えば、飽き飽きする程、長うござりました」
 調所は、立ったままで、平然として、人事《ひとごと》のように、朗らかであった。

 斉彬は、七八人の若侍を前にして、自分の写真を、見せていた。若侍達は、次々に、斎彬の写真を回覧しながら
「筆では、こうは描けん」
 とか
「よく、似ておりますな」
 とか――斉彬と、写真とを、見較べてみたり、陽のさして来る方へ、透かしてみたりしていた。
「異国には、もっと、不思議なものがある。十里も、二十里も離れていても、便りができる。一刻の間に――」
 人々は、斉彬の笑顔を凝視めたまま黙っていた。
「電信機、というもので、今、わしは、それを造らしておる。わしは、異国の事物を、悉くも感心はせんが、よいものを、益々、よくして行くという点には、及ばんと、思うておる。日本人には、それがない。支那人にもない。例えば、釈迦の後に、釈迦は
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