様は、きっと、嬉しくお思いでしょうが、お兄様も、お父様も、百城様を御覧になったら、決して、お叱りにはなりますまい。淫らな綱手ではござりませぬ。ちゃんと考えて、お父様のお志を継ぎ、兄様の手助けにもなり――それから、妾のよい夫として、申し分の無い方だと思って、許したのでございます。それも――それも百城様から――あちらからせがまれて――何も、妾から、手を、口を出したのではござりませぬ――)
綱手は、父に、兄に、母に、こう説明をしていたが
(益満――)
と、思うと、はっとした。
(妾は、益満様を好いていたのに――二人を好くということは、操の正しい女ではないのかしら?――いいや――いいや――益満様は、ただ、一寸、好きな人。百城様は、夫――一生添うて行く、妾の夫――)
綱手は、微かに聞える月丸の呼吸を、全身で聞きながら、何か、もっと話して欲しい、といったり、手でも、足でもいいから、一寸触れたい、と思ったり――だが、つつましく、固くなって、闇の中で、ただ一人、心を、眼を冴えさせていた。
時々、梢を渡る風の音と、何んとも知れぬ鳥の叫びと、自分の寝間着のすれる音の外、何一つ聞えない静寂さであった。
(もう、何刻かしら――)
と、思った。そして
(眠くなった。疲れているから――百城様も、本当に、今日はお疲れでいらっしゃるだろうから、お眠いのも無理はない)
と、思ったりしているうちに、眠入《ねい》った。月丸が、静かに身体を動かして
「えへん」
と、小さく咳をした。綱手は、動きも、答えもしなかった。
(眠ったな)
と、月丸は、思った。そして、静かに、蒲団の中から抜け出した。
月丸は、帯を締め直した。そして、自分の蒲団の中に入れてあった脇差を差した。
(この女を利用して、敵党の秘密をさぐり出す――忠義の前には、こういう手段も仕方はあるまい)
月丸は、暫く、綱手の寝息をうかがってから、立上った。そして、足音を盗んで、障子を忍びやかに開けた。冷たい廊下、冷たい風の中へ出た。
(だが――わしは、この女に惚れてもいる。それは、本当だ。だが、味方をするといって欺きもした――欺いたが、好きは好きだ――好きな女を――欺くということ――それも、武士としては致し方が無い。いいや、それが、武士の辛い道だ――然し、この女に、それが判るだろうか?)
月丸は、そう思いながら、跣足のまま、苔のついた土の上へ降りて、草の中を、庵室の方へ歩み出した。
(わしの、この――こうした本心を知ったなら? 怒るか、嘆くか?――怒りもするし、嘆きもしようが――妻は、嫁しては、夫に従うべき筈だ――)
月丸は、綱手を、妻とし、自分をその夫だと考えてみて、苦笑した。
(あれで――妻であり、夫であるのか)
と、思ったが、綱手の誓ったそうした言葉も、自分のいった同じ言葉も、そういった時は、お互に本気だったと思うと、人間は、愛欲の世界にいる時は思慮の無い情熱で、憑かれたようになるものだと思った。
(妻でも、夫でも、何んでもよいが、本心を語るのは、少し早い――いいや、早いというよりも、あの女は、わしを、自分らの味方と信じて、肌を許したのだ。わしが、こうして、わしの父を覘《ねら》っている小太郎を討ちに行く、と知ったなら、勿論許しはしなかったであろう)
月丸は、夜露に濡れながら、高山の冷たい夜気の中を、冷たいとも感じずに、歩いて行った。
(それでは、一生、この本心を打明けずにいるか? そんなことはできることでない。いつかは判ることだ。いつか判る、その時まで、自然に任せて待つか? それとも、いい機に打明けるか? それとも、小太郎を斬りすてて、父の身体を安らかにし、敵党の模様をさぐった上で、別れるか?――いいや、別れたくはない――では、何うしたならよいか)
足で、手で、さぐりつつ、木立の間を、庵室へ近づいた。そして、星あかりに、庵室が黒く見えると共に、静かに、裾を端折って、帯に挟み
(女のことなど、何うでもよい。父を覘う奴を――)
と、思った。そして、戸締りもしていない廊下へ、手をつき、膝をあげて、じっと、耳を澄ますと同時に、心も、身体も、小太郎と、義観とに対する注意と、用意とで、いっぱいになってしまった。
部屋の中の物音は少しもしなかった。月丸は、脇差を静かに抜いて、右手に持ちながら、入口から、小太郎の寝ている奥の方へ、這うように、廊下を伝った。
(あの老僧は、小太郎の部屋にいるか、次の間にいるか?)
夜ざとい老人が、起きては邪魔であった。月丸は、次の間のところまで来ると、義観の寝息を窺うため、暫く、じっと、耳を立てていた。だが、少しの音もしなかった。小太郎の室からも、物音は聞えなかった。
(二人とも眠っている)
月丸は、それでも、足に、手に、心を配りつつ、自分の耳にでさえ、少しの音も聞えないくらいにして、次の間と、奥の間の境まで来た。そこに立っている柱が、その境であった。月丸は、右手に脇差を立て、左手を障子へかけた。その途端、次の間から――月丸の半立ちになった耳のところで、障子一重の近さで
「何んの御用かの」
その声は低かったが、柔《やさ》しかったが、月丸は、頭から、一掴みに、身体ぐるみ、冷たい手で掴まれたように感じた。
義観の声は、月丸の、すぐ耳許でした。余りに近すぎた。その声は、月丸の心の中も、刀も、何も、見ているらしく感じられる声だった。
(この真暗な中で――見えるものか)
と、月丸は、周章てながら、もがきながら、頭の中で叫んでみたが、余りに近く、余りにやさしい、その不気味な声は、見えている、としか思えないくらいのものだった。
月丸は、答えもできないし、動きもできないし、刀を握りしめたまま、全身を固くして、居すくんでしまった。障子が開いても、義観が出て来ても、手も、足も、舌も、動かないと感じるくらいに、薄気味悪い、凄い声だった。
昼間見た、山を降りて来る足取り、あの石を運んだという怪力、その鋭い眼――それは、人間でなく、何かの化身のように、もう一度、月丸へ蘇って来た。
刀を取っての対手なら、誰にも負けぬ自信はあったが、闇の中に物が見え、刀を抜いて近々と近づいている者へ、やさしく
「何の用かな」
と、空々しくいいかける老人は、何う対手にしていいかわからなかった。
(しまった)
と、感じた。そして、義観が現れたなら、身体ぐるみ、ぶっつかってやろうと、しびれるような気持の中で決心をして、次の言葉と、義観の出現とを、待っていたが、それっきり、次の言葉が無かった。
月丸は、自分の耳を疑ってみた。だが、明らかに聞えたのは聞えたのに違いなかったのだから、たったその一言だけで、後はいくら待っていても、次の言葉が聞えないとなると、一層、不気味になってきた。だが、月丸は、何もいえなかったし、身体を動かしたなら、何かしら、大変なことが、自分に起るようにも思えた。今の、やさしい言葉が、次には鋭い言葉になって、自分の刀は折れて、小太郎が出て来る――そういうようにも感じられた。
月丸は、呼吸をこらし、身体を固くして、じっとしていたが、少しずつ、そんなものが、ほぐれかけると
(義観ぐらい――この刀の下に――)
と、いうような勇気が肚の底から、少しずつ湧いて来た。だが、もう、何うしても、障子を開けて、小太郎の居間へ入る勇気は出て来なかった。退くか、義観と戦うか? その二つが混乱して、月丸の頭の中を走り廻った。
(もう一度、あんな、薄気味悪い声を聞きたくはない――戻ろう)
と、思ったが、戻りかけたなら、何かしら、あははははと、笑われそうな気がした。月丸は、四方から、義観の眼を浴びていると感じた。
少しずつ、恐怖が薄らいで来ると共に、月丸は、声のした障子のところから、一寸、二寸と、身体を離しかけた。
(黙っていろ――声をかけるな)
と、いうような、臆病な心が起って来たが、何んなに、それが、卑怯だと叱ってみても、止まなかった。廊下の端へ近づくと、月丸は、片脚を延して、土へ触れさせた。そして、ほっと、安心し、呼吸をついだ時
「馬鹿がっ」
それは、大きく、鋭く、月丸の肚の中を、拳で突き上げるように、響いた。頭の中へは、ぐゎん、という音と共に、いっぱいに拡がった。それは、声でなくて、人間の内臓を、頭の中を、その内部から撲ったようなものだった。
月丸は、よろめいた。そして、一気に、崖を飛び降りた。そして、立木にぶっつかりつつ、凹地に躓《つまず》きつつ、走り出した。
魔物の住家に、いるように感じられた。寺へ戻って来たが、義観は、すぐ、その障子の外で、未だ自分を見ているように思えた。
荒い足音、障子を開けたので入って来た冷たい風に、綱手は、眼をさました。
「百城様」
月丸は、綱手の声で、心強くなった。周章てている呼吸、狼狽している心臓を押えながら、鞘へ刀を納めて、手早く、蒲団へ差込んで
「未だ、眠らぬか」
「貴方様は――何ちらへ」
「わしか――」
月丸は、綱手も、自分が、小太郎を斬りに行ったのを、知っているのではないか、というように感じた。
「わしは、厠へ」
「冷とうございますから、早う、お臥みなされませ」
綱手は、媚と、品位とを含んだ、滑らかな口振でいった。
「寒いのう――程なく、夜が明けよう」
「ほんに、寒い――」
月丸は、それが、自分を添寝に呼んでいるのだ、と思ったが
「明日は、又、歩かねばならぬから、早く眠るがよい」
「歩くとは?」
「大阪へ戻らねばならぬ」
綱手は、暫く答えなかったが
「妾も――」
「いいや、そなたは意のままに――」
綱手は、又、暫く黙っていた。
「小太郎は、あの――老僧の手当で十分であろう。然し、介抱して上げるがよい。わしは、いろいろと用があるゆえ、早く戻らねばならぬ」
「でも――来る時は、四五日――」
「思い出したことがあっての」
「では――帰りは――妾、一人?」
「迎えに――迎えに、京まで参ってもよい。綱手、ここで一日、二日別れたとて、一生別れる訳でもあるまいに――」
「それは、そうでございますが――」
綱手は、起き上ったらしく、蒲団の上の方で声がした。そして、衣ずれの音がしたので
「何処へ」
「一寸」
「厠へか」
「はい」
綱手は、月丸の枕頭のところを、静かな足取りで歩んで行ったが
「ま、砂が――ああ、ここら――一面に」
立止まったらしく
「誰か――入ってまいったのでござりましょうか。ひどい土が――」
「土?」
月丸は、自分の周章てていたことに、怒りが生じてきた。そして、それを執拗に、大仰らしく調べている綱手へも腹が立ってきた。
「まあ、お枕の方へ――」
「狸でも入ったのであろう。よいではないか」
「狸が」
「山のことじゃ」
「まあ、気味の悪い、妾――」
綱手は、月丸の枕近くへ寄って来た。
「武士の娘が、狸ぐらいを――」
月丸は、綱手を叱ったが、綱手の廊下へ出るのを見に自分が立ったなら、障子の外に義観がいるような気がした。
「でも――」
綱手は、媚びるように、甘い口調であった。
「そこまで見てやろう――子供でもあるまいに――」
月丸が立上ると、すぐ綱手に触れた。二人の手は、互に探しあった。
「まあ、冷たいお手々」
綱手は、自分の両手の中へ、月丸の右手を挟んで押えた。
「連衆《つれしゅ》は、何うした」
と、義観が聞いた。
「用事がござりまして、大阪へ戻りましてござります」
綱手は、誰に逢うのも恥かしかった。誰でも、百城と自分との仲を知っているように思えた。顔か、身体か、眼か――何っかに、変ったところができているように思えた。
「昨夜は、何んともなかったかな」
義観のこういった言葉は、やさしく、低かったが、綱手には、月丸と二人のことを知っている言葉のように思えて、真赤になった。そして、義観の、柔らかであるが、底光のする眼は、すっかり二人の仲の何もかも知っているように思えた。綱手は、返事ができないで、俯向いてしまった。
「あの若者は、利発じゃが、気をつけんといかん」
綱手は、一々自分のことを指
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