―七瀬殿のお心、お身の気持を察しると――何んとも申しようも無い。世の中の不仕合せの一切を、一身、一家に受けておるとしか思えぬ――申しようも無い次第だ」
 綱手は、身躾みのことも忘れ、月丸のことも忘れて、その同情の言葉を、嬉しく、悲しく聞いていた。
「七瀬殿と八郎太殿とに、何う、意見の相違があろうとも、又――そなたと七瀬殿とが、同意であろうと、無かろうと、某は、八郎太殿に、又、小太郎殿に、味方したい。これは、お身に計るのではない。某、一存の決心――只今より小太郎殿に代って、牧の一味を討とうと存ずる」
「貴下様が――」
 綱手は、眼を見張った。
「お身は、七瀬殿と、同意ゆえ、某のこの決心には不同意であろうが、八郎太殿の志を思い、その働きを思うとき――武士として、見すごし出来ぬものがある。小太郎殿、御回復を待って、談合の上、斉彬派同士の一人へ入りたい――只今、決心致した――御不服か」
 月丸は、低く鋭く云った。

 綱手は
(不服どころか――嬉しゅう思いますし、兄も、聞いたなら、さぞ喜びましよう)
 と、思いはしたが、七瀬が、固く、月丸に対して、夫とは反対ゆえ、と、いいきっていたから
(お頼み申します)
 とは、云えなかった。だから、月丸のそうした言葉に黙っていたが
「綱手殿は、御不服であろうが――」
 と、月丸が、もう一度云ったのに対して
(不服でございます)
 と、明瞭《はっきり》と、返事もできなかった。月丸は、綱手が、黙っているので
「一体、お身は、不服か、それとも――」
 と、問いつめてきた。綱手は、何っちとも返事ができなかったし、したくもなかった。
「七瀬殿のことを、悪し様に申してはよくないが、嫁しては夫に従う、これが、婦《おんな》の道でござろう。まして、何れが正義、何れが不義と、判断のつかぬ騒動、斉興公に従うが、利益ゆえと――ただ、利益ゆえで、夫の意見に逆うなど、ちと、腑に落ちんこともある。では、ござらぬか――綱手殿」
 月丸は、微笑した。
「しかし――女としては、よく決心し、よく計られた。貞女、節婦とも、称められんこともない――と――某は――見ておるが――」
 月丸は、綱手の上げた眼へ、美しく、澄んだ眼で、笑いかけた。綱手は、ようよう返事のできそうなことを、月丸が云ったので
「と、申しますと――」
 と、月丸の言葉の意味が、十分に判らなかったから、同じように、微笑して聞いた。
「某は、それが、七瀬殿なり、お身の本心じゃ、と思うが――何うかの」
「それがとは?」
「父兄に不同意と、見せかけて――」
 月丸は、腕組をして、綱手を見ながら、だんだん脣に、眼に、笑いを、大きくして行った。
「見せかけて」
 綱手は、冷静に、こういったが、月丸の、明察に、感心をし、月丸を半分信じ、半分怪しみながらも、何かしら、安心したような気のするところもあった。
「父兄と、諍《いさか》って家出したとは、真赤な※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]、ちゃんと、諜《しめ》し合せて、御家老の秘事でも、探ろうという所存――」
 綱手は、胸を衝かれて、少し、赤くなったが
「いいえ」
 と、烈しく、首を振った。
「それなら、江戸に止まっておりまする。国へ戻りすがらの――お恥かしゅうござりますが、路銀も乏しく、御家老様にお縋りしてと――」
「いや――気に障《さ》えられては困る――もし、左様な女丈夫であったなら、某――命にかけても――」
 こういって、月丸は、急に黙った。綱手は、その後につづく言葉が、何んであるかを察した。そして、耳朶を赤くし、全身の血を熱くしながら、月丸が、はっきりと、次をつづけるのを待っていた。月丸は、じっと、腕組をして、俯向いていたが
「左様のことは、芝居話――今の世にあろうとは思えぬ。然し、八郎太殿の血を受けていながら、兄妹《きょうだい》として、そうまでもちがうものか――のう、綱手殿。武士としては、単身、敵地へ間者に入る程の女を女房にしたいものじゃ。当節は、士も、旗本の如く、悉く遊芸に凝れば、婦女子も、芸妓を見習って、上下、赴くところは、惰弱の道のみ、それと、これと、雲泥の差ではござらぬか。お身も、小太郎の妹なら、何故、及ばぬまでも、牧の行方を求めて、小太刀の一本も恨まれぬぞ――いや、こういうことを、近頃は、野暮と申す。夜も、更けた。臥みなされ」
 月丸は、こういって、立上った。そして、廊下へ出て
「快い夜じゃ」
 呟いて、厠の方へ行った。

 綱手は、口惜しかった。好きな月丸であっただけに、罵られるのが、辛かった。だが、同時に
(女丈夫――命にかけて――妻にしたい)
 と、いう言葉が嬉しかった。
(もし、百城様が、妾の本心を知ったなら)
 と、思うと、もう、百城は、自分のもののように思えた。
(いつか、判る時があろう)
 と、心の中で、微笑したが
(判る時までに――もし、外に、好きな女子が出来たなら)
 と、思うと、心臓が早くなった。
(打明けたら?――あれだけの決心をしていなさるからには――然し、母も、父も、余人には知られるな、知らすな、と固く仰せられたのだから――でも、対手によって――百城様なら、お母様も称《ほ》めていなさるし――)
 綱手は、半分の口惜しさ、悲しさと、半分の嬉しさとを抱いて、百城の戻って来る足音を聞いていた。百城は、障子を開けて
「早く、お臥みなされ」
 と、冷やかに云った。
「はい、貴下様から――」
「何刻であろうか、山中暦日無く、鐘声なし」
 半分、節をつけて呟きつつ、手早く、着物を脱いで
「御免」
 兎のように、蒲団の穴へ入ってしまった。綱手は、その子供らしい快活さに、微笑みつつ、脱ぎ棄てた月丸の着物を畳んだ。男の体臭が、微かに匂った。益満のことを、又思い出して、二人を比較しながら
(益満様を、世にも頼もしい方と思っていたが、ここには、それにも増して、頼もしい方がいなさる)
 そう思って、月丸の、後寝姿を見た時
「これは、恐縮」
 月丸が、寝返って、畳んでいる自分の着物の方へ一寸手を延した。
「いいえ」
 綱手は、眼がぶっつかったので、周章てて、俯向いて、畳んだ着物を素早く、蒲団の裾へ置いた。そして、月丸に背を向けて、自分も、帯を解きながら
「灯は?」
「消す」
 綱手は、長襦袢姿を、見られたくはなかったので、帯を、半解きにしたまま、二つの床の真中を、静かに通って、行燈の灯を、手で消そうとした。だが、なかなか、消えなかった。
「某が――」
 月丸が、半身を出して、手を延した。二つの手が、火影のところで、ぶっつかろうとした。綱手は、周章てて、手を引込めた。月丸は、肩を、胸を、少し現しながら
「なかなか、消えぬ」
 と、呟いて、烈しく、手を振った。火が消えた。
「有難うござりました」
 軽く、油煙の臭気のする中で、そういって、綱手が、帯の解けたのを、引上げると、月丸が押えているらしく、動かなかった。だが、すぐ
「これは、御無礼」
 と、手を放したらしく、帯が自由になった。腰紐を解き、着物を脱いで、床の上に坐った時
「綱手殿――何うも、本心が」
「本心が?」
「判りかねる」
「その内に、お判りになりましょう」
「その内に?――その内に?」
 月丸は、綱手の床の方へ向いているらしかった。

 暫く、二人は、黙っていた。冷やかな闇と、深い山の沈黙とが、凄いまでに感じられた。綱手は、固い蒲団を、肩まで被て、襦袢の裾で両足をくるんだ。
「綱手殿」
 月丸の声が、月丸の臥床の端――綱手の蒲団の近くでした。綱手は、両脚を固くして、胸を躍らせながら
「はい」
「本心が、判るとは――何ういう本心、又、それがいつ判るか――」
「さあ」
 綱手は、月丸が、愛欲のことでなく、さっきの言葉のつづきを話すのだと思って、安心した。だが、答えられないので、そのまま黙っていた。
「母上は、生きておられる。父上は、然し、斬死なされた。何故、それに、お身は、母上にのみ、孝行をなさる」
 綱手は、答えなかった。
「綱手殿」
 綱手は、まだ答えなかった。こうして、親切に、熱心に、味方してくれる月丸に、打明けたくて、鉄瓶にたぎる湯の如く、口まで出かかっていたが、それがいえなかったし、だからといって、外のことでいいまぎらすことも、できなかった。
「何故、返事なされぬ」
 月丸の声が、近々として、蒲団の端が、動いた。綱手は、月丸の無礼を咎めるよりも、月丸に、何んとかうまく答えたいと、考えていたし、月丸の同情に対し、自分の答えのできないのに困っていた。
「無理かも知れぬ」
 こういった月丸の声は、坐っているらしく、上の方でした。
「いつか、判る、と――その意味は?――綱手殿。某の申した、女ながら、天晴れの決心が、わかると、申す意味か――そうとしか、某にはとれぬが――綱手殿、そうとってよいか、よくないか――」
 低いが、熱情的な言葉であった。綱手は、済まぬと思うと、薄く、涙が出てきた。それは、他人の熱情的な同情に対して、何んとも答えられぬ苦しさからであると共に、自分の愛する男へ、本心を打明けることのできぬ悲しさからの涙であった。
「綱手殿」
 異常に、昂奮した声が、低く響くと共に、月丸の手が、綱手の肩を、ぐっと掴んだ。
「そう取って――取ってよろしゅうござるか」
 綱手は、月丸の手を払おうとして、町分の手を動かしたが、それが、月丸の手に触れるのが恐ろしかった。だが、自分の肩から月丸の手を放すのも、厭なような気がした。然し、そのままに掴ませておいて
(だらしのない女)
 と、思われたくなかったので、静かに、身体を引きつつ、寝返ろうとした。その瞬間に、月丸の手が、綱手の腕を握った。そして、耳許へ口が近づいて
「打明けて――某、命にかけてのこと」
 月丸は、喘ぐように囁いた。綱手は、頭の中が、唸り渡っているように、しびれているように――脚を固くしめて、月丸に握られている腕を、引放そうとしながら、全身を恥かしさで火のようにして、顫えていた。月丸は、綱手の腕を握ったまま、耳許で
「命にかえて他言せぬ。きっと――そうじゃ。本心は父と同腹であろう。恋する者には、対手の肚の中まで読める。命にかけての――綱手殿、命をかけて――」
 月丸は、女の耳朶へ、時々、脣を触れさせつつ、微かに、だが、情熱的に囁いた。そして、両手で、腕と、肩とを抱きしめていた。綱手は、顫えながら、そして、軽く抵抗しながら、肩が、腕が、肉体が、血が、男の締める力を快く感じているのを、何うすることもできないで、羞恥と、興奮とで、物もいえなかった。

「百城様――」
「うむ」
 月丸は、眠りかけているらしく、鈍い返事しかしなかった。綱手は
(こうなりました上は、一生、見棄てないで――)
 と、云いたかったのだが、口へは出せなかった。
(眠っていらっしゃるなら、丁度いい。そんな恥かしいことが、口へ出せるものか)
 とも、思ったが、月丸が、ただ、うむと一言だけしかいわなかったのが、ひどく物足りないようにも感じた。そして、だんだん眼の冴えて来る自分と、もう、眠りかけている月丸を較べて
(男というものは、こんな人間の大切な時に――一生に一度の大事な時に、こんな気楽なものかしら?)
 とも思った。
 身体中が、熱っぽいようでもあるし、しびれているようでもあるし、何かが抜け出したような感じもするし――不安でもあるし、幸福にも思えるし――生娘で無くなったという後悔は、少しも起らないで、明るい未来の空想だけが、いろいろ金色の鳥のように羽を拡げて翔け廻った。だが
(兄上は?)
 と、思うと、一寸、暗い気もするし、八郎太を埋葬したところが、すぐ、頭近くの外にあると思うと、済まぬような気もしたが、それはすぐ
(でも、この方が、親身になって力を添えて下さって、きっと、お志は貫きますから――)
 と、いう弁解をして、大して、心が咎めなかった。それよりも、兄と、八郎太とに対して、月丸を獲たことを誇りとするように
(よい男で、お強くって、お利口で――本当に、妾を可愛がっていて下すって――どうぞお喜び下さいませ。お母
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