え》させるのが、これ、人の道、母の情ではござらぬか」
百城は、いつにも似ず、雄弁であった。
「はい」
「袋持、そうではあるまいか」
「うむ」
「御家老に、申し上げて見よう。お許しが出ずば、是非もない。もし、出たなら、七瀬殿、綱手殿と共々、捜しに参ろうではござりませんか」
「有難う存じまする」
「生であれ、死であれ、わが子の運命を見届けるのが、人倫に外れることは、よもござりますまい」
「はい」
百城は、立上った。
「お許しの程、ただ今聞いて参ろう」
二人の女が、頭を下げるのを後に、百城は足早に出て行ってしまった。
「お前一人で行けますか」
「お母様――」
綱手は、決心の眼で、母を見た。
「妾は、お国許へ早く戻らねばなりませんから、お前一人で、お供をして――」
と、七瀬がいった時、袋持が
「百城は――」
と、いったまま、じっと、前の壁を見て、暫く考えていたが、綱手へ顔を向けて
「十分覚悟して、行きなさるがよい」
二人は、袋持の言葉に、一寸、不安を感じたが、それよりも、百城を信じていた。
茶店にいた人々は、似合いの夫婦らしい、百城と綱手とを、羨ましそうに、感心したように、じろじろ眺めた。
二人は、冬の山風に吹かれながら、薄く額に汗を出して、頬を赤くしながら、人々の、周章てて引込める脚の前を、奥の腰掛へ通った。婆が、茶をもって来ると、百城が
「この間の斬合のう」
「はいはい」
「あの時、一人、逃げた者があったであろう。存じておるか」
「聞いとります。今も、それで、話をしてましたが、貴下《あんた》、親子の縁と申すのは、怖いようどすえ」
「怖いとは?」
「あの大勢の方の方《かた》の死骸は、すぐ、下から、お侍衆が来て引取られましたが、貴下、お年寄のだけが、明くる日の夕方まで、誰も引取手が無かったのを、貴下はん、お山に、義観さん云うて、えらい、お坊さんが、おしてなあ。何んと、不思議や、おへんか、この義観さんが、もう、かれこれ、七十にもならしたかのう、爺さん」
婆は、土間にしゃがんで、煙草を喫ってる爺を振向いた。
「うん、わしと、六つちがいや」
「そんなら、六十八か。大分、お前よりも、達者やなあ」
「いびりよる婆がいんからのう」
「とぼけんとき。いびるのは、お前やあらへんか」
百城が
「その義観が?」
「その義観さんが、貴下はん、その前の日に、今、お話の、一人逃げよった奴を、救うてお出でなさったやおへんか。なあ、爺さん、血だらけで、虫の息で、誰も、かまいて無いのを――」
「婆さん、ちがうがの。道側に倒れていたんを、お坊さんが見つけて、京の屋敷へ引渡そうというたのを、義観さんが、まあまあいうて、御自分の庵室へ、連れ戻りなされたんやがな。それで、お侍様」
爺が、立上った。
「その若いお侍を連れて戻ると、何んと、義観さんは、山に捨ててあるのは、この人の父親にちがいないと、一人で、頂上へ、お越しなされて、何うどす、血みどろの死骸を、担いで降りて来なさったやおへんか。そして、庵室の前へ埋めて、その倅の方を、貴下、義観さん一人で手ずから介抱してなさるそうやが、これは義観さんでないと出来んことやと、大評判どすがな」
「いや、忝《かたじけ》ない。そして、その義観の庵室は」
「根本中堂の下どす。あんた行きなはるか」
「うむ」
「けったいなお坊どすえ」
「ははあ、何う、けったいな」
「一風、二風、三風、も変ってますね。物をいわなんだら、一日でも、黙ってる――」
綱手が、立上った。百城も、鳥目《ちょうもく》を置いて立上った。
「有難うございます。御綺麗な、京にも、こんな御綺麗な、夫婦衆は、一寸、見られまへんどすえ。有難う存じます。何うえ、このお美しさは」
婆さんは、そう云って、綱手に見惚れていた。
杉木立の、鬱々とした、山気と、湿気との籠めている中に、大きい堂が、古色を帯びて建っていた。傾斜した山地を、平にしたところに建っていて、その堂へ行く細い苔道には、いくつも、杉丸太が二三段ずつ横にした、段があった。綱手は、膝頭を押えるようにして、その一つ一つを登って行った。
「お頼み申す」
何んの答えも無かった。綱手は、どこに、父の亡骸が埋めてあろうかと、見廻したが、そうしたらしい、新しい土の盛上ったところは、どこにも無かった。皆、草と、苔とが、物静かに、清らかに、黙っていた。
「お頼み申す」
百城が、前より大きく叫んだ。遠くに鳴く、小鳥の声と、高い梢を渡る風の音しかしなかった。
「物申す、義観と仰せられる方のお住居は」
微かに、部屋の中で、音がした。深い、屋根の下、高い杉の下に陽を遮られて、障子の色は沈鬱であったし、縁側の、朽ちかけた板は、湿っていた。物音はしたが、又、そのまま、静まり返ってしまった。
「誰方か、おられませぬか」
百城は、こういいながら、縁側と、急傾斜な土手との間の、狭いところを、堂の後方へ廻りかけた。微かな人の呼吸らしいものが聞えた。
「お頼み申す」
百城が、立止まった。綱手は、きっと、兄の呻きだと、思った。その時、ばさっと、葉にすれる音が、堂の真上の木立の中でした。二人が、見上げると、老僧が、枝から、枝へ手をかけながら、猿のように、急傾斜な山の茂みの中を降りて来た。
(これが、義観だ)
と、二人は思った。
老僧は、道の無い山に、道が有るらしく、少しも、躊躇《ちゅうちょ》しないで、杉の幹に手を当て、灌木の枝を掴み、大きく飛び降り、滑り降りして、忽ちの内に、堂の後方へ消えてしまった。百城が、歩きかけると、僧は、部屋へ入って来たらしく、足音がした。
「お頼み申しまする」
障子の中から
「誰方じゃ? 御用は?」
「当所において、御介抱にあずかっておりまする者の妹、並びに、付添に参った百城月丸と申す者――お眼にかかれましょうなら」
「ああ、さようか、お上りなされ」
「勝手元は? 足が汚れておりまするが」
「そのまま」
「はい」
二人は、脚絆をはずして、埃を叩いた。そして、襟を、裾を合せ、障子を開けた。七輪に、土鍋をかけて、草を、膝の左右へ並べて、薄汚れた白衣の老僧が、坐っていた。二人が手をつくと
「ほほう、似ておる」
と、綱手に、微笑して、すぐ、百城を見たが
「御夫婦か」
綱手が、首を振って
「いいえ」
「身寄りか」
「いえ、身寄りでも――」
義観は、じっと月丸を眺めていたが
「利発な方じゃが、瞳中少し、険難だの」
「剣難」
「剣ではない、陰険の険」
「はっ」
「ま、気をつけるがよい。病人は、全身に十二三ヶ所疵している。命に別条はない。ただ、熱が高い。これから、薬を煎じるのじゃが――その間に、顔だけ見るがよい。未だ囈言《うわごと》をいって、正気づいておらん」
義観は、草を持った手で、次の間を指さした。
小太郎は、汚れた、白い、薄い、蒲団を被て、つつましく臥っていた。頭から、耳、頤へかけて陰気な部屋の中に、くっきり白く浮き立つ繃帯をして、片方の眼だけ、微かに、白眼を見せて、眠っていた。
顔色は、灰とも、土とも、白いとも、つかぬような色をして、江戸の時と、一月にもならぬのに、げっそり痩せてしまっていた。そして、時々呻いた。
綱手は、そっと手を額へ当てた。熱かった。汚い、白い蒲団、汚い、白い着物。陰気な部屋。それは、自分達一家の宿命の色のように、しみじみと、悲しく、淋しく、綱手の胸をしめつけた。そうした色彩の中に、医者でもない僧侶に、看護されて、こうしている小太郎は、もう生き返らぬ人のように思えた。
「明日になれば、熱も下って、人心地がつこう」
義観が、土鍋のところから、声をかけた。
「山は寒いで、熱には毒じゃが、疵にはよい」
「いろいろと、お世話下されまして、忝のう存じまする」
綱手は、小太郎の側から、礼を云った。
「今夜は、この下の寺で泊って、明日、病人と、口を利いて戻るがよい」
「はい」
「父御《ててご》の墓参りもするかの」
「はい、その、お墓は――」
「一寸、降ったところにある、案内しよう」
義観は立上った。綱手は、自分の家の出来事でなく、他人の世界の出来事を見ているような気がした。一月程の内に、江戸の長屋から追い出され、道中、父の死、兄の病――自分の生きているこの世の中の出来事として、その一つ一つを、はっきりと、感じる暇もなく――感じるにしては余りに大きく、深く、悲しいことが、引っきりなしに起って来たので、頭がぼんやりしてしまっていた。
「父の墓」
と、云われても、何っかに未だ父が生きているようで、死んだとも、斬られたとも思えなかった。
汚れた草履を履いて、義観の背後からついて行くと、竹樋《たけどい》から水の落ちている崖の下を降って、少し行ったところに、二尺四方に近い石を置いて、土の高くなったところがあった。義観が、その前に佇むと、綱手は、その土を見た。同時に、涙が湧いて来た。
「極楽往生はしておられる」
義観は、朗かに、自信ありそうに云った。
綱手は、石の前に、跪《ひざまず》いて合掌した。合掌すると、ただ、無闇に悲しくなって、涙が、いくらでも出て来た。
(兄もああだし――母がここにいたなら、三人で、ここで死んでもよい、死んだ方がよい。このお坊様に、回向《えこう》してもらって、この浄らかな山の中で、静かな――ほんとに、静かな――何んという騒々しい、いやな、世の中であろう。こんなところに住んで、何も見ず、何も聞かずにおったなら、何んなに楽しいであろう?)
自分の一家の運命と較べて、綱手は、いろいろのことを思った。
「それだけ泣けばよい。泣くと、胸が納まる。父御は、極楽で、今頃、いい御身分になっておられる。安心するがよい」
義観は、こう云って、堂の方へ歩み出した。百城は、最後の合掌をして
「綱手殿」
と、云った。綱手は、泣いた醜い顔を、百城に見せたくはなかった。袖で蓋《おお》うて、立上った。
床は、ちがっていたが、初めて他人の男と――それも、お互に好意をもっている男と、同じ部屋に寝なければならなかった。
綱手は、正気の無い兄、小太郎の身体を案じ、斬り刻まれた亡骸《なきがら》を埋めている父を悲しむと共に、こうした場合の自分の身躾《みだしな》みについても、細かい用意をしなくてはならなかった。
武家育ちとして、人に素の肌は見せぬものと、教えられていたし、嫌いでない百城の前であったから、風呂で、白粉をつけはしたが、鏡が無かった。
滅入るような、薄暗さと、静けさとの中で、綱手は、鏡無しでつけた白粉の、のり、紅の濃淡、髪の形を気にしながら、百城の前で、じっと、俯向いて黙っていた。
何か、月丸と、話をしたいし――話でもしなくては、耐らなく淋しいし――話しかけても欲しかったが、それでいて、月丸から、話されることを、想像すると、胸が、どきんとした。
(恋であろうか)
と、思うと、いつか、箱根路の闇の中で、益満の身体に触れたことが思い出された。
(大事の時に、何んという淫らな心――)
と、自分を叱ったが、いくら、叱りつけても、滑らかな、暖かい乙女の肌が、その時の感じを喜んでいて、益満の臭が、鮮かに、頭の中へ、蘇ってくるように感じた。
そう思って、俯向いていると、月丸が、じっと、自分の顔を凝視めているような気がした。そして
(白粉が、斑《まだら》なのかしら)
と、思うと、何んだか、それ一つで、月丸が、自分に愛想をつかすようにも思えた。
「静かだ」
月丸が、呟いた。綱手は
「本当に、静かでございますこと」
と、云いたかったが、いおうとしている内に、いいそびれてしまった。
(もう一度、何か、云ってくれたなら――)
綱手が、こう思った時
「綱手殿」
綱手が、顔を上げると、月丸が、正面から眺めていた。綱手は、俯向いた。
「はい」
「再び、お身を悲しませるようなものじゃが、八郎太殿はお亡くなりになったし、小太郎殿は――よし、命を取り止むるに致せ、あの深手では、不具――悪く参れば、不具とならんも計り難いし、又、腕の筋一つちがっても、二度とは、刀のとれんこともあるし―
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