言伝《ことづて》を――)
 と、思った時、小さい灯が、ちらちらした。
(家がある)
 小太郎が、そう思った時、灯が、左右に揺れた。
(提灯だ)
 小太郎は、呆然としていた眼を光らせた。
(追手の奴等?)
 そう感じた時、人声がした。小太郎は、立とうとした。腰も、脚も動かないし、立っても、逃げも、働けもしなかった。
(何うせ、死ぬのだ。捕えられては、隼人の名折れになる)
 小太郎は、顫える手で、脇差を握った。指も、掌も、固く凝っていた。提灯と、人声とが、だんだん近くなって来た。それは、足早く来るらしく、ぐんぐん近づいて来た。
(見事に斬らぬと――)
 と、思うと、何も考えることが無くなって、ただ腹を、見事に切ることだけが、望みのように感じた。
 小太郎は、脇差を抜いて、袴を切り取った。そして、刃へ巻きつけて、左手で、着物を押しあけた。しっかりと、帯を、袴を締めて来たので、弱っている力では、十分に披《ひら》かなかった。
(早くしないと――)
 小太郎は、両手で、着物を拡げてから、坐り直そうとしたが、うまく坐れなかった。
(何うにでも切ればよい)
 小太郎は、片足を曲げて坐ったように――片足を、横へ投げ出して、左手を草の中へつきながら、脇差を腹へ当てた。そして、間近に高い声が聞えると同時に、突き込んだ。
「何か――」
 と、いう声が聞えた。力が足りなかった。小太郎は、脇差の柄頭を地へ押しつけて、自分の身体を、のしかからせようとした。刀が滑った。
(不覚な)
 と、思った時、襟を掴まれた。

「聞かれたか」
 と、襖を開けて、脇差を腰から取りながら、袋持が、七瀬と、綱手とを見た。
「ええ?」
 綱手が、母の旅立の脚絆を縫いながら
「何を?」
 袋持は、床の間の刀掛へ、脇差を置いてあぐらになって
「牧氏の修法場へ、斬り込んだ者がおる」
 二人は、身体を固くして、胸を打たせた。
「二三人の小人数で――」
「誰方?」
 と、七瀬は云ったが、自分の声のようでなかった。
「さ、それが、殺されての」
「殺されて――」
 綱手の顔色が、変った。手が、微かに顫えてきた。
「牧氏の一行は、そのまま、江戸へ立ったし、顔見知りはおらぬし――牧氏の方々も、七八人はやられたらしい。京の邸から知らせて来たが、余程の手利らしく、見事に斬ってあったそうじゃ。もう、御帰国かな」
 袋持が、七瀬を見た。
「そろそろと――」
 固い微笑をして
「そして、牧様は?」
「牧は、無事に、今申した如く、江戸へ参ったが――」
「御無事で――」
「ここの、御家老も、近日、江戸下りをなされるが――」
「調所様も?」
「大殿の御帰国までに、行かねばならぬ用があるのでのう」
 二人は、調所のことを探りに来て、調所の人物に感心した上、今、江戸へ行かれては、誰にも、顔向けが出来ないように思えた。叡山で、斬られたというのは、八郎太であるか、ないか――そうした苦しいことが、小さい女の胸の中へ、いっぱいの毒|瓦斯《ガス》となって、いぶり立った。
「袋持」
「入れ」
 隣りの百城が、襖を開けて
「今、聞いたが――」
 と、云って、二人に挨拶をした。
「今、御二人に話したところじゃが、誰であろうな、牧氏を覘ったのは?」
「ふむ」
 百城は、坐って、腕組して
「詳しく聞いたか」
 と、袋持の顔を見た。
「いや、牧氏の無事と、七八人も斬られたのと、斬口の見事さと、残らず殺されたのと、これだけじゃ」
「同じじゃ。明日、わしは、京へ行くから、詳しゅう聞いて参ろう。一人、逃げたと申すでないか。若いのが――」
「それは知らぬ」
 七瀬が
「その狼藉《ろうぜき》者の名は?」
「それが判らぬ。乱暴者の手利なら、益満休之助と聞いておるが、或いは、そうかも知れぬし、手利は多いからのう」
「御家老は、何んと仰せられているか、知らぬか」
「頷いてばかりおられたそうじゃ――京への用は、御家老からか」
「ふむ、ついでに、詳しく調べて参れと、仰せられたが、牧氏が、御無事なら、余のことは、調べる程でもない」
 月丸は、微笑していた。

 七瀬と、綱手とは、隼人達の着て寝る、木綿の固い蒲団を着て、ぴったり、くっついて寝ていた。十九になる娘であったが、こうして、母親と、一つの床に添伏していると、子供の心になっていた。
「何んだか、妾には、お父様のように思えて――お父さんの斬られなすった姿が――」
 綱手は、小さい声で囁いた。
「不吉なことを云うものではありません」
「妾――明日、百城様と、京へ、様子を見に参りましょうか」
「さ、妾も、そう思うが、なまじのことをして、ここの人達に悟られてはならぬゆえ、百城様のお帰りを待って、万事はそれからのことにしようではないか」
「ええ――百城様は、お母様、敵でしょうか、味方でしょうか」
「さあ――口数の少い人ゆえ、聞いたこともないし、話したこともないが、袋持様の御朋輩なら、味方であろうかの」
 七瀬は、こういって
(百城様のような、無口な人は却って頼もしい。益満様とは、丸で打ってちごうた性質なり、振舞なり――)
 と、思った。そして、そう思うと、早く、綱手に、よい聟をとって、孫を見たい、と思っていたことが、まるで、ちがった方角のことへ来たのに、淋しさと、頼りなさとを感じた。それから、傍に寝ている綱手を見ると、不憫さが、胸を圧した。
(自分は、この子の齢より、一つ若い時に、八郎太へ嫁いだのだ)
 と、思い出すと、じっと、抱きしめて、愛撫してやりたかった。綱手は、江戸の邸にいて、月に一度、外へ出るか出ずに、男は、八郎太と、小太郎と、それから、益満とだけにしか、口を利く機が無かった。だから、手近い益満に、軽い、乙女心の恋を感じていたが、旅をし、男の数を知り――百城に逢うと、その顔立、物腰、寡黙の中のやさしさ――それは、益満の粗暴とはちがって、男の値打に経験の無い綱手には、ずっと、益満より、立ち優って見えた。
「世が世なら――もう、聟取りの頃じゃに、お父様の頑固と、今度のことで――来年は、二十歳になりますの。二十歳を越えると、世間では、不具者じゃとか、疵物じゃとかと申すのが慣わし故、なかなか嫁入口が、あるまいが――」
「御家老様が、何んとか――町人のところへと、いつか仰しゃりましたが」
「そうそう、あの話は、そのままになっているが――のう、綱手――百城様のような方が、味方なら、そちゃ、何んとしやるぞ」
 綱手は、少し赤らみながら
「百城様?――さあ」
「嫌いではないであろうの」
「ええ」
「益満様とは?」
「そりゃ」
「百城様」
「やさしゅうて、真実のありそうな――然し、明日立って、何時お帰りになるか、安否を知りたいし――綱手、大事の前ゆえ、よう心してたもれの」
「はい、もう、更けましたゆえ、お眠《やす》みなされませぬか」
「眼が冴えて、何んとなく胸苦しゅうて」
「妾も――」
「御無事であればよいが――」
「さっきから祈っていました」
「もしものことがあっても、取乱したり、悟られたりすまいぞ」
 二人は、夜具の中で囁き合った。そして、二人とも叡山で斬込んだ武士は、夫と、兄とだと思っていた。だが、それを口へ出すことは恐ろしかった。そして、そう信じながら一方では、その二人でないようにと、祈っていた。

「百城が京から戻りよった。追っつけ参るであろう」
 と、袋持が、いってから、一刻の余になった。二人は、百城が、何をいうか、聞きたいようでもあったし、聞くのが、恐ろしいようでもあった。
「遅い奴だの、何をしとるのか」
 袋持が、膝を抱いて、床柱へ凭れた時、草履の音がした。袋持は、すぐ、膝から手を、床柱から背を放して
「百城か」
 と、怒鳴った。
「おお、ようよう済んだ、一つ一つ、算盤玉に当られるので、手間取ってな」
 庭から上って来た。袋持が、身体を延して、障子を開けた。
 百城は、旅姿を改めたらしく、新しい着物に、袴をつけて
「待たれたか」
 と、二人に、声をかけた。二人は、百城の眼から、脣から、身体中から、夫の、父の、子の、兄の安否を、探そうとした。
「わかりましてござりますか」
「うむ」
 二人は、その短い声から、返事から、判断しようとした。そして、不安な胸を打たせていると
「現場へも、参った」
 百城は、女二人の問いに答えないで、袋持に話しかけた。
「比叡山の、何の辺?」
「頂上――物の見事に、斬ってあったそうじゃ。袈裟《けさ》がけに、一尺七寸、深さ四寸というのが、返す太刀で斬ったらしく、下から上へ斬上げてあったのは、人間業でないと、申すことじゃ」
「下から上へ、左様なことができるかのう」
「陶山《すやま》が、見た話ゆえ、確かであろう」
 七瀬と、綱手とは、待ちきれなかった。
「して、その狼藉者は?」
 百城は、黙って、じっと、袋持の胸の辺を見ていたが、急に、二人の方を振向いて
「狼藉者は――いいや、そういう名で呼んでは勿体ない。斉彬派の忠臣として、多勢を目掛けて、命を捨てに参ったのは――」
 それだけいって、二人から、眼を離し、袋持の方へ
「仙波八郎太父子」
 七瀬と、綱手との顔色が、少し変った。だが、七瀬は、すぐ、落ちついた声で
「二人きりでございましたか」
「御覚悟は、ござろうが、何う挨拶申し上げてよいか――」
 百瀬は、俯向いた。袋持は、腕組して、天井を眺めて、吐息した。
「八郎太殿は、斬死、小太郎殿は、生死不明――」
「生死不明とは?」
「斬り抜けるには、斬り抜けられたらしいが、それから、何うなされたか? 牧氏の人数が、二十余人、その中へ、二人での斬込では――」
「二十余人?」
 綱手の声は、顫えていた。
「八郎太は、斬死」
 七瀬は、ここまでいうと、声がつまってしまった。四人は、暫く黙っていた。
「八郎太は、斬死致しましてござりますか。本望でござんしょう」
 七瀬は、こう云うと、微笑した。
「頑固一徹の性《たち》で――何う諫めましても、聞き入れませず――」
 百城が
「小太郎殿は、京の近くに、知辺《しるべ》でもござろうか」
 と、母子の顔を見較べた。

「いいえ、知辺など――」
「うむ――知辺もないと――」
 百城は、腕組をして俯向いた。袋持が
「深手で、山の中へでも、倒れておられるのではあるまいか」
「さあ――坊主共が捜したらしいが、かいくれ、行方が判らぬ。深い山だからのう――御二人の前ながら、八郎太殿の性は存ぜんが、武士としては、かくありたいもの、のう袋持」
「善悪はさておき」
「いや、善悪から申しても、わしは、八郎太殿へ味方する。詳しゅうは存ぜぬが、一家の内の争として、申し分は双方にあろう。それは、互角じゃ。申し分を互角とすれば、御幼君を失うなど、悪逆無類の業ではないか? それに対して、斉彬方の人々が、お由羅様でも殺したとあれば、それは双方が悪いが、陰謀は一方のみじゃ。さすれば、八郎太殿ならずとも、わしでも立ちたくなろう。のう、七瀬殿」
「有難う存じまする」
 七瀬は、百城の同情に、暫く頭を下げていた。それは流れ出して来る涙を押えているのを見せないためでもあった。
「叡山と申す山は、高うござりましょうか」
 綱手が、少し蒼白《あおざ》めた顔で聞いた。
「高い山でもないが――」
「お母様――お兄様を捜しに参りましては?」
「なりませぬ」
 綱手は俯向いた。
「小太郎殿を、捜しに?――その儀ならば、某が手助けしてもよろしい。御家老へお願い致さば、五日、七日の暇は下さるであろう」
 百城は、こういって、七瀬に
「何故、捜してはなりませぬか」
「浪人者の上に、無分別な父へつきました不孝者――」
「いいや、それとは、事がちがう。正義とか不正義とか、そうしたことを離れて、ただの子として、親として、妹として、兄としての情義、真逆――例えば、八郎太の死骸を葬るとしても、一遍の念仏も唱えずに、無分別な夫と、足蹴にしては、人の道に外れましょう。それと同じように、小太郎殿の生死が不明なら、これを求めて、もし、逢えたなら、諫めて、正道に――正道ではなくとも、七瀬殿としては、小太郎殿の意見を翻《ひるが
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