経の声が、次第に高くなり、鈴の音が烈しく響き、人々のいる部屋の中まで、薄い煙が、のろのろと、忍び込んで来た。
「鉄砲役には――わしは、高木市助がよいと思うが――」
 と、いった時、山田が
「然し――主君に当る方を、鉄砲にて――は、ちと、恐れがあると、心得ますが――」
 近藤も
「某も、左様に存じますが――」
 靱負は、二人を見て頷いた。そして
「わしもそれを考えんではないが――」
 と、いって、一座を見廻して、微笑しながら
「何うじゃ、久光を討つのは、少し、過激すぎるかの?」
 と、聞いた。人々は、黙って頷いたり
「左様に存じます」
 と、答えたりした。
「では、将曹、平、仲の徒を鏖殺《おうさつ》するか」
「吉井、村野等の帰国を待ちまして、すぐ様、その手段《てだて》に取りかかりましょう」
 人々が、頷いて、賛意を表した時、玄白斎は、大声に
「是の如く、観ずる時、当《まさ》に、縛字を一切の身分に遍して、その毛孔中より甘露を放流し、十方に周遍し、以て一切衆生の身に灑《そそ》がん。乞い願くば、この老体を生犠とし、その因を以て、能く、当に、種子をして漸次に滋長せしむべし。※[#「田+比」、第3水準1−86−44]廬遮那如来、北方不空成就如来、西方無量寿仏、十万世界一切の諸仏、各々本尊を貌《うつ》して、光焔を発し、一切罪を焚焼して、幼君の息災を垂れ給え」
 それは、人間の声でなく、人間のもっている精神力の音であった。敵にとっては物凄き極の声と聞えるし、味方が聞くと、共に、祈りたくなる声であった。人々は、俯向いて、玄白斎と同じように、合掌する気持になった。そして、膝の上で手を合したり、心の中で合したりして、黙祷した。

 火炉の中から、だんだん燃え立って行く、赤黒い焔を、じっと、眺めていた牧仲太郎は、手を膝へ置いたままであった。
 正面に、懸けてある、お由羅が、大円寺から借りてきた、金剛忿怒尊の画像へ、煙がかかるようになっても、じっとしていた。
 仲太郎の、背後に、一段低く――だが、緞子の大きい座蒲団の、華やかなのを敷いて、珠数と、金剛杵とをもって坐っているお由羅は、眼を閉じて、低く、何か口の中で誦していた。
 仲太郎は、静かに手を延して、蛇皮を取って、火の中へ投じた。ばちばちと音立てて、赤褐色の火焔が昇ったが、低く這ってすぐ無くなってしまった。仲太郎は、沈香を取って、焔の上から振りかけた。そして、じっと凝視めていたが、小さい火が、ぼっと、立っただけで、何んの匂もしなかった。仲太郎は、眼を閉じて、俯向いた。そして、指を組んだまま、暫く、身動きもしなかった。
 護摩木が、だんだん燃えつくしてきて、焔も、煙も、小さく、薄くなってきたが、仲太郎は、まだ、瞑目したままであった。
 部屋の隅に坐っていた、黒衣をつけた二人の家来が、互に眼を見合せてから、ちらっと、仲太郎を見た。それと同時に、お由羅も、珠数を、左右へ劇しく振って、眼を開いた。そして、首を一寸、曲げて、火炉の中の火の消えかかっているのと、仲太郎の姿とを眺めて、家来の方を見た。家来も、お由羅を見て、眼が合った。暫く、三人は、仲太郎を、じっと凝視めていたが
「先生」
 と、お由羅が、声をかけた。だが、仲太郎は、俯向いたままであった。お由羅も、黙っていた。
 炉の中の火は、すっかり消えて、残り火が、ほのかに明るいだけであった。部屋の中の、薄い煙は、戸惑いしたように、天井を、襖の上をうろついているだけで、画像の姿も、朧げにしか見えなくなった。
「先生――如何なされました」
 お由羅が、こういうと、仲太郎は、静かに首を上げた。そして、黙って、壇を滑り降りて、沈鬱な顔をしながら
「暫く、行を廃すと致しましょう」
「ま――何んと、なされました」
 牧は、青衣を、静かに脱いで、家来に渡しながら
「恩師の、逆修《ぎゃくず》がござります」
「加治木玄白の?」
「左様」
 牧は、そう答えて
「行け」
 と、二人の家来に、顎で指図した。二人の家来は、襖を開けて、次の間へ去った。煙が、二人を追うように、出て行った。牧は、壇のところへ立ったまま
「祈って、祈れぬことはござりませぬ。さりながら――」
 首を傾けて、暫く、無言であった。
「さりながら?」
 と、お由羅は、催促した。
「さりながら、ここで、某、精魂を傾けますと、恩師の命を縮めまする」
「玄白の?」
「左様」
「それで?」
 牧は、お由羅を、正面から、睨みつけるように、鋭く見下ろした。お由羅も、同じように、見上げた。
 そのお由羅の眼の中には、いつものお由羅のやさしさが消えて、女性のもっている悪魔の性質が、獣の精神と、一緒になって、光っているような感じのする凄さが、現れていた。

「憚りなく、申せば――某《それがし》修法を行う前に、申し上げたる如く、仮令、御幼少の方とは申せ、某にとっては、天地に代え難き、御主君にござりまする。その御主君の命を縮め奉りますからは、元より一命は無き所存――さりながら、某が、お断り申せば、毒薬、刺客、何れの手でかによって、お仕遂げに相成りましょう以上、呪殺申すよりは、証拠も残り、仕損じることもあり――もし、それが、発覚する上に於ては、御家の大事、その騒乱は、恐らく御家始まって以来《このかた》の騒動となり、それこそ、島津の荒廃となり申しましょう」
 牧は、静かにこう云って、いくらか、険しくなくなった眼を、未だ、お由羅の正面へ向けて
「依って、某、命に代えてお引受仕りましてござります。然し――某は、兵道を以て立つ者、兵道を惜む念において、人に譲らぬのみか――好機――好機来、兵道の真価を示す時節来、何れは、お命の縮む御幼君――この大任を果せば、兵道無用の悪評の消ゆるは愚か、島津重宝の秘法として、この軍勝図は、再び世に現れましょう――某の面目は、とにかくとして、兵道家として、千載一遇の機――よって、命をかけ申しましたが――もし、ここで、恩師と、呪法を争えば、必ず、一方は、倒れまする。老いたりと雖も、玄白斎先生の気魄、霊気は、凝って、天地を圧するの概――これを破れば、老師を倒し、某とても、三年の間は持ちますまい。もし、某死し申して、余の――これから御出生の御幼君達が、余人の手にて、殺害されますならば、前申しましたる如く、御家の大事、又、兵道の絶滅、逸《はや》れば、即ち、二害あって、一利も無し――よって某、今宵より、修法を廃し、老師の霊気の散消するをまって、と――」
「よく判りました。して、その期限は?」
「霊気は、有にして無、無にして有、その消滅は、対手の精気により、場所により、齢により、微妙、精妙。ただ、ただ、老師の、肉体の力が、某の力に打ち克つか――如何。勝負はただこの一点、霊魄の強弱も、ここにかかっておりますが――散消の期は――」
 牧は、瞑目した。部屋の中は、小さい燈明の明りだけになった。牧の影が、大きく、襖に、ぼやけて揺いでいた。
「半ヶ年――」
「半ヶ年?」
「御幼君、肌つきの布に、悪血をそそいで祈りますれば、三ヶ月――」
「肌つきの?」
「左様」
「では、肌着を取りましょう」
 牧は、眼を開いて、じろっと、鋭く、お由羅を見た。お由羅は、壇上の道具を、じっと見ながら、微笑して
「丁度、その役によい者がおりまする、両三日の内に――」
 牧は、無言で、頷いて、歩み出した。襖へ手をかけて、振向くと
「御部屋、御自身の濫りの修法は、なりませぬぞ」
 と、いった。
「心得ております」
 牧は、そのまま礼もしないで、真暗な次の間へ消えた。お由羅は、気味悪い、少し悪臭のある部屋の中で、じっと坐ったまま、微笑していた。

  崩るる淵

 蛇にしめつけられているような悪夢が、小太郎の頭の中いっぱいになり、身体の四方を包んでいた。
 狂人のような眼を剥き出して、刀は、何処へ捨てたのであろう? 脇差を、尻の方に差して、口を開いて、血染めの片手で、脇腹を押え、片手で頭を押えて――切り裂かれた袴を引きずり、顔にも、着物にも、血をこびりつかせて、身体で、脚をひきずって行くように――よろめきつつ、立止まりつつ――
(水だ――水だ)
 じっと、一所を見ていた眼が、顔が、水音の方へ向いた。脚だけが、残りの力を集めて動いているだけで、手は、何処を押えているのか? 眼は、何を見ているのか、判らなかった。身体は、痛みに、燃えていたが、もう、自分の痛みなのか、人の痛みを、自分で感じているのかさえ、判らなかった。
 頭の毛が、手の血にくっついて離れなかった。その手を、人の手のように感じながら、静かに頭から放して、自分の前に、水が流れているように、震わしつつ、突き出した。そして、眉をゆがめ、肩で呼吸をしながら、小さい流れの方へ、身体を引きずった。
 蹲もうとすると、膝頭が、痛んで、曲らなかった。太腿へ、両手を当てて、少しずつ、蹲みながら、前へ転びそうになるのを支えて、暫く、そのまま眼を閉じていた。
(もう、追手に見つかって殺されてもいい。殺された方がいい。何れは、死ぬ――水を飲むと死ぬというが、死んだ方がいい)
 というようなことが、頭の中で、ちらちらした小太郎は、疵所の痛みと、深さとに、すっかり疲労してしまって、それ以外のことは、考えられなくなっていた。
(水だ、水だ)
 眼を開いて、手と、身体とを、前へ延すと、よろめいた。そして、片膝つくと、倒れてしまった。
(もう、動けない)
 暫く、そのままでいた。水の音と、風が葉末を渡るほか何も聞えないし、水の白く光っているほか、何も見えなかった。左手で、草をさぐり、水辺の近いのが判ると、草を掴んで、身体を、水の方へずらした。そして、右手で、水を掬《すく》って、掌の凹みから飲んだ。一口飲むと、つづけさまに、飲んだ。
 水は、水の味でなく、慰めと、薬と、この上ない甘い味とをもったもののように感じられた。小太郎は、水を飲み終ると、そのまま、草の中へ、顔を伏せて、身動きもしなかった。父の声のようなものが、耳の中でなく、外からでもなく、頭の中にでもなく、聞えているような、聞えないような――
(小太郎、右へ――)
 この耳で聞いたのだろうか?――父が、生きているような、殺されたような――殺されたにちがいないが、起き上って来たあの血染の姿――死んでいないのではないだろうか?――そう思うと、その辺に、父がいそうな気がして、顔を上げた。そして、見廻した。
 空には、冬の星が、冷たく、高くまたたいていた。
(動けない)
 小太郎は、自分の脚が、二本の重い、鉄棒のように感じた。自分の手は、こわれ易い土製のように思えた。
(明日の朝になれば、見つかって、殺されるであろう――それでもいい)
 小太郎は、又、水を飲んだ。水が、水の味をしていたし、冷たかった。手が、血で固くなっているのも判った。

 小太郎は、人の頭を、子供がいじるように、自分の頭の疵を掌でたたいて、指でいじってみた。疵口は、血でかたまっていた。
(そう深くはない)
 と、感じた。それから、手を這わせて、灼けつくように感じる身体の疵所へ、指を当てた。腕の疵は、口を開いていて、指が切口へくっついた。脇腹の疵は、疵よりも、そこから流れ出た血で、着物の肌へこびりついている方が大きかった。
(深手はないらしい)
 と、思った。と同時に
(死んではならない)
 然し、そう感じて、動こうとすると、身体は、鉛のように重かった。
(牧に捕えられては?)
 そう思うと、ここで、死んだ方が、立派な最期のように思えた。小太郎は、左手で、腰をさぐった。刀の鞘も無くなっていた。手を廻すと、脇差があった。
(腹は切れる)
 小太郎は、一尺二寸しかない脇差が、世の中で、一番頼もしい友達のように思えた。そして、脇差を力に、起き上ろうとした。一時に、身体も、手も、脚も痛んだ。
(これしきに――)
 半分、身体を起して、片手に脇差を、片手を地に、支えながら、起き上って、足を投げ出した。
(ここは、京だ。十三里西へ行くと、母も、妹もいる。逢いたいが――)
 涙も出ないし、悲しくもなかった。
(然し、逢えぬ。
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