しつつ――五寸、六寸、それは、短い時間であったが、庄吉には、耐えきれぬくらいに、長く感じた。だが、障子は開いた。庄吉は、障子を開けたまま、廊下の外に、猶《なお》、暫く、蹲んでいた。

 調所笑左衛門は、十年の間に、島津の家の基礎を作った人であった。常人以上の才分と共に、常人以上の精力と、胆力とを持っていた。
 二十年前、重豪公から、斉興公から、藩財整理を命ぜられたその日から、朝は五時に起き、夜は十二時に寝る人であった。そして、武芸者が、微かな音にも眼を醒すように、敏感な調所の神経は、夜中にも働いていた。
 だが、庄吉は、そういう、自分達と、類のちがった人を考えてはいなかった。調所は、眠っていると信じていた。夜中には、誰も、熟睡しているものと、考えていた。そして、調所も、熟睡はしていた。然し、障子が、一尺余り開いて、肌寒い、冬の夜風が、襟元へ当ると共に、眼を醒した。そして、そのまま、気配を窺っていた。
(手函を――)
 と、思ったが、迂濶に音立てたり、騒いだりしたくはなかった。茶坊主上りの調所ではあったが、人並の腕をもっていた。供部屋を起すには、まだ早い、と思った。
 庄吉は、部屋の中に音がしないのを知ると、静かに手の先を畳へつけ、それから掌を下ろし、掌の上へ腕の重さを、その上へ、身体をと――音もなく、這い出した。きまりきった宿の部屋であったから、闇の中でも、床の間の在所《ありか》、そこを枕としている調所の臥床《ふしど》は、想像できた。
 庄吉は、手さぐりに、押入の襖をさわり、襖伝いに、上手の方から、床の間の方へ這って行った。
 調所は、蒲団の中へ持ち込んでいる、波の平の脇差を、音もなく、鯉口を切った。そして、庄吉が、一寸ずつ、二寸ずつ、這って行くのと同じように、調所も、一寸ずつ、二寸ずつ、夜具を持ち上げた。
 庄吉は、床柱へ手を触れた。そして、触れると共に、じっと、蹲んだ。そして、調所が、何んの音も立てないのを見定めて、床の間を、盲目さぐりに――左から右へ、右から左へ――指が当っても、掌に触れても、音立てないように、ゆっくりと、手を動かしかけた。
 調所は、夜具を除けて、音もなく、坐った。そして、刀を抜いて、鞘を夜具の上へ置いた。そして、耳を澄ましていたが――すぐ片膝を立てて、右手に、脇差を構えた。風が、時々、薄ら寒く入って来た。
 庄吉の手に、冷たい、すべすべしたものが、触れた。指で探ると、蒔絵をしてあるらしく、撫でて行くと、一尺四方程の――それは、確かに、手函にちがいなかった。
(しめたっ)
 庄吉は、両手を蓋へかけて、引上げたが、細工のいい函の蓋は、すぐには、持ち上らなかった。
(函ぐるみ)
 と、思ったが、目的は、書類であった。この函の中に無かったら、又、別のところを探さなくてはならぬから、左手で、下の方を押えて、右手で、蓋を開けようとした。だが、小太郎に折られて、十分に癒りきっていない手であった。蓋は、一旦浮いたが、手がすべった。ことり、と音がした。
「誰じゃ」
 調所は、静かに、咎めた。そして、波の平の脇差をとって、蒲団の上で、居所を、少し変えた。声を手頼《たよ》りに斬りかかられても、空を斬らす、心得からであった。そして、脇差を抜いて、じっと、闇の中で、床の間の方の気配をうかがっていた。

 低い、静かな声であったが、庄吉は、見えぬ手で、一掴みにされたように感じた。じっと、呼吸を殺しているより外に、仕方が無かった。
(侍を呼びやがるかしら――)
 と、感じると、見えぬ闇に、槍が、手が、刀が、迫って来るように思えた。このまま、鼠の如く縮み上っているか、鹿の如く逃げ出すか?――だが、庄吉には、折角、手をかけた手函を捨てておくことは、男の意地として、出来なかった。
(まさか、調所の爺め、闇の中で眼が見える訳じゃあるめえし!)
 手函を持ったまま、じりじり後へ下りかけた。だが、いつ、調所が声を立てて、侍を呼ばんにも限らないと考えると、もう、じっとしておれなかった。
(この中のものさえ掴んで逃げりゃあいいんだ。中のものを――)
 調所は、そのまま、音のしないのを知ると、脇差を突き出して、じりじり床の間の方へ寄って来た。
(刺客ではないらしい、金をほしさの枕探しか――それとも、密貿易《みつがい》の書類を盗みに来た奴か――)
 調所には、この判断がつかなかった。ただ、曲者は一人で、まだ床の間にいるらしい、とだけしか判らなかった。
(こそ泥なら?――侍を呼び立てて、宿中を起すのは、武士として恥だ。書類を目掛けている奴なら?――然し、そんな奴は、いない筈だ――こそ泥であろう。懲らしめてやればよい、もし、大それた曲者なら、その時、声を立てても遅くはない、この宿の中を、そう早くは逃げられるものではない)
 そう考えたが、調所は、もう一度自分から声を立てて、曲者に、自分の居所を知らすのは、危いと思った。何う、反撃されるか、判らないからであった。
 庄吉は、呼吸をこらしながら、手函の蓋を、静かに引きあけた。そして、音のせぬよう蓋を懐に入れた。函の中へ手を入れると、その中には、予期していたように、ふくさ包の、書類らしいものが、入っていた。
 庄吉は、それを右手で掴み出すと共に――闇の中から、刀が首筋へ、今にも、斬り下ろされるように感じた。誰も入って来なかったが、四方から取り巻かれているように、身体が、恐怖で、縮んできた。
(糞っ、食え)
 と、肚《はら》の中で叫ぶと――今まで、自分の部屋を出た時から、音を立てぬように、出来ぬ辛抱を、気長にしてきたのが、もう、耐えられなくなってきた。
(勝手にしゃあがれ、べらぼうめ、書類さえ握りゃあ、こっちのものだ)
 と、思うと、同時に、音の立たぬよう左手で持ち上げていた手函を、床の間へ置いた。ことり、と音を立てた。
「えいっ」
 その声は、低い――だが、力のあるものだった。庄吉が、首をすくめた刹那
(しまった)
 と、肚の中で、絶叫した。右腕に、灼熱した線が当ったと感じると、腕を貫いて身体中に激痛が走った。ぼっと、音がした。血の噴出する音だった。庄吉は、ぐらっと右手へよろめいた。そして
(腕を斬り落された)
 と、感じた。自分では、指も、手首も、未だくっついているように思えたが、激痛に縮み上るような右手へ、左手を当てると、腎《ひじ》から切り落されてしまっていて、生温かい血が、すぐ指の股から、流れ落ちた。
(しまった)
 と、思うと同時に
(畜生っ)
 庄吉は、眩暈のしそうな、頭を、身体を、じっと耐えて、左手で、素早く、書類を握りしめたまま斬り落されている腕を掴んだ。

 調所は、十分の手答えを感じた。腕を斬り落したのが、明瞭《はっきり》判っていた。安心して、然し、十分に注意しながら脇差を構えたままで、暫く、じっとしていたが――ふっと、障子の方に、人の気配がしたので、耳を立て、目をやると、微かな足音が遠のいて行った。調所は
(しまった)
 と、心の中で叫んだ。そして、その瞬間、大声で
「南郷っ」
 と、呼んだ。答えが、無かった。
「南郷」
「はっ」
「曲者が入った」
 その大声の口早の、平常の調所の声でない声と同時に、襖が開いた。
「御前」
「曲者だっ。逃げたらしいが、早く捕えい」
 供部屋の人々が、一時に、起き上った。一人が燧石を打った。閃滅する、微かな光の中に、人々が、刀を持って立っているのが判った。だが、調所の部屋までは、光が届かなかった。
 二人が、廊下へ走って出た。調所の部屋へ入ると、一人が、襖の右の方へ立った。一人が、左の方へ立って、両方から包囲しようとした。付木がついたので、行燈へ灯が入ると共に、調所が、
「床の間を見てみい。片腕が、落ちてる筈じゃ」
 と、いつもの調子で云った。南郷が、行燈を持って床の間へ近づいた。灯のとどくようになってきた床の間を、すかして見ていた調所が、首を延して
「無いか」
 と、叫んで、寝床の上へ立上った。そして、床の間へ足早によって、手函の中を覗いた。眼が光った。
「しまった」
 と、呟いた。床の間の上には、血が、夥《おびただ》しく淀んでいた。そして、確かに、落ちている筈の腕が無かった。南郷は、行燈を置いて、四方を見廻していた。
「追えっ。遠くへは、行くまい。血の跡があろう。宿の者を起して、街道、抜道へ、すぐ手配りするよう」
 供の人々は、一時に、廊下へ出た。調所は、寝床の上に立ったまま、血の真黒に淀んでいる床の間を、睨みつけていた。
(あの中の書類には、密貿易の証拠となるべき物がある。もし、人の手に渡ったとして、その人に依っては、自分の破滅だけではない、島津の破滅の因になるかもしれぬ。鼠賊だと、侮ったのが不覚であった。相当心得のある忍び者であろうか?――それにしても、確かに、斬り落した片腕の無いのは?)
 宿の中が、急に騒がしくなって、番頭が、足音忙がしく入って来た。
「まことに、相済みませぬことで――入ったような形跡はござりませぬが――」
「宵に、酔って踊って来た奴があったのう、あの部屋を調べてみい」
「かしこまりました。裏道、抜道へは、よく知った者を出しましたし、御役所へも走らせましたから――」
 調所は、黙って、床の間へ歩いて行った。手函の空なのが、血の上にあった。覗き込むと、その中にも、血がたまっていた。
(破滅か)
 調所は、静かに蹲んで、眼を閉じた。
(俺は、もう、いい齢だ。いつ死んでもいい。功も成し遂げた。名も残るであろう。総てを、己一身に負いさえすれば――主家には、難題のかからぬ法もある――だが、捕まるものなら、捕まえたい――もし、宵の男なら?――あいつなら、金と、書類とを間違えたのであろう――それにしても、腕の無いのは――)
 調所は、寝床の上へ坐って、腕組しながら、自分のしてきたことを、昔から、細かく想い出してみた。

 庄吉は、自分の斬り落された右の小腕を、しっかと、左の手で掴んでいた。そして、掴まれている小腕は、又手函の書類を、しっかり、握りしめていた。
 庄吉は、右手の切口を、箱の蓋の中に入れて、血の落ちるのを防ぎながら、作っておいた裏手の逃路から出ようとした。その途端、調所の部屋の方で、大勢の足音がした。庄吉は、自分の傷を知って、長く逃げられぬと思ったから、すぐ右手の納屋の中へ入って、隅の方の薪、炭俵の積み上げた中へ、もぐり込んだ。
 傷口を縛ろうとして、左手で握っている自分の、斬り落された腕を、下へ置こうとしたが、何故か自分の手から放すのが厭なような気がした。斬り落された小腕は、愛人のような、愛児のような、自分の命のような――何にも更え難い、可愛い、そして、不憫なもののように、思えた。自分の手から放すと、自分を怨んで泣くように感じた。
(しっかり、そいつを握って、暫く、待っていろ。俺《おいら》あ、血を止めねえと、命にかかわっちまうからの)
 と、頭の中で、腕にいい聞かせて、自分の股のところへ立てかけた。そして、手拭、頬冠りの黒い布、襦袢の袖、腹巻の布と、ありったけの布で、二の腕の上を縛り、傷口を巻いた。
 頭が少しふらつくようで、額が冷たく、呼吸が、いくらか早くなっていた。
(いけねえ、このまゝ死ぬんじゃあねえかしら?)
 腕から、肩へかけて、灼け、燃えるようで、身体の底まで、疼痛《とうつう》が突き刺した。人々の叫び声と、走る音と、提灯とが、すぐ前で、飛びちがった。
(何うにでもなれ)
 炭俵に、身体を凭せかけて、足許へ置いておいた腕を懐へ入れた。腕はもう冷たくなって、切口からは骨が尖り出ていた。
 庄吉は、自分の命が、この腕の中に籠っているように感じた。この腕に、書類を握らせておいたら、自分が持っているよりも安心だし――
(ひょっとしたら、この腕に、足が生えて、深雪のところへ、この書類を届けてくれるかもしれんぞ)
 と、いう気さえした。斬り落されて、もう、生命の無い小腕だとは、十分に分っていたが、庄吉には、何うしても、生きていて、奇蹟を現すもののように思えた。
(こういう廻り合せだったのかなあ――最初あ小太郎に折られ
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