れますよう」
斉興は、蒲団の上へ丸くなったまま、黙っていた。
「紡績機械を作ります」
「紡績と――申しますと」
「将曹には、判らん――母上、御祈祷について、いろいろ噂がござります。おやめになった方が、よろしゅうござりましょう、愚にもつかん迷い事を――」
三人は、黙っていた。
「いろいろ噂はあるが、私は、何も聞かぬ事にしております。将曹も、聞かさぬようにして貰いたい。時々は、兄上へ伺候して講義を聞くがよい。為になるぞ。兄は、方今《ほうこん》、天下第一の人物じゃで、少し見倣うがよい。わしは一々、兄の真似をしておる」
三人は、未だ、黙っていた。
「世間も、乱れて参りましたが、当家も乱れて参りましたな、母上」
「そうかえ」
「父上が、近頃、少し、愚に返っておられる。のう、父上」
「何を申す」
斉興は、苦笑して
「何か、急用でもあるのか」
「ござります」
「又、お金かえ」
「母上、支那の楊貴妃を御存じでしょうが――譬《たと》えますと、父上は、玄宗皇帝――」
将曹が、おどけ調子で
「天にあって比翼の鳥、地にあっては連理の枝」
「暫く、黙っておれ」
久光は、将曹を睨みつけた。
「初めの政治は、よろしゅうござったが、楊貴妃を得て、だんだん悪政になりましたな。な、父上」
「わしが、それで玄宗か」
「左様、十年前の父上は、寝るにも、木綿蒲団でござりましたな」
「それは、久光、手許不如意であったからじゃ。今の身分で、これなんぞ、決して奢りではないぞ」
「いや、物よりも、お心持が――島津家は、代々世子が二十歳になれば、家督を譲る筈でござりますが、兄上は、四十を越しましてござりましょう。而も、将軍家から、父上は御茶入を拝領して、隠居せよと、謎をかけられていなさるのに、未だ、頑張って――近頃、いろいろの噂の大半は、ここにも原因がござります」
「それはのう、久光、斉彬は、蓄財よりも、蓄財を使う奴じゃ。そして、天下は、今、蓄財の使い時じゃで、わしと、調所が、せっせと蓄《た》めて、お前等兄弟に、使わせてやりたいのじゃ。隠居をしても、祖父様のように、する事はせい、と、お前なら、申すであろうが、それは、よく判っとる。然し、斉彬の近側の徒輩には、血気の、軽輩が多い。奴等は、よく、その熱と、誠とで、天下の仕事をするではあろうが――斉彬も、させるであろうが――地味な、蓄財の才能は無い。だから、今、わしが隠居すると、わしの育てた理財家と、斉彬の愛しておる急進派とが、きっと又、いがみ合うにきまっておる。わしも、調所も、これを憂えている。何も、わしが、頑張って――斉彬が憎うて、家督を譲らんのではない。もう少し、斉彬が、理財を、わしに見倣ってくれたらと、申すのじゃ」
久光は
(父は、まだ、老いない)
と、思った。だが
「御言葉は、よう判りますが――又、例えば、仙波を、即日、邸払いにしたり――」
「仙波を――いつかの、人形の奴か」
と、将曹に聞いた。
「はい」
「存じておるか、即日の邸払いなど」
「さあ、一向に――」
と、いう将曹へ、久光は、鋭い眼を与えて
「存じておる、存じておらぬに拘らず、貴殿の落度ではないか――父上よりも、側役共が老いぼれているのかな。少し、兄上近側の、若手と取更えられては? 父上」
久光は、いつになく、鋭かった。三人とも、その気魄と、自分達の、後ろめたさとで、黙っていた。お由羅は、久光に、こういわれながら
(だんだん利口になってくる)
と、じっと、微笑して、久光の顔を、眺めていた。
片手斬り
「チャン、スチャチャン、チャン、スチャチャン。おひゃりこ、ひゃりこで、チャン、スチャチャン」
庄吉は、大声で、怒鳴って、部屋から、廊下へ出た。泊り客は、宵の内であったし、庄吉の、枯れた芸に、微笑をもって、同じように、廊下へ出て、庄吉の踊を迎えた。
庄吉は、眼の周囲を、墨で黒く塗って、脣を、紅で大きくし、頬と、額へも、白粉で、筆太に彩っていた。
酌婦と、宿の女中とが、半分、酔いながら、興の乗ったままに、三味線と、太鼓と、鼓とで、けたたましく声立てて、囃し立てて、庄吉について出た。
「お盛んで――」
番頭が、金離れのいい庄吉へ、揉手《もみで》をして御叩頭した。
「番頭も入った。テレツクテン。御鼻が、御獅子で、テレツクテン」
「どうも、恐れ入ります」
番頭は、自分の鼻を押えた。客が、くつくつ笑った。庄吉は、懐から、紙入を出して
「帳場へ、あずかっといとくれ」
「確かに――只今、お印をもって参ります」
番頭は、こう云って、一人の女中へ
「奥に、薩摩っ坊がいるで、余り、近寄らんように――煩いから」
と、囁いた。庄吉は、手を振り、足を上げて
[#ここから3字下げ]
チャカ、スチャラカ、ステテンテン
お馬は、栗毛で、金の鞍
さっても、見事な
若衆振り
紫手綱に、伊達奴
鳥毛のお槍で
ほーいの、ほい
チャカ、スチャラカ、スッチャンチャン
栗毛の、お馬に、米つんで
さっても、見事な
与作どん
縄の手綱に、半襦袢
小万の手を引き
はーいの、はい
[#ここで字下げ終わり]
庄吉は、女達を従えて、二階から、下へ降りて来た。勝手元の女中も、店の間の女も、向う側の人々も、その騒がしさと、踊と、唄とに集まって来た。
「余り、奥へいらっしゃらんようにの」
「判ってらあ――へん。奥にゃ、天神、寝てござる。中にも、天神寝てござる。奥の天神のいうことにゃあ――」
庄吉は、畳廊下を、よろよろしながら、女達と少し離れて、一人奥の方へ、進んで行った。女共は、番頭に止められて、階段の下で一塊になって
「もう、お帰りな」
と、叫んだ。
「煩いっ、どこまで参る」
襖が開くと、一人の士が、庄吉を、睨みつけて、怒鳴った。番頭が、すぐ、走って来た。庄吉は、廊下へ手をついて
「命ばかりは――おたおた」
と、御叩頭してしまった。部屋の中には、まだ数人の侍がいた。番頭が
「さ、あちらで、旦那、もう、一踊、ここは、貸切りでござりますゆえ」
「おた、おた、おた、逢うたその夜は、しっぽりと、のう、番公」
庄吉は、いきなり、番頭の首をかかえて、頬をなめた。
調所笑左衛門は、年一度の江戸下りのために、五人の供人を連れて、駿府まで来た。二十何年のあいだ、幾十度《いくじゅうたび》か往来した街道で、すっかり、慣れてはいたが、もう齢が齢とて、或いは、今度の、江戸行が、この街道筋の見納めになるかも知れぬ、と思うていた。
(もし、自分が、急死でもしたなら?」
調所は、島津家の財源を豊かにした密貿易《みつがい》の責任を、自分一個で負うため、その総ての関係書類を、何時も、手早く、処分はしていた。が、それでも、処分できぬ、最近の分だけは、自分の懐に秘めていた。
(江戸へ着いて、早く、この書類を始末して――)
と、床の間の、手函の中に仕舞った書類入の方へ眼をやって、湯上りの身体を、横にしていると、酔漢を、たしなめている供人の声がした。
(面白そうに騒いでおるが――わしには、一日も、ああいう日は無かった。斉興公も、近頃は、政務を疎んぜられてきたが、御無理もない。わしも、心《しん》から、疲れたと思う。然し、斉興公が御怠慢なら、わしは、その分も、自分でしなければならぬ――ただ、時世が、違って来たのか? 人間が変ったのか? ここ十年の内に、ひどく仕事がし難うなった。斉彬公のなさることは、半分はわかる。いい仕事にはちがいない。然し、その仕事にかかる金子の作り方を御存じない。いつだか、いい仕事は、金子を産む、と仰しゃったが――それは一理だが――すでに、重豪公がいい仕事をなすって、金子を産まなかった例《ためし》がある)
調所は、斉彬の、明敏に敬服していたが、一藩の主としては、久光の大過なき点の方がいいと、信じていた。そして、久光擁立に賛成した。
「只今は、何うも、大変、お騒がせ致しまして申訳もござりませぬ」
宿の番頭が、襖から、謝りに来た。
「よいよい、気に致すな」
「有難う存じまする」
調所は、番頭が立去ると、いつも思い出すように、二十年前、同じ宿で、呼んでも、女中さえ来なかった貧しい旅を思い出した。
(江戸と、京と、大阪の御金蔵には、百万両ずつの金がある。日本中と戦っても、二三年は支えられる。斉彬公は、近い内、異国とか、或いは、国内でか、一戦あろうと云われたが、三百万両の軍用金を積んであるのは、当家だけだ。その金子は、わしが儲けて、積んだものだ。よいところに使われても、悪いところに使われても、わしの功績は、永久に、島津家に残るであろう。それを積立てる間に、悪口も云われた、斬られようともした。然し――)
調所は、行燈を消して、仰向きになった。
(こういうことを考えるのは、気の弱ったせいじゃ。早く眠って、早く起きて)
調所は、肩の辺の夜具を叩いて静かに呼吸を調えた。隣室の供人も、寝入ったらしく、静かであったし、二階も、下も、勝手元も、しんとしてしまった。
(することをした。安心して死ねる。南無阿弥陀仏)
調所は、心の底から、安心し、喜悦して、眠りについた。それでも、蒲団の中には、たしなみとして、波の平の脇差が、忍ばせてあった。
寝ずの番が、ぽとぽと、廊下へ草履の音を立てて、廻ってしまった。
庄吉は、静かに、頭を上げた。床から起き出した。そして、真暗な中で、手を延して、床の間の小さい旅行李を取って、脚絆を当てた。それから、草鞋を履いた。寝間着を脱いで、黒い袷に更えて、十分に帯を締めた。
それから、行李と、枕とに浴衣を着せて、蒲団の中へ押し込んだ。人が一人寝ているくらいのかさになった。
襖の、敷居へ、枕許の水差の水を流して、一分ずつ、二分ずつ――それは、大事をとる庄吉の用心からであった。一度に、一寸も、二寸も開けて、もし、音がしたなら、それは、自分の身の破滅でもあり、又深雪への恋心、深雪へ一手柄を立てさせ、自分の男の意地を貫こうとすることに対して、何んな破綻を来すかも知れない、と思う用意からであった。だが、心の中では
(泥棒様は、初開業だ。うまく行きゃあ、お慰み――じれってえが、ここが辛抱のしどころだ――ならぬ辛抱、するが辛抱――)
指で計ると、五寸余り開いていた。
(南玉が、いつか、高座で云ったっけ――何んとかの、頭陀《ずだ》袋、破れたら縫え、破れたら縫え――ってんだ)
一尺余り開いた隙から、身体を横にして、廊下へ出ると、開けるのと同じような忍耐で、襖を閉めた。そして、階段《はしごだん》の上へ出ると
(ここが、千番に一番の兼ね合い、首尾よく、音も無く降りましょうものなら、お手拍子、御喝采、テテンテンってんだ)
庄吉は、階段の板を踏んで、音の立つのを恐れた。
(太夫、高座まで、控えさせまあーす)
と、口の中で、云いながら、頑丈な、手摺《てすり》へ跨《また》がって、やもりの如く吸いついた。そして、一寸ずつ、二寸ずつ、その都度、四辺の人の気配を窺いつつ、静かに、音も無く、滑り降りて行った。
庄吉は、暫く、階段の下へ蹲《しゃが》んでいたが、黒い布で頬冠りして、尻端折になった。柱行燈の灯が、遠くに、ほのぼのとしているだけで、ここから、調所の部屋までは、廊下だけであった。真暗な、闇だけであった。
壁へ、身体をつけて、横に伝って、供部屋の様子を窺った。小さい、鼾《いびき》の外に、何んの音もなかった。庄吉は、耳を澄ましつつ、静かに、供部屋の前を、這って通った。そして、板の臭、壁の臭を嗅いで、さっき、酔った振りをして、見定めておいた、調所の部屋の前まで来て、詰めていた呼吸を少しずつ吐き出した。
(やり損えば、首は提灯屋へ売って、胴は蒟蒻屋へ御奉公だ。南無天王様、観音様)
濡れ手拭の水を、敷居へ流し込んで、じっと、内部の気配を窺っていた。咳も無く、音も無く、鼾も無かった。顔が、ほてって、心臓が、どきどきしてきた。
(庄吉、周章《あわ》てちゃいけねえぞ)
と、首を振って、一分ずつ、二分ずつ――呼吸が苦しくなって、大きく吐きたいのを我慢しながら、顫える手を、膝を、顫わすまいと制
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