った。だが
「左様でござりましょうか」
 と、答える外になかった。成瀬と、村野の二人は、銃を、膝の上へのせて、斉彬をじっと凝視めていた。

 斉彬は、机の上の帳を、時々見ながら
「それが、朝鮮で、戦って戻ると、銃の効能が判ったのだのう。旗十八本、五十四人。槍、弓、鉄砲、各々百五十人。合せて前奇隊五百四人に組|更《か》えておる。関ヶ原の時、伊達家は三千人の同勢中、千二百人まで鉄砲を持たしていたし、それが、大阪の陣になると、仙台名代の騎銃隊が現れてきた。これが、イギリスのホブソンの、騎兵要妙という本じゃが、これからの戦には、銃の精鋭なものと、馬のいいのとが無くてはならぬ。壱岐《いき》が来よったから、軽輩に、馬の稽古させて、騎銃隊を作るのだと申したら、軽輩が大勢馬上で、拙者らが徒歩で、もし出逢った時には、一々下馬して通りますか、それとも乗打ちしますか、たださえ、上を軽んじる風が現れた折、考えものだ、と、申しおったが、何うじゃ。あはははは」
「然し、その大勢が、一時に、馬上で銃を放ちましたなら、馬が驚きましょう。敵を崩す前に、却って味方が――」
「よしよし、判った」
 斉彬は、笑って、手で押えた。
「何か、子供につける、よい名はないか。又、妊《ほら》んだらしいぞ。死ぬと、すぐ代りが出来るで、案じることはない。あはははは」
「然しながら――」
「今度は、双生児《ふたご》に致そうかの」
 三人とも、斉彬の前では、手も足も出なかった。何をいっても、斉彬の方が、遥かに上であった。それは、主君としてでなく、人間として段がちがっていた。そして、斉彬は、なかなか、何用か、と自分からいい出さないで、ちゃんと、その用を自分が先廻りに云って、それからいろいろの知識、故事を語って、ようよう伺候者《しこうしゃ》が、彼等の語ろうとして来た用件をいうと、斉彬は一言で、その諾否を決した。そして、それで、用が終ると、きっと斉彬は、机に向った。人々は、退出の外になかった。それを心得ていたから、名越は、固唾《かたず》を飲みながら
「寛之助様、御死去につきまして、いろいろ、取沙汰もあり、家中の所置方にも、偏頗《へんぱ》の傾あり、国許より、この人々――」
 名越は、大奉書に書き並べてある人々の署名を、つつましく、斉彬の方へ、押し出した。斉彬は、手にとらないで、じっと眺めて、頷いた。
「江戸におきまして、吾々同志」
 名越は、斉彬の眼に従って、連名を見ながら
「合せて、五十余人――この外、御目見得以下の軽輩に、頼もしきもの幾十人もおりまする」
「志はよう判る――村野、成瀬――もっと、前へ出るがよい。然し、今の時世が、家中に党を立てて、私事、私怨を争う――」
「恐れながら、私事では――」
「斉彬も、寛之助も、当家にとっては私事にすぎぬ。島津は愚か、徳川も、或いは日本の国も、危急存亡の秋《とき》に立っているのが、只今の時世だ。久光に命じて、吉野ヶ原に於て、青銅製|口装《くちごめ》五十斤の滑腔砲を発射させたのは、未だ二三年前で、当時、天下はこの新武器に驚愕したものじゃ。ところが、舶来船の砲を見ると、鋼鉄製百二十斤、元装の連発砲さえ出来ておる。よいか、こと軍事のみでさえ、この隔りがある。暦数、医薬、財政、哲理、一として学ばざるを得ない外国が、ひしひしと、日本を取巻いて、戦ってか、外交でか、交易をしようとしている。香港の阿片戦争の結末を聞いて居ろう。戦えば、あれじゃ。戦わねば――二三要路者と、わしとの外、悉く攘夷――父も、攘夷、家老等も攘夷。日本のために、島津家のために、わしは、この声だけと戦っておる。その外に争うものは、何もない筈じゃ。もし、お前達も攘夷党なら、早速退るがよい。わしは今、日本を、双肩に負うたつもりである。私情を顧みる暇がない」
 斉彬の、和かな眼に引きかえ、舌端には灼けつくような熱があった。

「久光にも、お前達、何か不満があるらしいが、それもいかん。あれには、立派に、一国の主たるべき器量がある。わしの亡くなった後、誰が継ぐかと申せば、久光の外にない――」
「いえ、若君が――」
「それはよいとして、その若の後見は誰がする?」
「はっ」
「まさか、ただ今申した家老の愚かしいのにも任せておけまい。したなら、久光の外にあるまい。今、私の考えていることを実行さして、天下を安きにおくのには、名越、わしと、久光と二代がかりの仕事じゃ。そして、わしと、久光とより外、余人にできぬことじゃ。そして、わしと、久光とだけが、それを知っている」
 斉彬は、ここまでいって、急に、言葉の調子を変えた。
「ところがの――打明け話をすると、わしは、未だ部屋住同様の上に、父上の受けも、調所の受けも、家老共の受けも、よろしゅうない。受けの悪いくらいは、まあよいとしても、金が出ん。これは困る。ところが、久光が、一々わしの意を継いでくれて、わしがこうしたいというと、よろしいと引受けては、金を引出してくれる。わしは、このくらいいい兄弟は無いと思うている。磯ヶ浜の鋳製所も、久光が調所にねだってくれたので、出来たのだしのう――」
 斉彬は、笑いながら
「船を作ろうとして、シリンドルと、シャフトを鋳造したいと申したら、久光が、由羅の臍繰《へそくり》から、捲上げて来てくれた。大名の子供は、何処でも仲のよくないものじゃが、わしら二人は、軽輩の家でも見られぬ睦まじさじゃと、いつも、二人で話しとるが――名越、よう考えてみい、わしと、久光が仲がよいから、まだわしの命も、仕事も、大丈夫なのだぞ。お前達、妙なことをして、二人の間を疎外したなら、それこそ、何うなろうかもしれぬ。この連判の者は、硬直、精忠の人ばかりだが、一徹者揃いだから、十分、気をつけてのう――村野、戻って、一同に、わしの、今まで申したことを、よく伝えてくれ」
「はっ」
「皆の用事は、それまでであろう」
「一つ、お願いがござります」
「うむ」
「加治木玄白斎殿より、殿の御肌着を頂戴して参れと――」
「祈祷でも致すか」
「さあ――」
「それもよろしかろう。次にて待て、持たせてやろう」
 斉彬は、机の方へ向き直った。
「御暇頂戴仕ります」
 三人は、頭を下げて、膝で歩きながら、襖際まで退った。そして、一礼して、次の間へ出て、待っていた。斉彬は、何か書きながら、鈴の紐を引いた。出て来た近習に
「奥へ参って、わしの肌襦袢をもらって参れ」
 と、命じた。そして、小姓が持って来ると、自分で着更えて、今まで肌についていたのを携えながら、襖を開けて
「村野――少々汗臭いぞ」
 と、三人の前へ抛げ出した。村野は、押頂いた。斉彬は、戻って、すぐ机の前で、何か書き始めた。三人は、同志の前で、斉彬のえらさを、何う説明したらいいかを考えながら、薄暗い廊下を退って来た。
「わしらとは、眼のつけどころが、ちがうのう」
「ただ、頭が下るだけでござりまするな。天下の主たるべき方は、この君を置いて外にあるまい」
「そう。志ある者は、悉くそう考えている。京師でちらちら聞いた。この君を擁立して、幕府を倒そうという考えも――成る程――世間からも、そう見えるかのう」
 三人は、家中の陰謀の企てなど、すっかり忘れて、明るい気持で、退って来た。

 斉興は、土へ紙を貼って蒔絵した、小さい手焙に手をかざし、脚は、友禅羽二重の蒲団を被せた炬燵《こたつ》へ入れて、寝そべっていた。
 お由羅は、紫綸子の被布を着たまま、その向い側へ膝を入れて、斉興の腓を揉んでいた。斉興の前には、用人と、将曹とが、帳面と、算盤とを置いて坐っていた。
「その五十両は、こいつが、芝居へ行った勘定じゃ」
 斉興は、首を延して
「のう」
 と、由羅を見た。
「芝翫《しかん》の時に、妾が頂いて参りました」
 用人が、二人の顔を、交る交る見てから、小さい声で
「その通り、書きましても、よろしゅうございましょうか」
「いかん、いかん。そんなことを書いたら、調所め、何う申すか、判らん」
 将曹が、首を振った。そして
「五十両は、ちと、多すぎまするな」
 と、由羅へ、微笑した。斉興が
「こいつは、芝翫に惚れとおる。娘時分からの肩入れで、わしの眼元が、芝翫に似とおるからと申して、それで、やっと、屋敷奉公を承知したくらいじゃ」
「初めて、承わります。なかなか、芝翫は、よい役者だそうでござりまするな」
 用人が、真面目な顔で、世辞を云った。
「然し、もう、皺くちゃで――あ痛っ、毛をむしる奴があるか――何も、芝翫を、皺くちゃと申したのではない。わしが、くちゃくちゃだと、申すのじゃ。やれ、痛い、おお、痛い」
 斉興は、片脚を、蒲団の下から投げ出して、唾を塗った。将曹が
「お睦まじき体を拝し、臣等、恐悦至極に存じ奉ります」
「将曹も、ちょくちょく、毛をむしられるてのう」
「上を見倣《みなら》わざる臣はござりませぬ」
「何を申す、この馬鹿。家中一同毛が無くなっては、蛸の足みたいでないか」
 お由羅が、ぷっと吹出して、炬燵の上へ打つ伏した。
「戯談は、さて置き――帳尻を合せましたなら、ちと、密談を――」
 斉興が、頷いて、用人に
「その五十両、小藤次へ貸付としておけ。よいであろうが、由羅」
「はい」
「では、退れ」
 用人は、算盤と、帳面とを持って、退って行った。
「齢をとると、寝ても痛む、起きても痛む」
 と、呟きつつ、大儀そうに斉興は坐り直した。
「うるさい奴等が、騒ぎよるか」
「はい、江戸よりも、国許の手合が、立騒いでおります。第一に、加治木玄白斎が、牧の修法を妨げております。それに、力を添えて居ります者に、島津壱岐、赤山靱負、山田一郎右衛門、高崎五郎右衛門――以下は、軽輩でござりますが――」
「よし、近々、わしは、国へ参るが――考えておこう。それだけか」
「未だ、大変なことが――」
 将曹は、眼を光らせた。お由羅が、ちらっと、将曹を見た。そして
「赤山様まで?」
「よって、油断がなりませぬ」
 赤山靱負は、一門の中でも、名代の人であった。

「いつか、調伏の人形を、床下より掘り出して持参致しました、仙波なる者――」
「うむ」
「父子にて、牧の調伏所へ斬込みました由、いよいよ不敵なる振舞――」
「成る程のう、そんな事まで、致すようになったか?」
「尋常の手段では――いつ何時、御部屋様などへも、危害を加えるか計られませぬ」
 斉興は頷いた。
「それに、国許より度々の密使が、斉彬公の許へ参っております」
「そうあろう」
「国許では、久光公がござるゆえ、かようのことも起る。根元は、久光公ゆえ、この君を討取れなどと、悪逆無双の説をなす徒輩《やから》も、ござります」
「久光を?」
 と、お由羅が、いった。
「罪も、咎《とが》も無い久光を――」
 お由羅は、憎悪のこもった声と、眼とであった。
「申しようの無い不敵の奴等で、余程、厳しく致しませぬと、懲りぬと、心得まする」
「そうじゃ。わしの、帰国も、迫っておるし、調べて、厳重に罰してみよう」
 斉興は、蒲団の上へ顎を乗せて、背を丸くしながら
「久光は、そうした話を存じておるのか」
「手前は、話し申しませぬが――」
「いわん方がええ。あれに知れると、いろいろと、うるさいので――」
「本当に、何うして、あの子は、あんなに、斉彬びいきなのか――」
 と、お由羅がいった時
「久光様、御渡りでござりまする」
 襖の外で、声がした。
「金子をもって行っては、斉彬に渡すらしいが――」
「斉彬様が、上手に、久光様を――」
 と、将曹がいった時
「御免」
 と、久光の声がした。そして、襖が、開くと、いつものように、ずかずかと入って来た。
 斉彬の好みと同じ姿で、紬の着流しに、木綿の足袋、粗末な鉄鍔の脇差だけであった。将曹が、座を滑って、頭を下げたが、ちらっと見たまま、挨拶もしないで、斉興の側へ坐った。そして、すぐ
「又、密談か、将曹。貴公、密談が、すきだのう」
 と、浴せた。将曹は
「いえ、今日は――」
「隠すな。近侍も、侍女もおらんでないか。正直に申せ」
 と、口早にいって、すぐ、斉興に
「調所が、近々参りましょうが、二千両下さ
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