、責《せめ》、折檻《せっかん》しても、口を割らすぞえ」
「はい」
 深雪は、いつの間にか蒼白になって、涙ぐんでいた。
「申し難かろうの――それでは、妾から、何うして縁側へ出たか、申して見ようか――これ、面を挙げて――」
 梅野は、恐怖におののいている深雪の眼を、気味悪い微笑で眺めて
「小藤次と、忍び合ったのであろう」
 深雪は、首垂れた。
「何うじゃ。ちがいあるまいがな」
「いいえ」
 細い声であった。

「そうあろうな――そうあろうとも」
 梅野は、こう云って煙管をとった。
「ここへおじゃ」
「はい」
「ここへ、おじゃと、申しますに」
 深雪は、悄然《しょうぜん》と立上って、梅野の近くへ坐った。
「一寸、手を貸してみや」
「はい」
 深雪が、右手を延した。
「ふっくらと、可愛らしい指じゃのう」
 梅野は、左手で、手首を握って、右手で、指を拡げて、人差指と、中指との間へ、煙管を挟んだ。
「この手で、男の首を抱いたのかえ」
 梅野は、右手で、深雪の指の先を、じりっと、握りしめた。
「あいつつ」
 深雪が、その痛さに思わず引こうとする手を、左で引きとめて
「この指で、男の――」
 梅野は、みだらなことをいって、力任せに、指をしめつけた。深雪は、左手を、梅野の手へかけながら
「御免下さりませ」
 と、痛さに、身体をまげた。
「よいことをした後は――」
 深雪は、脣をかんで、身体をねじ曲げて、苦痛をこらえていた。
「いつから、一緒になったえ」
 こういうと、梅野は、少し、力をゆるめた。
「いいえ、そんな――」
 深雪が、微かにいうと
「強い娘じゃのう」
 梅野が、もう一度、掌へ力を入れたとき、廊下に、衣ずれの音がしてきた。梅野は、煙管をとって
「動いてはならぬぞえ」
 と、いって、立上った時
「未だ、臥せらぬのかえ」
 足音と、衣ずれとが、部屋の前で、止まった。
「はい、お勤めの終りますまで」
 と、梅野は、口早に答えて、周章てて、障子へ手をかけた。と同時に、外からも、一人の侍女が、開けようとした。そして、障子が、さっと、開くと、お由羅が、白綸子の着物を着て、立っていた。梅野は、廊下へ出て、手早く障子を閉めようとすると
「誰じゃ」
 お由羅は、深雪へ眼をやって、梅野に聞いた。
「新参者の深雪でござります」
「深雪」
「はい」
 深雪は、お由羅に、泣顔を見せまいと、俯向いたままで、お由羅の方へ、向き直って手をついた。
「早う、部屋へ引取って、休みや」
 深雪は、やさしい、お由羅の言葉を聞くと共に、胸の中の厚いものが砕けて、その下から涙が湧き上ってきた。黙って、首垂れてしまった。
「許してやんなされ」
 お由羅は、梅野にこういった。
「それが――」
「新参者に、不調法は、ままあることじゃ」
 お由羅は、こう云いすてて歩み出しながら
「深雪、よく、上の人の申しつけを聞いて、叱られぬようにな」
 深雪は、袖へ顔を当てて、お由羅を刺そうとして入込んだ気持などを、少しも感ぜずに、そのやさしさに、泣いていた。梅野が
「今夜は赦しますが、余のことではないから、よく憶えていや」
 と、云った。

 深雪が、部屋へ戻って来ると、灯は消していたが、未だ、眠らない、大勢の朋輩達は、低い声で、いつものように、小姓の噂をしたり、役者買いの話をしたりして、忍び笑いをしていた。
「本当に、よく似ていますぞえ」
「誰に?」
「成駒屋に――」
「おお、嬉しい――あっ、痛い――同じ、抓《つね》るなら、裏梅の形に、抓って下さんせいな、あれっ――」
 深雪は、手さぐりに、自分の床へ入ろうとした。
「誰?――今夜は、このまま、眠れぬぞえ。どうでも、梅園さん」
 一人の肥った侍女は、すぐ隣りのおとなしい梅園の手を引っ張った。一人が
「それよりも、あの新参者は?」
「そうそう、あの器量好しを、いじめましょうわいな」
 深雪は、そういう会話に、耳を背向《そむ》けて、明日の自分、あの老女梅野の言葉、お由羅のやさしさ、それを刺せという命令、父、兄、母――そうしたことを、毀れた鏡に写してみているように、途切れ途切れに、ちらちら考えていた。そのうちに自分の名が出たので、それに、注意すると
「深雪さん」
 と、間近くで、暗い中で、誰かが呼んでいた。そして、他の人々は、深雪が、真赤になって、憤りたくなるような、自分に関した猥らな話をして、きゃっきゃっ笑っていた。
 昼間の、つつましく、美しい女姿が、こうした闇に見えなくなると、その女達を包んでいた、押えていた醜悪なものだけが、露骨すぎて現れてきた。深雪は、寝間着の裾を結んで、蒲団を押えて、もし、手でも出したなら、容赦すまいと、呼吸をこらしていた。
 想像していた、礼儀の正しい、奥生活の昼は、想像以上に――苛酷なくらいに、厳粛であったが、侍女部屋の夜は、又、深雪の想像以上に乱れていた――と、いうよりも、深雪には考えられない愛欲の世界であった。
「深雪さん」
 と、近々と、声がした時、廊下の外で
「未だやすまぬか」
 老女の声であった。女達は、一斉に、ちぢんで、押し黙った。
「夜中に大声を立てて。お上は、お眠りじゃぞえ。騒々しい」
 うち、一人の女が、深雪の近くで
「悪魔退散、婆退散」
 と、囁いて、近くの二三人を笑わせた。暫くすると、ことこと、草履の音が去って、夜番が、庭を廻って来た。
「明日の勤めが辛い。皆さん、お先きに」
 と、誰かがいった。そして、そのまま静かになった。暫くすると、歯ぎしりが聞えたり、小さい鼾が聞えたりしかけた。
 深雪は、眠れなかった。何んだか、胸苦しく、頭の心が、少し痛むようで、額を押えると熱があった。そして、隣りの女の寝返りや、夜鳴き鶏の声が、はっきりと聞えているかと思うと、何かに、はっとして眼を開けた。
(今、少し眠ったのかしら)
 と、思った。そして、又、歯ぎしりを暫く聞いていたが、又、うとうととした。指の痛みだけが、いつまでも、眠りの中に残っていた。

 深雪は、灰色の中に、ただ一人で立っていた。
 ふっと、気がつくと、その前の方に、一人の老武士が歩いていた。
(お父さまだ)
 と、思った。そして、呼ぼうとしたが、どうしても、声が出なかった。八郎太は、幻のように、影のように、それから、すぐ、遠ざかってしまいそうに歩いているので、深雪は悲しくなって、駈け出そうとした。だが、どうしてか、駈けても、駈けても、父との距離が同じで――そうしている内にも、父が、灰色の中へ消えてしまいそうな気がするので
(飛びかかったら)
 と、決心すると――出し抜けに、父の顔が、前に大きく、苦い顔をしていた。
「まあ、お父さま」
 と、いうと、それは、江戸の邸の中であった。深雪は
(お母様も、きっといらっしゃる。嬉しい)
 と、思って襖の方を見ると――急に、胸が苦しくなったので、父の顔へ救いを求めるように振向くと、八郎太の眉の上に、血が滴っていて、深雪の心臓も、身体も、頭も、凍えさした。
「誰か、来て下さい。お父様が、御疵《おけが》なさいました」
 と、叫んだが、誰も出て来なかった。深雪は、腹を立てて、だが、自分の袖をちぎって、疵へ手当しようとしたが、いつの間にか、袖がなくなってしまって、寝間着一枚であった。
(そうだ。ここは御殿の侍女《こしもと》部屋だ――だって、そんなところに、お父様がいなさることはない)
 と、思うと、一面の草原になって、父は、頭から、肩から、血塗《ちまみ》れになっていた。深雪は、父に縋りついて、斬られるものなら一緒に、殺されるなら一緒に、と、手を突き出して、父へ縋ろうとしたが、足が、何うしても動かなかった。
 全身が、縛られているように、締めつけられているように――悲しみに、心が裂けそうになったので、兄を呼ぼうとしたが、すぐ、近くに小太郎が、いそうな気がするのに、声も出ないし、小太郎も現れなかった。
(お父様が、斬られていなさる)
 と、狂う頭の中で絶叫した。八郎太は、ふらふらと、血塗れのまま、灰色の中に、漂っていた。深雪は、その父の手にでも、着物にでも、縋りたいような気が、全身に充ちて来ると同時に
「お父様っ」
 と、叫んだ。
 はっとして、気がつくと、かたい蒲団の手ざわり、用心のために結んだ裾、隣りの朋輩の寝息――。
(夢だった)
 と、思ったが、何かしら、不慮のことが、父に起っているようで、すっかり、眼が冴えてしまった。真暗な部屋の中で、時刻も、何も判らなかった。ただ、夢にみた、父の眼の怨めしい表情だけが、眼の底に灼きついていて
(もしかしたら――)
 と、深雪の胸を、冷たいもので、締めつけた。
(夢は、逆夢《さかゆめ》というから――)
 と、思ったが、本当に、父が、斬られて死んでいるようにも、感じられた。
(そんな事のありませんように)
 深雪は、蒲団の中で、一心に念じた。合掌している右手の指が痛かった。
(お由羅様は、やさしい人だのに――あのやさしい人を刺す――妾には、出来ない――でも、しなければ、お父さんに申訳が無いし、――一体、何うしたなら――)
 深雪は、もう一度合掌した。

  二人の主

 斉彬の坐っている膝の前にも、その横にも、いろいろの型の、洋式銃が、転がっていた。斉彬は、分厚な反古紙綴りの、美濃版型の帳へ、何か書いていたが、暫く、それを書き続けてから
「お揃いだの」
 と、いって、三人へ、振向いて、微笑した。名越は、村野、成瀬と共に、声が懸らぬので、平伏していたが、その声に、頭を上げた。
「お手を止めまして、申訳ござりませぬ。止むなき儀につきまして、言上致したく、幸い、国許より、この両名、有志一同に代って見えましたにより、参上致しましたるところ、拝謁仰せつけられ、忝なく存じ奉ります」
 と、名越が、型の挨拶をした。斉彬は、そう、名越が挨拶をしている間、朱筆で、何かを、帳へ書き入れていたが、名越が、いい終ると
「上方の模様は、何うだの」
 と、三人の方へ、膝を向けて、筆を置いて笑った。
「はっ、調所殿を、初めまして――」
「いいや、そのことではない。京師では、勤王、倒幕の説が、盛んだと、申すではないか」
「よりより聞いておりますが――」
「何んと思うな?」
「浪人共の、不逞《ふてい》の業と、心得まする」
「そうかのう」
 名越が
「寛之助様、御逝去の砌《みぎ》り――」
 と、いい出すと同時に、斉彬は膝の前の銃を取上げて
「これが、村野、エンピールじゃ」
「はっ、エンピール銃」
「うん――今までのエンピールは、先籠めであったが、今度のは、改良して、元籠めになった。弾も、前には、円弾だったが、尖り弾になった。こうして、覗いてみい」
 斉彬は、自分に近い銃をとって、銃口を眼に当てた。
「筒の中に、きりきり巻いた溝があろうがな。それも、改良されてからついたが、わしは腔線と訳した。つまり、弾丸が、滑り出よいように、且又、狙いの狂わんようと、そういう条《すじ》をつけたものじゃ。よく考えてあるな。これが、スナイドル――」
 斉彬は、成瀬の方へ、スナイドル銃を、抛《な》げるように、押し転がした。
「これが、スペンセス――この紙に、書いてある」
 筒先に、紙切が結びつけてあって、ローマ字で、ツンナールとか、シャスポーとか、ゲーベルとか、いろいろな銃の名が、書いてあった。
「のう、左源太、寛之助まで、四人もつづいて死ぬと、どうも、何んとなく、重苦しい気がして、余り嬉しくないものだのう」
 斉彬は、一梃の銃の台尻を肩へ当てて、窓外の樹を覘《ねら》いながら、独り言のようにいった。
「その儀につきまして――」
 名越が、銃を置いて、斉彬を見ると、斉彬は
「関ヶ原で、島津の後殿《しっぱらい》は、見事であったと申すが、あの時にも銃砲が足りなかった。この間、それを調べたが、当家の異国方軍制――武田流の軍法――によると、文禄までは、千人として士分の騎馬五十人、徒歩《かち》五十人、弓足軽三十人、槍足軽三百人、鉄砲足軽七十人、残りが小者、輸卒だが、主力は槍であった」
 名越は、困った。又博学な講釈が始まった、と、思
前へ 次へ
全104ページ中37ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング