いつになったら、お由羅へ近づいたり、秘密のところへ近寄ったり出来るかしら)
と、思った。だが、そう思いながら、鏡台を掃除していると
「今夜から又、奥の御祈祷が始まります」
と、いっている声が聞えた。
(祈祷――調伏)
深雪の身体中が熱く燃えた。
(今夜から)
深雪は、案内された時に見たお由羅の居間を考えた。
(あの中で――)
拭く手を止めて、祈祷の場へ、忍び込んで行く自分を想像した。
「何を、ぼんやりと、この新参っ子は――」
と、背後で、老女中の声がした。
「はいっ、御用は――」
と、深雪は、膝を向けて、手をついた。
夕餐を終って、お膳を勝手元へ出していると、一人の雑用婦が
「一寸、こちらへ」
と、納戸の方へ導いた。深雪が、おずおずとついて行くと
「お越しなされました」
と、襖を開けて、深雪を押込むようにした。深雪が、一足入ると、すぐ小藤次の顔が、近々と笑っていて、手を握られた。深雪は、左手で、襖をもって、力任せに後方へ引こうとしたが、小藤次の力に負けた。
「閉めて――早く」
小藤次は、立ったままで笑っている雑用婦を、叱りつけた。
「約束でないか、深雪」
「いいえ、いいえ――」
深雪は、右手を握られて、左肩を抱きすくめられて、小藤次の胸のところで、髪を乱すまい、顔を、肌を触れまいと、身体を反らしていた。
小藤次は、今朝結立ての御守殿髷の舞台香の匂、京白粉の媚《なまめ》いて匂う襟頸、薄紅に染まった耳朶に、血を熱くしながら、深雪を抱きしめようとした。
「なりません」
深雪は、脣を曲げて、眉をひそめて、小藤次の胸を左手で押した。
「声を立てると、見つかるぜ。見つかったら最後、不義は御家の法度ってやつだ。俺は、救かるが、お前は、軽くて遠島、重いと、切腹って――こいつは、痛いぜ、腹を切るんだからなあ」
耳許で、笑いながら、こう云いつつ、脚を押しつけて来た。深雪は、腰を引いて
「御無体なっ」
小太郎から教えられた護身術、柔道の一手で、草隠れの当身――軽く、拳でどんと脇腹を突くと同時に、右手を力任せに上へ引いて、小藤次の手を振り切った。
「て、てっ――おっ痛、た」
顔中をゆがめて、両手で腹を押えた小藤次の前を飛び退いて、深雪は壁を背に、簪を抜いて身構えた。
「ひ、ひでえ事を、しやがったな。ああ、痛え」
小藤次は、真赤な顔をして、怒り眼で、深雪を睨んだ。そして、痛そうに、脇腹を押えて、身体をかがめていたが、だんだん俯向いて、苦しそうに丸くしゃがんでしまった。深雪は
(少し、手強《てごわ》すぎたかしら――本気に、腹を立てたなら、今夜の祈祷場を覗くことも、水の泡になるかもしれぬ。何うしたなら?)
と、思った。それで、やさしく
「こんなところで、欺し討のように――そんな卑怯なことなさらずとも、もっと機がござりましょう。約束約束と――妾よりも、小藤次様が、約束をお守りなされずに――」
と、眼で睨みながら、言葉は柔かにいった。
「俺は、俺は、たたたた、物を云っても痛いや、何も、たたたた」
「今夜、遅くに、お居間の廊下へ忍んでござりませ」
小藤次は、くちゃくちゃの顔に、微笑んで
「本当かい」
「ええ」
深雪は、こう云うと共に、眩暈《めまい》したような気持になった。自分の言葉で、自分を泥の中へ、蹂躙《ふみにじ》ったように感じた。涙が出てきた。自分の身体も、心も無くなって、ただ、悲しさだけのような気がした。
(操を捨てなくてはならぬかもしれぬ。その代り、調伏の証拠を握って――)
「こ、今夜、子《ね》の刻《こく》前に――」
小藤次は、よろめいて立上りながら
「広縁で」
深雪は、頷いた。
「たたた、痛えよ、深雪、えらいことを知ってるのう。ああ痛え」
小藤次は、少し笑った顔を見せたが、未だ脇腹を押えていた。
「忍ぶ、恋路の、か――さて、果敢《はか》なさよ、とくらあ」
小藤次は、口の中で、唄いながら、植込みの中から、広縁の方へ、足音を忍ばせて、入り込んで来た。
[#ここから3字下げ]
真暗、くらくら
くろ装束で
忍び込んだる恋の闇
[#ここで字下げ終わり]
と、手を延して、広縁の板へ触れたとき、背後から
「何用でござる」
小藤次は、冷たいもので、身体中を逆撫でされたように感じた。柄へ、手をかけたが、膝も、拳もふるえていた。
「誰だ」
振向いて、身構えると
「御祈祷場、警固の者でござる」
誰ともわからぬ、黒い影は、そう、役目にいったまま、小藤次の前に突立っていた。小藤次は、安心すると同時に
(初めっから、俺を見張ってやがったな)
と、思うと、柴折戸《しおりど》のところから、四辺をうかがって、おどおどとした姿で、忍び込んだ自分の滑稽さを想い浮べて、腹が立ってきた。
「そうかい。えらい、厳しいんだね」
冷笑したように、こういうと
「何?」
「えらい、厳しいってんだよ」
「出ろっ。ここを、何んと心得ておる。お部屋様、近親の者と思えばこそ、咎め立ても致ざずにおれば、えらい、厳しいとは、何事でござる。それが、御部屋様の兄上の言葉か?」
低いが、鋭く、叱りつけた。
(誰奴《どいつ》だろう? えらそうに――)
と思ったが
(上女中の、うるさいのにでも云いつけられたら――)
と――だが、そう叱られて、黙って引込むのも、器量の悪い話であった――。
(もう、すぐに、深雪が、出て来るのに)
と、思うと、それも心配になって来た。
「そりゃ、存じてはいるが――」
「存じて居て、何故、禁を犯された」
「禁?」
「禁を御存じないか」
「禁って、何事でござる」
「奥へ、男子入るべからずの禁じゃ」
「ああ、その禁か」
「出られい」
と、いうと同時に、肩を掴んで、柴折戸の方へ捻じ向けられた。
(何んて力だろう)
小藤次は、その力に、気圧されて、一足歩いた。
「二度と、踏み入ると、許しませぬぞ」
小藤次は、ゆっくり、歩きながら
(深雪は、何うしたかしら――何うするだろう。うっかり、こんな時に、出て来て見咎められたら――深雪の、見咎められるのはいいが、もし、俺と、逢引するために、などと白状でもしやがったなら、お由羅め、何んといって怒るかもしれぬし――身の破滅って、奴だな)
小藤次は
「忍ぶ恋路の、さて果敢なさよ、か。果敢なさすぎらあ、畜生っ」
寂寞な闇の中に、微かに祈祷場からの鈴の音が、洩れて来た。風が梢を渡って、葉ずれの音がした。
「は、はっくしょっ」
小藤次が、くしゃみをすると同時に
「静かにせんか」
と、さっきの侍の声が、後方でした。
「へいへい、出物、はれ物ってことがあらあ。済みません、ってんだ。あっ、はっくしょいっ」
と、いった時、遥かに、広縁で、とんとん板を叩く、微かな音がした。
小藤次は、佇んで振向いた。深雪の合図であった。
(拙《まず》いところへ、出て来ゃあがって――)
と、一寸腹が立ったが、すぐ
(見つかったら、大変だ)
と、思った。そして、自分の後方を跟《つ》けて来ている侍が、何うするか?
(もし、誰かが深雪を見つけて、馳せつけるようなら、もう一度、忍んで行って、何んとか、助けてやらずばなるまいが――)
小藤次は、闇で見えぬ広縁の方へ、深雪の姿を、何うかして、探し出そうとするように、眉をひそめて、首を延して見た。そして
[#天から3字下げ]忍ぶ恋路の――
と、小声で唄うと
「何故、行かぬ」
すぐ、側に、黒い影が立っていた。
(執拗《しつこ》い野郎だな、こん畜生あ)
小藤次は、腹が立った。
「御苦労様」
云い終らぬうちに、肩を、どんと突かれてよろめいた。
「何、何するんでえ」
とんとんと、深雪が、廊下の板を叩いた音が、又聞えた。
「奥の風儀を乱して――貴公は、誰の兄に当る? 取締るべき上の者が、何んの体じゃ」
「媾曳《あいびき》じゃあねえや」
「では、何用じゃ」
「聞いてみな」
「何? 誰に?」
[#ここから3字下げ]
聞いてみたかや、あの声を
のぞいてみたかや、編笠を――
[#ここで字下げ終わり]
と、云った刹那、くるりと、小藤次の身体が廻転すると、後方から帯を掴まれた。そして、一押し、押されると、前へのめるように、足が、もつれて、動き出した。
「ちょっ、一人で歩くよ。放してくれ、危いったら――」
と、云った時、
「深雪」
と、いう声がした。老女、梅野の声であった。
(いけねえ、とんでもねえ奴に、見つかっちまった)
小藤次は、深雪の処置を心配するよりも、一度の睦言《むつごと》も交えずに、別れなくてはならなくなった自分の恋に、悲しい失望と、怒りとが起って来た。
「一寸、放してくれ」
侍は、黙って、ぐんぐん小藤次を押し立てた。小藤次は、つるし亀のように、手を振って、小走りに走らされながら
「一寸――頼む――後生だから――」
小藤次は、突き当りそうに近づく立木に、首をすくめたり、顔へ当りそうになる木の枝を、手で押しのけたり、庭の下草を踏んづけたり、石と石との間へ、躓いたりしながら、強い力に押されて、人形のように、もがきながら、半分、走らされていた。
「危いったら」
小藤次は、木の枝へ髷を引っかけて、怒り声を出した。侍は、片手で、枝を折った。小枝が、小藤次の髷へぶら下った。小藤次は、それを取ろうと、両手を頭へやりながら
「ねえ、後生だから――」
と、いった時、柴折戸の辺へ来たらしく、ほのかに、明りが射してきた。
(誰奴だろう)
と、振向くと、それは、牧仲太郎警固のために、国許からついて来た侍の中の一人、山内という剣道の名手であった。
(強い筈だ)
と、思った。そして
(木の枝を、頭へぶら下げちゃあ歩けねえや。こん畜生め)
力を入れて引くと、髪の根が痛かった。山内は、木戸から、小藤次を突き出して
「二度と入ると、棄ておかんぞ」
と、睨みつけた。
「深雪かえ」
深雪は、闇の中で、絶壁から、墜落して行くように感じた。
「何をしておじゃるえ」
蛇が、身体中を、締めつけて来るような声に感じた。
「はい」
深雪は、廊下へ、手をついてしまった。
「ついて来や」
「はい」
梅野は、板戸の中へ入ってしまった。深雪は
(何う云って、云い抜けたらいいのか?――云いぬけられるか?――もし、云い抜けられなかったら、何うなるのか?――お由羅の調伏を見届けもせずに、小藤次風情と、不義の汚名をきて、罪にされたら――)
と、思うと
(小藤次のような人間でも、人を欺した罰かしら)
と、思えた。
六畳の部屋は、行燈に、ほのかに照し出されていた。
(今時分まで、何うして、この老女だけが起きているのか? 祈祷の係ともちがうのに)
梅野は、上座へ坐って、静かに
「何しに、今時、庭へおじゃった?」
深雪が、顔を上げると、拝領物を飾る棚、重豪公の手らしい、横文字を書いた色紙、金紋の手箪笥、琴などが、綺麗に陳《なら》んでいた。そして、その前で、梅野は、紙張りの手焙《てあぶり》へ、手をかざしていた。
「はい、不調法仕りました。以後心得まするから、お見のがし下さりませ」
深雪は、手をついた。
「さあ、訳を話せば、その訳によって、見逃さんでもない――訳は?」
深雪は、何ういっていいか、わからなかった。
「返事は?」
「はい」
「涼みに出る時節でもないし、厠《はばかり》を取りちがえるそなたでもないし、まさか、男と忍び合うような大外《だいそ》れた小娘でもあるまいし、のう――深雪」
深雪は、真赤になって、俯向いた。
(赤くなっては、悟られる)
と、思ったが、少しも、心に咎めない、小藤次との間のことであるのに、顔が赤くなってしまった。
「とんとんと、叩いていたのは?」
深雪は、身動きも出来なかった。
「合図かえ」
深雪は首を振った。
「合図でなければ、何んじゃ」
「はい」
「慣れぬことゆえ、初めのうちは、誰しもいろいろと失策はある。万事、それは、妾の胸一存に納めておくから――正直なところを申してみや。偽りを申して、後に露見するよりも――申せぬか?――飽くまで、白状せぬとあれば
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