時、その女に、何んなに男らしいか? 俺あ、命を捨ててもいいよ――この間から、富士春と、これで度々の喧嘩だ。あいつあ、深雪さんを、小藤次に取持って、礼をもらった上に、俺の気持をめちゃめちゃにしようとしているが、あいつとしては、無理はねえ。貧乏ぐらしだからのう」
「尤もな、惚《のろ》けだ」
「本気で聞いてくれ、師匠」
「本気だとも」
「それで、今日、実は深雪さんに逢って、何か一役、命がけのことをいいつけて貰おうと、こう思って来ると、近所の噂じゃ、小藤次の野郎が来てさ、てっきり、この間からの奉公話だろう。折角の命がけが、ぺしゃんこだあ」
「命懸け? 戯談《じょうだん》いうねえ。食えんからの屋敷奉公をする女に命がけの、何んのって」
 と、南玉が笑った顔を、庄吉は睨みつけるように眺めた。

「師匠」
「おいおい、睨むなよ。俺あ、臆病だからのう」
「師匠は、俺の商売を知っていなさるのう」
「うむ、着切《ちゃっきり》だ」
「三下か、ちょっとした顔かも、知っていなさるのう」
「うむ、橋場の留より上だって、聞いているよ」
「じゃあ、師匠、もう一問答だ」
「さあ来い。いざ来い。問答なら、桃牛舎南玉、十八番の芸だ」
 南玉は、両手の指をひろげて、膝の上へ、掌を立てた。
「上方での出来事が、俺の仲間で、幾日かかると耳に入るか、知ってるかい」
「そこまでは調べておらんな。和、漢、蘭の書物にも、巾着切の早耳話ってのは、書いてないよ。これが本当に、わかんらん」
「びっくりしなさんな、五日で来るんだよ」
「はあ――五日でね」
「早い脚の奴は、日に三十五里、何んでもねえ。京を早立ちして、その夜の内に、鈴鹿を越えら。すると、亀山にゃあ、ちゃんと、仲間がいる。急用だっ、それっと、こいつが桑名まで一日。桑名へ来ると、仲間がまたいる」
「成る程」
「こうしなけりゃ、金目のものの処分がつかねえ。すられて、あっという間に、品物は、十里先で取引してらあ」
「ふふん、俺の講釈みたいに、少し与太が入ってるんじゃねえか」
「仙波の大旦那は斬死なすったよ」
「ええ?」
「上方の伸間へたのんでおいたら、さっき知らせて来たんだ。比叡山って山の上へ、牧って悪い奴を追っつめて、伏兵にかかったんだ」
「ふむ、伏兵にゃあ、東照宮だって敵わねえからのう」
「小太郎って、俺の手を折った若いのは、谷間へころがって、生死不明だ」
 南玉は、返事をしなかった。
「まだあるんだ。大阪の蔵屋敷へ行った奥方と、そら、深雪さんの姉さん、何んとかいった――そら、何手、そら、何んとかの手」
「手は赤丹のつかみと来たが――」
 と、南玉は、顔をあげて
「本当だの、その話は」
「俺の※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]をつかんことは――」
「わかった」
「それから、益満さんが、調所って野郎の後を追って、江戸へ下って来なさるそうだ――」
「今の、七瀬と、綱手は、そして、何うしたんだい」
「それは、蔵屋敷にいるんだ」
「調所は、江戸下りか」
「うむ。それで、益満さんは、この調所を途中で討つつもりらしいんだ」
「そうだろう」
 庄吉は、強く、低く
「隠さずに、師匠、打明けてくれねえか。俺の気性は、町内でお前が一番よく知っていてくれる筈だ。ええ――仙波さんも、益満さんも、お由羅の一味を討ちてえんだろう。どうだ――師匠」
 南玉は、じっと、庄吉の顔を見て、黙っていた。
「俺、いわねえったら、首がちぎれても喋らねえよ。お前さん、深雪さんを、一物あって、奉公させたんだろう。仙波の娘を、お由羅邸へ。あの、小藤次の手に任して――え、師匠、だから、俺あ、その深雪さんに、そんなあぶないことをしずに、一手柄立てさせて上げてえんだ――わかるかい、師匠」

「俺あ、ちいっとばかし、水臭いと思うよ。巾着切の仲間にゃあ、こんな、匿《かく》し立てはねえ。返事がなけりゃ、無いでも、いいんだ。俺あ、こうと思ったことを、やってみるまでだ。お前が、よく、寄席でいうのう、虎と見て、石に矢の立つためしあり――人間の一心って通じるもんだよ――又、来らあ、あばよ」
 庄吉が、立上った。
「そうかい」
 南玉は、そう口先きで、いっただけであった。
(斬死した? 庄吉のいうのは、本当らしい。だが、庄吉に打明けて、いいか、悪いか。益満から固く口止めされているのに――)
 と、南玉が、乱れかかる心を、じっと、両腕で押えた時
「こんちは」
 富士春の声であった。
「いらっしゃる?」
 庄吉は、真暗な上り口で
「お春か」
 と、いった。
「そうだろうと思ったよ」
 怒りと、恨みとを含んだ、静かな――だが、気味悪い声であった。
「お師匠さんかい。今、灯をつけるよ。庄さんと、話に夢中になって――」
 と、いいながら、南玉は燧石を叩いて、附木を燃した。一家中が、仄《ほの》かに明るくなった。庄吉は、上り口で突立っていた――富士春は、狭い土間から、庄吉を睨みつけていた。そして、行燈《あんどん》の光が家の中へ充ちると共に、素早く、家の中を見廻した。深雪はいなかった。
「さあ――庄さん、もう一度、お坐り。師匠、ささ、ずっと、これへ」
「はい」
 富士春は、上ろうともしないで
「一体、何うするんだい」
 低い声で、鋭く庄吉に云った。
「うめえ魚が、手つかずであるんだ。御馳走しよう」
 南玉は、戸棚から、大きい皿を出して、畳の上へ置いた。
「返事をしないのかい」
 富士春が、下から、又、庄吉を咎めた。庄吉は
「帰って話そう」
 と、土間へ降りかけた。
「ここでいいよ。帰ると、うるさいよ。お上り。南玉さんにも、妾ゃ、聞いてもらうよ」
「聞くぞ、聞くぞ。わさびが利《き》くぞ」
 南玉は、刺身のわさびを、なめてみた。
「大丈夫に利く。さあ、こっちい来て、食べながら、一喧嘩。へへん、出来立ては、喧嘩のあとで環が鳴りって、とかく、痴話喧嘩と申すものは、仲がよいと、始まりやす。仲人を、あの茶瓶がと、寝て話し、桃牛舎南玉が一つ、この茶瓶になりやしょう。どうぞ、こちらへ」
「御邪魔させて頂きます」
 富士春は、上りながら、突立っている庄吉の袖を捉まえて、引張った。
「何しやがるんでえ」
 庄吉が振り切るはずみ、袖口が裂けた。
「おやっ、大層、手荒いのね。そうだろうよ、新情人《しんいろ》の前じゃあ、威勢のいいところを見せたくなるもんだからね」
 富士春は、これだけ、静かに云うと
「口惜しいっ」
 と、叫んで、庄吉の左手へ、齧《かじ》りついた。
「手荒いことをしちゃいけねえ」
 と、南玉が、立上った。

「痛えっ、畜生っ」
 庄吉は、手を振り切って、女の肩を蹴った。
「蹴ったな、おのれ――ようも、人を、足にかけたな」
 南玉は、行燈の灯を吹き消した。そして、大声に
「ぽんと蹴りゃ、にゃんと泣く」
 と、部屋いっぱいの声で叫んで、二人に、近づいて
「人気に障る、師匠、長屋の餓鬼共に見つかったら、うるさい」
 と、小声でいった。そして、庄吉の袖を引張って、耳許で
「あっちへ」
 庄吉も、富士春も、真暗な中での喧嘩は張合が無かった。
「とんだ迷惑で」
 庄吉は、こう南玉に云って、奥の方へ足さぐりに行った。
 南玉は戸口へ出て
「ええ、おやかましゅう、只今のは、南玉、講釈の稽古」
 近所へそんな声をかけておいて、戸を閉めてしまった。富士春は、上り口の間へ立ったまま、剥げた壁へ顔を当てて、泣いていた。
「深雪は、師匠、とっくに、御奉公に上っちまったんだよ。見当ちがいの焼餅だわな。庄公は、少し人並とちがってるんだから――堪忍《かんにん》しておやりよ。さ、泣かずに、こっちいお出でよ――よう、師匠」
 南玉は、立って来て、白粉と、髪油の匂を嗅ぎながら、富士春の肩へ手をかけた。そして
「庄公、その辺に、石があるが――」
「俺、燧石はまだ打てねえよ」
「これは御無礼、これはしくじり――」
 富士春が、帯の間から、燧石を出して
「ここに――」
 と、手探りに南玉へ渡した。南玉が、石を打つと、庄吉は、座敷の真中に突っ立っていた。富士春の顔の白粉は汚れていた。南玉は、石を打って、火を出しながら
「一つとや、か、人の知らない苦労して」
 と、節をつけて、一足一足、石を打ちながら、行燈のところへ行って
「なあ、それぞれ、人にゃあ苦労ってものがあるものだ。俺も、今日は、お由羅邸で、一苦労して来たところだ。自分だけ苦労していると思っちゃあいけねえ」
 と、云いつつ、行燈に灯を入れて、小声で庄吉に
「こっちい呼んでおやりよ」
「うむ」
「やさしく一言かけてやりゃ、女なんて化物は――」
「何うせ、化物でござんすよ」
「ほい、聞えたか?――庄公、そんな堪忍ぐらい出来んで、大仕事の手伝いが出来るかい」
「そうか。判った」
 庄吉は、元気よく
「お春、こっちへ入らしてもらえ」
 南玉が、又立って行って
「ここで、もう一拗《ひとす》ね、拗ねるって手もあるが、そいつあ、差しの場合での。他人がいちゃ、素直にここへ来て、仲よく食べて、戻って、寝て、それから、ちくりちくりと、妬くのが奥の手だて。さあ、こっちい来たり」
 富士春は、南玉に、手を取られて、奥の間へ入って来た。
「やれ――化物を二疋退治した。さあ、生のいい刺身だ。庄公は不自由だろうから、春さん、食べさしてやんな。さあ、庄公、あーんと、口を開きな。何も、恥かしがることはねえ。こういう風に――」
 南玉は、大きな口を開けて、刺身を、自分の口へ投げ込んだ。
「おお、うめえうめえ、頬ぺたが、落ちらあ」

  忍泣き

 取締りの老女中が、奥向きの部屋部屋――内玄関、勝手、納戸、茶の間、寝室、御居間、書院、湯殿、厠《かわや》というようなところを、案内してくれた。上の厠だけでも三ヶ所、下の厠だけでも五ヶ所あった。
 それから、屋敷の中の心得を、口早に喋って聞かせた。古参の者には言葉を返してはならぬし、命令に反くこともならぬとか、夜中の厠行は、幾時までとか、湯は新参者が一番に入って、古参の肩を流して、自分は御仕舞いに出るのだとか、化粧部屋は一番御仕舞いに入って、皆の掃除をして出て来るとか――細かいことが、無数にあった。
 それから、作法を見ると云って、四、五人の老女が坐って、茶を運ばせた。そして、茶碗の捧げようが、高いとか、低いとか、摺り足で歩いても、そんなに畳の音をさせてはいけないとか、眼のつけどころが――脣の結びようが――深雪は、自分さえ正しければ、自分の学んだ礼法は、武家作法だし――少しも、間違っていないと、思っていたが、老女達は、そういうことを問題にしていなかった。
 彼女達は、古参ということを誇り、自分の下らぬ知識を見せびらかし、それから、自分達の独り身で老い朽ちて行く憤りを、美しく、若い女に向けて、それをいじめることを楽しみとしていた。
 素直な、世間知らずの深雪に、そんな気持は判る筈が無かった。眼七分目に捧げたら、低すぎると叱られ、八分目にすると、高すぎると罵られ、その夜の湯殿で、肩を流しようが悪いと、湯を、肩からぶっかけられた時、明日にも、暇をとって戻ろうかとさえ思った。そして、冷たい、固い、臭のある蒲団をきて、じめじめした部屋で、泣きあかした。
 鶏が鳴いて、夜が明け切らぬ頃から、耳を立て、拍子木の廻るのを聞いていた。そして、侍女を起す木が響くと共に起き出た。老女は、雑用婦のする務である廊下の雑巾がけを深雪に命じ、それが済むと、厠の掃除までさせた。
 だが、そうして、いじめられている深雪の痛々しさ、雑用女の仕事までさせる老女中の横暴を見ると、若い女の中には、深雪へ同情する者が出来てきた。深雪が、部屋の隅で、小さくなっていると、側へ来て、小声で
「暫く、辛抱なさいませ」
 と、慰めてくれた。それは、当の無い、漠然とした、頼りない言葉であったが、深雪にとっては、この上ない力になった。
 食事時には、一番あとから食べかけて、一番早く終らなければならなかったし、午後の暇な時には、古参が、笑い話をしていても、その人々の着物をつくろったり、鏡を拭いたりしなければならなかった。深雪は

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