た時、牧が
「その老人を斬るなっ」
と、叫んだ。そして、足早に、ずかずかと近寄ると、八郎太の右脇下へ、自分の肩を入れて
「仙波っ、気を確かに」
と、叫んだ。八郎太は、眼をしばたたいたきりで、自分を扶《たす》けてくれているのは誰だか、判らなかった。だが、微かに
「小太郎は?」
と、聞いた。
「無事じゃ。無事に逃げたぞ。眼が見えるか」
八郎太が、頷いた。そして、右手で、前方を探るようにした。牧は、自分の後方の斎木に
「肩を貸せ、左の方を、持ち上げて、その小高いところまで運ぶのじゃ」
と、牧は、斎木と共に八郎太の左右から、身体を持ち上げて、急ぎ足に、小太郎の逃げて行く方へ歩んで行った。
「先生っ」
「如何、なされます」
貴島が、牧の態度に不審を抱いて聞いた。
「武士の情じゃ」
牧は、ただ、僅かに残った、精神力だけで、微かな命を、つなぎ止めている八郎太を肩にかけて、草原のなだらかなところを、少し登った。そこには、将門岩が、その外の岩が、うずくまっていた。
見下ろすと、小太郎が、防ぎつつ、逆襲しつつ、走りつつ――もう、刀の法も、業も、何もなかった。お互に、ただ刀を振り廻して、何事かを叫んでいるだけであった。草原の急な傾斜は、人々の足を、時々奪ったので、小太郎も膝をついたり、浪人も転がったりしつつ、闘っていた。
「仙波っ――あれが、見えるか。小太郎が見えるか」
牧が、下の方を指さした。八郎太は、最後の息のような、大きいのを、肩でして、両手で、何かを探すように、前の方へ延して、空を掴んだ。そして
「小太郎」
と、微かに呟いた。
「見えるか」
八郎太は、瞳の力を集めて、牧の指さす下の方を、じっと、暫く見ていたが――いきなり、右手を右の方へ振って
「右へ」
と、叫んだ。そして一脚踏み出そうとしてよろめいた。そして、それでもう残りの力も尽きたらしく眼を閉じた。牧が、八郎太の顔を見てから、小太郎の方を見た。小太郎は、左へ、左へ避けていたが、そこの行手は谷で行詰まりであった。右手は、草原が、杉木立の中へつづいていた。
「右手へ、逃げい。小太郎っ、右手へ逃げい。左手は、谷じゃっ。谷があるぞっ」
と、牧が叫んだ。山内が、下の方で、上を振向いた。八郎太は、耳許で、その叫びを聞くと、頷いた。そして
「御身は?」
と、微かに、いった。もう、ぐったりと、牧へ凭れかかって、最後の生命がつきようとしていた。
「牧」
八郎太が、よろめいた。そして
「御身が、牧――仲太郎か」
と、呟いた。もう、牧が何者であるか、判断がつかないようであった。眼を開いて牧を見ようとしたが、瞳がだんだん開いて、力が無くなってきていた。だが
「牧」
と、呟くと、眼が、光を帯びて
「おのれ」
顫える手で、刀を探すらしく手を延した。牧が、仙波の耳へ口をつけて
「仙波、小太郎は、無事に逃れたぞ。見てみい。見事に働いた。仙波っ――小太郎は、無事だぞ。逃れたぞ。小太郎は無事に逃げたぞ」
八郎太は、もう、耳が聞えぬらしかった。微かに
「小太郎――な、七瀬――娘、娘は?」
と、いった。牧は、ぐったりとしてしまった八郎太を、草の上へ静かに置いて
「小太郎は、逃げのびたぞっ」
と、耳許で、絶叫した。八郎太の、血まみれの脣に、微笑が上った。牧は、涙を浮べていた。八郎太の脚が、手が、だらりとなって、眼を閉じると共に、牧は、端坐して合掌した。
秋の日が、傾きかけた。風が、いくらか、弱くなって来た。
山の下の方には、時々、浪人達の叫び声がしていたが、それも稀になった。
「埓も無い――一体、何事じゃ」
いつの間にか、登って来た山内が、牧の、坐って、仙波の死体へ黙祷している後姿を見て、呟いた。斎木が、じろっと、山内を睨んだ。
南玉奮戦
内玄関から、狭い、薄暗い廊下を、いくつか曲ると、遥かに、明るい、広々とした廊下と、庭とが見えてきた。深雪は、こんなに、御屋敷が広いとは思わなかった。先に立っている案内の老女が、狭い廊下のつきるところ――三段の階段があって、それを登ると、広書院の縁側になるところまで来た。そして
「暫く」
と、小藤次に挨拶して、そのお鈴口につめているお由羅付の侍女へ、何か話をすると、侍女が一人、奥へ立って行った。
「只今、御案内致します。暫く、これにてお控え下されませ」
老女は、こう云って、小藤次に、深雪に、南玉に、そこへ坐って、待っておれ、というように、自分から廊下へ坐った。深雪は、老女へ、お辞儀をして、すぐ、つつましく坐った。
「絶景かな、絶景かな」
南玉は、口の中で呟いてから、小藤次に
「ね、芋を植えると――」
「叱《し》っ」
「小父さま、お坐りなされませぬか」
「板の上は、腰が冷えるで――」
南玉が、庭へ見惚れている時
「岡田様、御案内仕ります」
と、若い侍女が出て来て、声をかけた。小藤次が、頷いた。侍女が、広書院の廊下の方へ行くので、深雪は
(晴れがましい)
と、気怯《きおく》れしたが、侍女は、その手前の、右手の小さい部屋へ入って、襖を開けて
「こちらにて、お控え下さいませ」
と、お叩頭した。襖を閉めると、真暗になりそうな、六畳程の部屋であった。
「お控え下さいやし、ってのは、遊人の仁義だが、御屋敷でも用いるかな。恐ろしく、陰気な部屋で、お由羅屋敷開かずの部屋って、昔、ここで、首吊が――」
「南玉っ」
「てな、話がありそうな」
「喋ってはいけねえ。困った爺だな。すぐ、次が、お部屋だよ」
小藤次が顔をしかめた時、衣擦れの音が近づいて、ちがった方の襖が開いた。一部屋隔てて、女の七八人坐っているのが見えた。
「にょご、にょご、にょごの、女護ヶ島」
襖を開けた侍女は、開けると一緒に、南玉が、妙なことを云ったので、俯向いて、肩で笑った。そして、赤い顔をして、小さく
「こちらまで――」
小藤次が、立って、お由羅の居間の次の間へ入って、襖際へ坐った。深雪は、小腰をかがめて、敷居際へ、平伏した。南玉も、その横へ、同じように平伏した。侍女が、小藤次に
「お近くへ」
と、云うと、小藤次が
「では、御免を蒙って――」
兄妹であったが、主と、家来とでもあった。小藤次は、お由羅の下座一間程のところへ坐って
「この間の――」
「よい娘じゃのう、あれは?」
と、お由羅は、南玉を見た。
「身許引受の、医者でね」
「お医師?」
お由羅と、侍女とが、南玉の方を見ると同時に、南玉は、頭を上げた。そして
「ええ、お有難い仕合せで――」
と、平伏した。二三人の侍女が、くっくっと笑った。
「南玉」
と、小藤次が、睨んだ。
「結構な御住居で、又、今日は、大層もない、よいお日和でござりまする」
南玉は、こう云って、又、頭を下げた。女達は、口へ袖を当てた。お由羅も、笑っていた。
「南玉――退ってよい。誰方か、玄関まで案内してやってくれぬか」
小藤次が、こういった時、南玉は、頭を上げて一膝すすめた。そして、扇を斜に膝の上へ立てて
「さて――つらつらと、思い考えて見まするに――」
侍女達が、袖を、口へ当てて、苦しそうに、俯向いてしまった。
「春枝、案内を」
小藤次が、怒った眼をして、近くの侍女へ、こういうと、お由羅は、煙管を延して、小藤次の言葉を止めた。南玉は、平然として
「これに控えおります拙《せつ》の姪儀、いやはや奇妙不可思議の御縁により、計らずも、今般、岡田小藤次利武殿の御見出しにあずかり奉り――」
「南玉――いや、良庵さん、もう、よく娘のことは話してあるから――」
「ところでげす」
「判ってるったら――」
深雪が、南玉の袖を引いた。南玉は、小藤次も、深雪も、気にかけずに
「この岡田様が、この姪の、お綺麗なところに、ぞっこん惚れ奉って、えへへ――まずこういう工合でござります、下世話に申します、首ったけ」
扇を、顎の下へ当てて、頸を延した。小藤次が
「南玉っ」
と、叫んだ。侍女の二三人が、笑声を立てた。
「それで」
と、お由羅が笑いながらいった。
「ええ、御有難い仕合せで」
南玉は、一つ御叩頭をして、扇で膝を、ぽんと叩いた。
「愚《ぐ》按《あん》ずるに諺に曰く、遠くて近きは男女の仲、近くて遠いは、嫁舅《よめしゅうと》の仲、遠くて遠いが唐、天竺、近うて近いが、目、鼻、口」
南玉が真面目な顔をして、大声に、妙なことをいい出したので、部屋の中は、忍び笑いでいっぱいになった。二三人の侍女は、脇腹を押えて苦しがった。
「南玉っ、ここを何処だと思ってやがるんだ。いい気になって――」
と、小藤次が、赤くなると、お由羅が
「藤次っ」
と、叱った。
「だって――」
「いいではないか。綺麗なら、惚れるのが当前でないか」
「いよう、出来ました。東西東西、ここもと大出来」
南玉が、扇を拡げて、右手で差上げた。
「然しでげす。そこに、道有り、作法有り、不義は御家の法度《はっと》とやら、万一そういうことがしったい致しました時には、憚りながら、ぽんぽんながら、この良庵が捨ておきませぬ。のんのんずいずい乗込んで、日頃鍛えし匙加減、一服盛るに手間、暇取らぬ。和漢蘭法、三徳具備、高徳無双の拙《せつ》がついていやすから、そういう過ちの無いように、隅から、隅まで、ずいとおたのみ申し上げ奉ります」
南玉は、真面目な顔をして平伏した。
「ようわかった。御苦労であったのう」
お由羅が、こういうと、侍女の一人が、立上って、南玉の側へ来て
「御案内仕ります」
「いや、大きに――それでは、深雪」
二人は、二人だけがわかる眼配せをした。南玉は、立上った。そして
「へっ、へっへ。猫、鳶に、河童の屁でげすかな。岡田さん、いろいろと、いや、何うも、御世話に。御礼は、何れ後程。では、皆様、さようなら――」
南玉は、左右へ、御叩頭をして出て行った。小藤次は苦り切っていた。
南玉が、お由羅邸からの引出物の風呂敷包を持って、黄昏時の露路を入ると、自分の家の門口に、一人の男が、蹲《しゃが》んでいた。
「誰方《どなた》様でげす?」
「師匠」
男が、立上った。
「庄吉か。何うしたい」
「まあ、入ってから話そう」
南玉は、狭い、長屋の横から、勝手口へ廻って、両隣りへ挨拶した。そして、戸を開けて、庄吉を入れて、庭の雨戸を繰り開けていると
「のう、師匠。深雪さん、御奉公に上ったって云うじゃあねえか」
「うん」
「お前、あの娘を、小藤次の餌にするつもりかい?」
南玉は、答えないで、戸を開けてしまった。
「未だ、灯を入れるにゃ早いし、こうして開けておくと、油が二文がたちがうて」
懐中から油紙の煙草入を出して、庄吉の前へ坐った。
「近頃、富士春との噂が、ちらちら、ちらついてるぜ。気をつけねえと、弟子がへっちゃあ――こういうと何んだが、お前の手も、癒ったというものの、未だ、すっかり元にゃあ、なりきるめえし――困りゃしないか?」
「心得ちゃいるよ」
「気に障《さわ》ったら、御免よ。俺《おいら》、悪気でいうんじゃあねえから」
「師匠の気持は、よく判るよ。だが、師匠に俺の気持ゃ判らねえらしいの」
「いや、深雪さんから、それも、薄々聞いてはいる。いろいろと、骨を折ってくれたそうだが――そりゃあ、お前の気性でねえと、他人にゃあ出来ねえことだ」
「と、其処までは、判っているが――それから先きだ」
「ふむ――一番、考えてみよう。それから先き、先き、先き、先きと」
南玉は、尤もらしく、腕組をした。
「いろはにほへとの五つ目か」
「ええ? いろはの五つ目?」
庄吉は、指を繰って
「ほ」
「れ」
「及ばねえ色事だよ。師匠、そいつあ十分承知だ。だから、女房にもとうの、妾にしようの――いや、手を握ることさえ、俺《おいら》あ、諦めているよ。立派に、ちゃんと、駈引無しに、諦めちゃあいるよ。だがのう、俺の、この気持を判って欲しいと思うんだ。それも、俺あ、憐んでもらいたかあねえ。惚れた男を憐むって裏にゃあ、師匠、軽蔑がいゃあがるからのう。俺、男としてさ、軽蔑されたかあねえや。ただ、判って欲しいのは、男が惚れた
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