けい。ここいらでは死にとうない。牧の顔を見てからじゃ。叶わぬ節には食《くら》いついてくれる」
八郎太は、元気のいい声であった。
伝教大師の廟の石に凭れていた一人が、身体を立てて
「あれは?」
と、いって、下の方を指さした。その指さす遥か下の登り口に、一人が、一人の手負に肩を貸して、静かに登って来ていた。
「周西では?――ないか?」
「ちがう――一人は手負だ」
呟いて、すぐ人々へ
「見張が、斬られたらしい」
と、叫んで、下の方を指さした。
「誰が――」
二三人が、同音に叫んで駈け出そうとした。山内が
「周章てるなっ」
と、止めて
「誰が斬られたか?」
二人の見張は、それに答えないで、じっと、登って来る二人を見ていたが
「見張ではない、あやしい奴じゃ――山内殿、此処へ参って――」
手招きした。山内が、大股に、ゆっくりと、草原を二人の方へ歩いて行った。
牧は、貴島と、斎木と三人で、夜の祈祷の準備のために、四辺を火で清浄にしてから、その跡へ、犬の血、月経の血、馬糞の類を撒いていた。
「味方でないとすれば、不敵な代物じゃ」
「此処へ来る迄には、見張を斬らなくてはならんが――」
と、残りの人々が話し合った時、山内が右手を挙げた。
「それっ」
人々は、刀を押えて走り出した。牧は、じろっと、それを見たままで、指を繰って、何か考えていた。
「先生」
斎木が、人々の走って行くのを見て
「先生」
「判っている」
冷やかに答えて、牧は、眼を閉じた。斎木と、貴島は、人々が、一列に立並んで、刀へ手をかけているのを見ながら、不安そうな眼をしていた。
山内が、微笑しながら、ただ一人、牧へ近づいて来て
「よい生犠《いけにえ》が、来よりました。老人、若いの、御好み次第、生のよい生胆《いきぎも》がとれる――牧殿」
牧は、眼を閉じて、突立ったまま、裾を、袖を、髪を、風に吹かれていた。
「牧殿」
「判っております。御貴殿、よろしく」
山内は、じいっと、牧を睨んで、黙って踵を返した。丁度、その時、真一列に並んでいた浪人達が、じりじり左右へ分れかけた。そして、その中央に、草原の上に、二人の頭だけが現れていた。誰も、まだ刀を抜かなかったが、身体のちぢまるような、心臓のとまるような、凄い、気味悪い、殺気が、山の上いっぱいに拡がった。
左右へ分れかけた浪人は、又一つの環になって、じりじり二人を包囲しかけた。そして、口々に何か叫んでいた。二人の侍が、顔を、胸を現してきた。一人は、刀を杖にして、跛を引いていた。一人は、その右手に、その老人を庇うように、少しの隙もなく、何か、時々、浪人共にいいながら、少しずつ登って来た。山内が
「問答無益っ、斬れっ」
と、叫んだ。浪人の大半が、刀を抜いた。一人が、槍を構えた。二人は、歩みを止めて、ぴたりと背中合せになった。
仙波八郎太の顔は、死の幽鬼だった。灰色の中に、狂人のような眼だけが、光っていた。顫える手で、刀を構えて、怨みと、呪いとの微笑を脣に浮べて
「奴等、邪魔立てするか」
その声にも、顫えが含まれていた。
「牧っ」
しゃがれた声で、絶叫した。そして、咳をして、唾を吐いた。
「卑怯者めっ。一騎討じゃ――牧っ、仙波八郎太が、一期《いちご》の働きを見せてくれる。参れ、牧。参れ。参らぬかっ」
遥かのところに立っている牧へ叫んだ。牧は、眼を閉じたままであった。
「吼えるな、爺」
山内が、叫んで
「一人に三人ずつ、六人してかかれ。大勢かかっては、同志討になる。働きに、自由が利かぬ」
浪人が、お互に、左右を振向いた。そして
「退け」
「尊公が――」
と、一人が云って、油断を見せた一刹那――小太郎は、影の閃く如く、一間余り、身体を、閃かすと、ぱっと、音立てた血煙――ばさっと、鈍く、だが、無気味な音がした。その浪人がよろめいて、倒れた。
「やられた、やられた、やられた」
と、いう人々の叫びと
「うっ」
と、咽喉のつまったような呻きとが、同時に起って、浪人の列が、二三間も、だ、だっと、躓《つまず》くように、突きのけられたように崩れた。退いた。そして、二人の浪人が、草原の中に取残された。一人は、脚を引摺って、這いながら、一人は、刀を持ったまま、両腕で頭を抱えて――然し、すぐ坐ったように倒れて、丸く、膝の上へ頭を乗せてしまった。
「不覚者」
山内の顔が、さっと、真赤になった。小太郎は、父の背に己の背をつけて、正眼に構えていた。
「あ、味な真似を――」
一人が、三尺余りの強刀を、八相に構えて、八郎太の正面から、迫った。それと、同時に、七八人の口から、懸声が一斉に起って、又二人に近づいて来た。八郎太が
「小太郎、犬死せまいぞ。この人数では敵わぬ。わしは死ぬ。お前は、早く逃げい」
と、耳のところで囁いた。
「老いぼれっ。参るぞ」
じりっと、一人が一足つめて来た。瞬間
「や、やあっ」
右手から、繰出した槍――八郎太は、自分を牽制するための槍とは知ってはいたが、反射的に避けたはずみ――たたっと、よろめくと
「ええいっ」
八相の烈剣、きえーっと、風切る音を立てて打込んだ。よろめきつつ、がんと受けたが、その獰猛な力に圧倒されて、刀の下った隙――頭から、額へかけて、頭蓋骨を切り裂かんばかりの一刀――八郎太は、その瞬間、眼を閉じてしまった。よろめいた。地が引っ繰り返って、天になりそうに、脚が、細く、力無くなって、身体が宙返りするように感じた。頭の中で、があーんと、頭いっぱいに鳴り響くものと、全身にこたえた痛みとがあった。眼を開いているつもりであったが、暗黒だった。夢中で、刀を、頭上に構えた。そして
「小太郎、犬死すな」
と、自分では、力いっぱいに叫んだつもりだが、自分の耳にも聞えなかった。腕が、肩が、何かで撲られているように、微かに感じた。そして、暗黒な、地の底を、急に墜落して行くようにも感じるし、宙ぶらりんに、止まっているようにも感じた。何か、耳元で叫んだようであったが、どんな意味か、もう判らなかった。ただ、小太郎に
(犬死すな)
と、思った。
小太郎は、闘志と、怨恨とに狂った猛獣であった。何を、自分で叫んでいるのか、何う、手を――脚を動かしているのか、わからなかった。
(皆殺しだ)
と、いう憤りが、頭いっぱいに、熱風のように吹きまくっていた。父の倒れるのを、ちらっと見ただけであったが――食いしばった紫色の脣と、血を噴く歯、怨みに剥き出した真赤な眼球、肉が縮んで巻上った傷口、そこから覗いている灰白色の骨、血糊に固まった着物、頭も、顔も、見分けのつかぬくらいに流れている血――そんなものが、頭の中で、ちらちらした。
対手の浪人の恐怖した眼、当もなく突き出してくる刀、翻《ひるがえ》る袖、跳ねる脚、右から、左から閃く刀、絶叫――倒れている浪人――そんなものが、眼の前を、陰の如く、光の如く、ちらちらした。
血で、指が、柄から辷《すべ》りかけた。膝頭が曲らないように疲れて来た。呼吸が、肩で喘がなくてはならなくなってきた。舌は干《かわ》き上って、砥石のように、ざらざらしてきた。脚も、頭も、腕も、灼けるように熱かった。
(いつの間にか、かなり斬られたらしい)
と、ふと思ったが、斬られたという記憶はなかった。撲られたという微かな覚えだけがあった。汗が、血が、眼の中へ入るらしく、眼が、痛んだが、もう、眼で対手を見る力もなかった。
「小童《こわっぱ》――小童がっ」
と、叫びながら、人々を相手に跳躍している小太郎を、追って、山内は、歯噛みをしていた。浪人の二人まで即死して、四人が深手を負った。山内が、激昂しても、小太郎の腕を恐れ、金で雇われているだけの浪人は、小太郎の隙へさえ斬込まなかった。小太郎が、刀を振ると避けた。ただ遠巻きにして、小太郎の疲労を待っていた。
牧は、縄張りのところへ出て、小太郎をじっと眺めていた。そして、斎木に
「何んと申す若者かの、あれは?」
と、聞いた。
「仙波某とか――」
「おおっ、仙波八郎太か――硬直の武士じゃ。あれは、それの倅か――見事な」
牧は、静かに、小太郎の方へ、歩きかけた。貴島が
「何ちらへ」
と、いったが、黙って、草を踏んで行った。斎木と、眼を合して、貴島らの二人は、その後方へつづいた。
小太郎は、伝教大師の石室を、背にして、血塗れになっていた。半顔は、人の血と、己の血で染まっていたし、着物は、切り裂かれて、芭蕉の葉のようであった。瞳は、もう力なく、動かなくなって、すぐにも気を失いそうだった。だが、一人でも、近づくと、凄い光を放って睨みつけた。
突き出している刀尖が、時々下った。腕が、もう、刀を支えておれぬらしかった。山内が
「さ、引導、渡してくれる――南無阿弥陀仏、御大師様の廟で殺されるからは、極楽往生疑いなし、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。一同の者、よく見い、人を斬るのは、こう斬るのじゃ」
上段に振りかぶった。小太郎は、石に、背をつけたまま、だるそうに、正眼に構えた。牧が
「不憫な奴じゃ」
と、近づいて呟いた。山内は、ちらっと、その方を見ると、もう一足、小太郎に近づいた。そして、左右の浪人へ
「よく見い。真向から二つになるぞ」
と、いった。小太郎は、半眼で、じっと、構えたまま、身動きもできなくなっていた。
「逃げえ、小太郎――犬死してくれるな」
それは、墓穴の中から、死人が呼びかけたような声であった。斬倒された仙波八郎太が、左手に刀をついて、立上っていた。
「小太郎」
斬割られた頭から、どす黒く、血と混った脳漿《のうしょう》が、眼から、鼻の脇へ流れて、こびりついていた。右手の袖が、斬落されて無くなり、手も利かぬらしく、刀は持ってはいるが、だらりと下ったままであった。
振向いた人々は、背筋から冷たくなった。八郎太の血を滲ませた眼、瞳孔は空虚になって、ただ、小太郎を凝視しているだけであった。脣からは、血に染《そ》んだ歯が、がくがくふるえて現れていた。ぼろぼろに切られた袴の中で、脚が、少しずつ、動いて、少しずつ近づいて来ていた。血で、肌へこびりついた袴は、風ぐらいに動かなかった。それは、明らかに、幽霊であった。子を思う最後の一心が、死んだ身体へ乗りうつったとしか思えなかった。やさしい言葉一つさえ懸けないで育ててきた小太郎に対する、死よりも強い愛の力であった。その愛の力が、死んだ肉体を、蘇《よみがえ》らせたのだった。
小太郎は、石に凭せていた身体を立てた。頬に、眼に、さっと光が動いた。
「父上っ」
心の中で、絶叫するか、せぬかに、山内の刀――踏み込んで来た脚、上った拳、山内の引いていた呼吸が
「それっ」
と、いう懸声にかわって、毒気を吐き出す如く、力と共に噴き出した途端、小太郎は、刀を右手に提げたまま、さっと、左手へ避けた。閃いた刀は、空を斬った。かちっと、刀尖が石に当った音がした。
「小太、逃げい」
八郎太が、よろよろ近づくのに、浪人達は、気圧《けお》されたように、恐怖の眼をして、眺めていた。牧が、じっと八郎太を眺めていた。
山内は、一討ちと思って打ち込んだのを、外されて、石に当って、刀尖が折れると共に、赤くなって激怒しながら、二度目の猛撃をと、さっと振上げた瞬間――小太郎は、鹿の如く、浪人の中へ飛び込んでいた。八郎太の凄惨さに、恐怖を感じて、呆然としていた一人の浪人に、一撃をくれて、人々の囲みを脱出していた。
「たわけっ」
と、山内が、浪人に怒った。そして、振上げた刀を下ろして、小太郎の後方から走り出した。多勢の浪人共が、その後を追った。
二人の浪人は、刀を構えて、八郎太の方へ静かに近づいた。八郎太は、もう、眼が見えなくなって来たらしく、眉を顰《ひそ》めて、口を開きながら、眼をしばたたいて、小太郎の行方を捜すように、人々の走って行く方へ、うつろな眼を動かしていた。足は、もう動かなかった。
「父上っ――御免」
小太郎は、走りながら絶叫した。だが、八郎太には聞えぬらしく、微笑もしなかった。二人の浪人が、八郎太の前へ立っ
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