、もう一直線に、枯草の上を、急斜面を、鹿のように、降りていた。
「危いっ」
 一人が叫んだ。牧は、見る見る、転落して行く石のように、一直線に、小さく、小さくなっていた。一人が
「天狗業じゃ」
 と、呟いた。天童が
「呪法も、武術も、窮極したところは、同じじゃ。見事な」
 と、腕組して、牧の後姿を、眺め入っていた。

 澄み上った秋空だったが、仙波父子は、宿屋の一間に閉じ籠ったままであった。
(池上と、兵頭とは、危く脱したにちがいないが、あれまでに、お由羅方の手が廻っているとすれば――或いは、京、大阪から、二人を途中に討取るため、又人数を繰出しているかも知れぬ)
 二人の身の上を案じる外に
(牧を討つために出た二隊までが恐らくは、全滅したであろうが、益満は、何うしたか? あの男の豪胆と、機智と、腕前とは、一人になっても、生き残るであろうが――名越等、江戸の同志は、この刺客隊の全滅を知っているだろうか――いるとすれば、第三隊が出たか、出ぬか――)
 二人は、京の藩邸、大阪の藩邸にいる同志に、牧の消息を聞き、その返事を待っていたが
(もし、第三番手の刺客が派遣されたとして、自分等より早く、牧の在所《ありか》を突き留めて討ったとしたなら、自分らの面目は――目的は――立場は――一切が崩壊だ)
 益満の生死より、七瀬らの消息より、このことが重大事であった。浪人させられた武士の意地として、斉彬に報いる、唯一つの、そうして最後の御奉公として、牧仲太郎は、人手を借りずに、自分等二人の手で討取りたかった。二人は、京都の宿へ足を停めて、大阪の消息を、袋持三五郎から、京の動静を、友喜礼之丞から、知らせてもらうことにした。
 黒ずんだ、磨きのかかった柱、茶室造りに似た天井――総て侘しく、床しい、古い香の高い部屋であった。
 二十年余り、何一つ、世間のことを知らずに、侍長屋で成長してきた小太郎は、この一月足らずに起った激変に、呆然としてしまった。総ては、見残した悪夢であって、未だ頭の中で醒めきっていなかった。
「小太」
 小太郎が、眼を開けて、腕組を解いた。
「牧が国を出る時に、二十人からの警固があったとすれば、今度の旅にも、五人、七人はついている、と考えねばならぬ――その、五人、七人の人数も、一粒選りの腕利きであろう――ところで、わしは、久しく竹刀さえ持たぬし、気は、若い者に負けんつもりでも、足、手が申すことを聞くまいと思われる。ただ武士の一念として、二人、三人を対手に――これでも負《ひ》けを取ろうとは思わぬが、又、勝てるという自信も無い。勝てる、とは、卑怯ないい草じゃ。わしは、生きて戻る所存は無い。牧さえ刺殺《さしころ》せば、全身|膾《なます》になろうとも、わしは本望じゃ」
 八郎太は、床柱に凭れて、首垂《うなだ》れて、腕を組んだまま、静かにつづけた。
「然し――きっと、牧を刺せぬともいえぬ。刺せんかも知れぬ。その時に、小太」
 八郎太が、小太と、大きくいったので
「はい」
 八郎太は、小太郎の顔を、睨むように見て
「お前は、逃げんといかんぞ。わしを捨てて、再挙を計るのだ」
「然し――」
「心得ちがいをしてはならぬ。父を捨てて逃げても、所詮は、牧を討てばよい。二人が犬死をしては、それこそ、世の中の物嗤《ものわら》いだぞよ」
 厳格な眼、言葉、態度であった。小太郎は、それを聞くと、なぜだか、父の死が迫っているように感じた。

 女中が、廊下を走って来て
「赤紙どすえ」
 と、障子を開けた。小太郎が躍り出るように立上って、受取った。八郎太が、赤紙へ印判を押して、女中に戻した。八郎太は、手紙の裏を返して見て
「袋持から――」
 そして、いつものように、小柄で、丁寧に封を切った。
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火急一筆のこと、牧仲儀、今暁錦地へ罷越《まかりこし》候が、不逞浪人輩三五、警固の体に被見受《みうけられ》候に就者《ついては》、油断|被為《なされ》間敷、船行、伏見に上陸と被存《ぞんぜられ》候間、以飛脚《ひきゃくをもって》此旨申進候。七瀬殿並綱手、当座当屋敷に滞留のことと被存候――
[#ここで字下げ終わり]
「母上は、首尾よく――」
 と、云った時、廊下に足音がして
「又、御手紙どすえ」
「御苦労」
「御使の奴さん――」
「わしが参る」
 と、云って、小太郎が降りて行った。八郎太は、友喜礼之丞からの手紙を、黙読してしまうと、大きく、肩で呼吸をした。小太郎が入って来て
「友喜の小者で、怪しい者でござりませぬ」
「友喜の手紙によると、七八人から、十人近い人数が取巻いておるらしい」
「して、修法する土地は?」
「比叡山」
「矢張り――叡山」
「十人と聞いても――二十人おっても、今更、他人の助力を受けたり、後日に延したりすることはできぬ。わしが、牧の修法を妨げて斬死したと聞いたなら、正義の人々は一斉に立つであろう。わしは、それを信じて、死ぬ。然し、お前も共々に死んでは、仙波の家が断絶する。大義、親《しん》を滅す、とは、この事じゃ。小太――無駄死《むだじに》、犬死をしてはならんぞ。幸、七瀬が入り込んだとあれば、また、いかなる手段にて、敵を挫《くじ》く策略が生れて参るかも知れぬ。わしの死はお前が生きておってこそ光がある。お前が生きておれば、犬死にはならぬ。一旦の怨み、怒りで、必ず犬死してはならんぞ。眼前、父が殺されても、牧を刺す見込みが無いなら、斬破って逃げい。お前は若い。お前の脚ならば逃げられよう。そして、再挙して、わしの志を継ぐのだ。よいか。この教訓を忘れては、父の子でないぞ」
「はい」
「すぐに立とう、勘定を申しつけい」
「母上に、一度お逢いなされましては」
「たわけたことを申すな」
 八郎太は、床の間に立ててあった太刀を取って、目釘を調べ、中身を見て
「生れて初めて人を斬るか、斬られるか――こうして、じっと見ていると、この刃の表に、地獄の図が現れて来るように思える」
 刀を膝の上に立てて、刃の平をいつまでも眺めていた。
「お召しどすか」
「勘定をして、麻草鞋二足、弁当を二食分、水を竹筒に、少し沢山詰めておいてくれぬか」
「今時分から、何ちらへお出でどす」
「叡山へ参詣する。勘定を早く」
 小太郎は、室の隅で、鎖鉢巻、鎖|帷子《かたびら》、真綿入の下着を、二人分積み重ねて、風呂敷に包んでいた。
「思い残すこともない」
 八郎太は、刀を鞘に納めて
「小太、生れてはじめて、人を斬るが、老いてもわしの腕は見事じゃぞ。そうは思わぬか」
 と、笑った。

 根本中堂の、巨大な、荘厳な堂前に二人は額《ぬかず》いた。内陣には、ただ一つの宝燈が、またたいているだけで、漆黒な闇が、堂内に崇高に籠めていた。
 八郎太が、やがて、この宝燈の中へ消え去るべき自分だとも思ったり――或いは、もう一度この土の上で、同じように合掌して、歓喜に祈る自分の姿を想像したり――十死一生の勝負だとは信じていたが、自分の死ぬということが、少しも恐ろしくなく、胸を打つ程の想像も湧いて来なかった。自分の、包囲されて斬られるところを想像したが、人の斬られたのを見る程の感じもなかった。
 小太郎は、父の勤めを、暮しを、幼い時から見ていたので、下級武士が、手柄を立てて出世するというようなことは、考えられなかった。二十年でも、三十年でも、毎日同じことをしていなくてはならぬ運命だと、感じていた。父が、意地のため、自分のために、牧を斬って、それで仙波の名が名高くなったとて、何うなるのか?――益満程の才人が、腕前で、家中の人々から恐れられ、称められても、少しの出世も出来ないのに、牧を斬ったとて、何う出世が出来るか?――それよりも、牧を斬って、その手柄の代りに、母と父とを救い、妹と、自分とを、もう一度、二人の膝下へ集めたかった。苦労ばかりをして来た母に、皆の団欒を見せて喜ばしたかった。牧を討つのも、そのためになら――と、思った。
 名越左源太の子は九歳であっても、小太郎は、益満は、道を譲らなくてはならなかった。伊集院平の倅が、少し馬鹿であっても、二千石を継ぐのに十分であった。益満は、それに不平をもっていたが、小太郎は諦めていた。だが、斉彬公の愛には望みをもっていた。斉彬公の代になったら――自分の才も、腕も、きっと、人に認められるであろう。知行は昇らなくてもいいから、自分の器量を――と、思うと、斉彬を呪っている牧が、憎くなってきた。
 だが、父が、牧を討たずに死ぬ?――それも犬死ではないか。益満は、きっと遅れても来着するだろう。それを待って、牧を襲っても遅くはないのに――十人も警固の人数がいては、敵さないことは判り切っているのに――。
 小太郎の闘志は、少しも起って来なかった。父は独りで興奮しているが、あの手紙も、何も皆※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]で、この深い山の中は、この堂と同じように、沈黙と、荘厳とだけしかないのだ。牧なんか居るものか――というように思えた。
 八郎太が立上った。杉木立の下を、熊笹の中を、裾を捲り上げて登った。羽織の下に襷をかけて、鎖鉢巻を袖の中へ隠して
「油断するなよ」
 二人が耳を澄まし、呼吸を調えて、静かな足取で、小半町行くと、人影が木立の間に見えた。八郎太が佇んで、見届けようとした時、木立の間から、細径へ二人の侍が出て来て立止まった。
「見張」
 と、小太郎が囁いた。囁くと共に、拳も、胴も、膝頭も、ふるえ出した。押えても、ふるえが止まらなかった。腋の下に、冷たい汗が流れて来た。
(逆上してはいけない。怯けてはいけない)
 と、押えたが、何うしても止まらぬうちに、二人の前近くへ来た。一人が、径の真中で
「御貴殿達へ申し入れる。吾々の姓名は御容赦願いたい。当山の許可を受けて、都合によりここより一切登山を止めておりまする。お戻り願いたい。甚だ勝手ながら、何卒」
 一人は、横を向いて、草鞋で土をこすっていた。

「ははあ――」
 八郎太は、さも感心したようにいったが
「当山の許しを得たと仰しゃれば、是非もござらぬが――念のために、許可状を拝見致しとうござる」
 後方にいた侍が、険しい眼をして、八郎太の方へ向き直った。
「頂上には、尊貴の方が修行してござるで――お戻り願いたい」
「尊貴の方とは?」
 二人は、答えなかった。
「尊貴の方の、御名前を承りたい」
 小太郎は、静かに足を引いて身構えにかかった。いつの間にか、顫えが無くなっていた。
「しつこい。断って通られるなら――」
 八郎太が、大声で
「尊貴の方とは、牧仲太郎か」
「何っ」
 二人が、一足退って、柄へ手をかけた。八郎太は畳みかけて
「牧の修法か」
 二人は
「如何にも――それを知って通るとあらば、血を見るぞ」
 と、叫んだ瞬間、杉木立に、谷間に、山肌に木魂して
「ええいっ」
 小太郎の腰が、少し低くなって、左脚が、後方へ――きらっと、閃いた白刃は、対手を打つか、打たぬかに、小太郎の頭上で、八相に構えられていた。対手の肩口の着物が、胸の下まで、切り裂けて、赤黒い血が、どくんどくんと、浪打ちつつ噴き出していた。対手は眼を閉じて、暫くの間、前へ、後方へ揺れていたが、声も立てずに、脚も動かさずに、転がってしまった。それは、ほんの、瞬間だった。
「よし」
 と、八郎太が、声をかけた。残った一人は、蒼白な顔をして、正眼につけたまま、動きもしなかった。小太郎の早業に、腕の冴えに、すっかり圧倒されてしまって
(逃げたら後方から斬られる――だが、逃げないでも――)
 と――それは、丁度、猛獣に睨まれている兎であった。自分の斬られるのを知りながら、もう、脚も、頭も、しびれてしまって、自由にならないのだった。
 小太郎が、八郎太に
(斬りましょうか)
 と、目配せをした。八郎太は、顔を横に振った。そして、静かに、刀を抜いて
「覚悟」
 対手は、八郎太へ眼を向けた。そして、じりっと、脚を引いた刹那
「やっ――」
 真向からの打ち込を、ぱちんと受けて、摺り上げようとした瞬間
「やっ、やぁーっ」
 老人とも思えぬ、鋭い気合が、つづけざまにか
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