う一度、頭の心から冷たくなってしまった。
「頼むえ」
お由羅が、こういって、一間《ひとま》へ入ってしまうと、手をついていた侍女達が、頭を上げて、二人が、襖のところへ、三人が、廊下の入口へ、ぴたりと坐った。そして、懐剣の紐を解いた。
お由羅が入ると、青い衣をつけた、三十余りの侍が、部屋の隅から、御辞儀をして
「用意、ととのうております」
部屋の真中に、六七尺幅の、三角形の護摩壇が設けられてあった。壇上三門と称されている、その隅々に香炉が置かれ、茅草を布いた坐るところの右に、百八本の護摩木――油浸しにした乳木と、段木とが置かれてあった。
お由羅が、壇の前へ跪《ひざまず》いて、暫く合掌してから、立上ると、その男が、黒い衣を、背後から着せた。お由羅は、壇上へ上って、蹲踞《そんきょ》座と呼ばれている坐り方――左の大指《おやゆび》を、右足の大指の上へ重ねる坐り方をして、炉の中へ、乳木と、段木とを、積み重ねた。そして、左手に金剛杵《こんごうしょ》を持ち、首へ珠数《じゅず》をかけてから、炉の中の灰を、右手の指で、額へ塗りつけた。
侍は、付木から、護摩木へ、火を移すと、お由羅は、白芥子と塩とを混じたものを、その上へふりかけた。小さく、はぜる音がした。火花がとんで、すぐ燃え上った。
侍は、一礼して退くと、索縄《さくじょう》と、刀とをもって、お由羅の坐っている壇の下、後方へ、同じように指を重ねて坐った。そして、低い声で
「東方|阿※[#「門<((企−止)/(人+人))」、第3水準1−93−48]《あしゅく》如来、金剛忿怒尊、赤身大力明王、穢迹《えじゃく》忿怒明王、月輪中に、結跏趺坐《けっかふざ》して、円光魏々、悪神を摧滅す。願わくば、閻※[#「咤−宀」、第3水準1−14−85]《えんた》羅火、謨賀《ぼか》那火、邪悪心、邪悪人を燃尽して、円明の智火を、虚空界に充満せしめ給え」
と、祈り出した。
寛之助の病平癒の祈祷をするといって、この護摩壇を設けたのであったが、三角の鈞召火炉は、調伏の護摩壇であった。今、祈った仏は、呪詛の仏であった。
壇上の品々――人髪、人骨、人血、蛇皮、肝、鼠の毛、猪の糞、牛の頭、牛の血、丁香、白檀、蘇合香、毒薬などというものは、人を呪い殺すために、火に投じる生犠の形であった。
黒煙が、薄く立昇ると、お由羅は、次々に護摩木を投げ入れ、塩を振りかけ、水をそそいだ。煙は、濛々《もうもう》として、生物のように、天井へ突撃し、柱、襖を這い上って、渦巻きおろして来ると、炉の中の火が、燃え上って、部屋の中が、明るくなった。
お由羅は、暫く眼を閉じて、何か念じていたが
「南無、金剛忿怒尊、御尊体より、青光を発して、寛之助の命をちぢめ給え」
と、早口に、低く――だが、力強くいって
「相《そう》は?」
と、叫んだ。と同時に、侍が
「蛇頭形」
と、叫んだ。火炉の中の火焔は、蛇の頭の形をしていた。槍形、牙形というように、焔の形によって判断をするのが、調伏法の一つであった。
お由羅は、また、眼を閉じて、護摩木を投げ入れ、毒薬と、丁香とをそそぎかけて
「色は?」
と、叫んだ。
「黒赤色」
黒赤い、凄さを含んだ火焔が、ぱっと立っていた。
「声は?」
「悪声《あくじょう》」
それは、焔の音を判じるのであった。
煙と、異臭とが、部屋の中で、渦巻いた。お由羅は右手で、蛇の皮を、犬の胆を、人の骨を、炉の中へ投げ入れて、その度に
「相は?」
とか
「声は?」
とか――火焔の頂の破散で判じ、音で判じ、色で判じ、匂で判じて、調伏が成就するか、しないか――額は、脂汗が滲み出していたし、眼は異常に閃いていた。手も、体も、ふるえて、いつもの、甘い、女の声が、狂人のように、甲高《かんだか》くなっていた。
焔を、見つめていた侍が、お由羅の、顔を眺めて、立上った。索縄を、壇上へ置いて、刀を持ち直して、お由羅の右手へ廻った。そして、何か、口の中で呟いて、お由羅の手をとると、お由羅は、半分失神し、半分狂喜しているような、凄い眼を閉じて、右手を侍の方へ突き出した。
浅黒い、だが、張切った、艶々した腕が二の腕までまくり上げられると、侍の手に引かれて、火焔の上の方へ、近づいた。
「南無赤身大力明王、穢迹忿怒明王、この大願を成就し給え」
侍は、こう叫ぶと、刀の尖《さき》を、手首のところへ当てて、青白く浮いている静脈を、すっと切った。血が、湧き上って来て、見る見る火の中へ、点々と落ちた。
二人は、そのままの形で、俯向いて、何か念じると、だんだん、お由羅が、首を下げてきて、左手に金剛杵をもったまま、壇上へ、片手をついてしまった。その瞬間、侍は、疵口を押えて、火の中へ倒れかかろうとするお由羅を、後方へ押し戻した。
「大願成就、大願成就」
と、いいながら、お由羅の両手を、胸のところへ集めて、抱きかかえながら
「お方」
背を押して、叫んだ。お由羅は、眼を開けて、自分で手首を押えて、軽く、お辞儀をした。侍は、布を出して、膏薬を貼った上から、縛った。お由羅は、しびれた、痛む胸を、這うようにして、壇から降りて
「火が、みんな、左へ廻りましたの」
と、微笑した。
「吉相にござります。焔頂、左に破散して、悪声を発す。今夜の内に、成就致しましょうか」
「牧は、今夜あたり、お国の何《ど》の辺で、祈っておりましょうか」
侍は、壇の下から、護摩木を取り出して、積みながら
「烏帽子岳か――黒園山あたりで、ござりましょう」
侍は、兵道家牧仲太郎の高弟、与田兵助という人であった。
お由羅が、汗を拭いて、壇の下へ坐ると、兵助が、燃え尽そうとしている護摩木の中へ、新しい木を、一本一本、押頂いて、載せて行った。煙と、焔とが、又、勢いよく立ちかけた。
兵助は、気味の悪い、鈍い眼をした牛の頭を、両手で、静かに、火炉の中へ置いた。すぐ、毛の焼ける、たまらない臭が、部屋中へ充ちた。兵助は、口の中で、何か唱えながら、白檀と、蘇合香とを、牛頭の上から、撒きちらした。
右手に置いてあった、尖に、微かに、血のにじんでいる直刀を握って、牛の眼へ、ぴったりつけながら
「南無金剛忿怒尊」
と、叫んで、眼を突いた。白い液が、少し流れ出て来た。兵助は、左の眼も突き刺した。
「お待ちに、ござりまするが」
三度目の使が、襖外で、恐る恐る、声をかけた。斉彬は
「今――」
と、いったまま、紫檀《したん》の大机に凭《もた》れて、書物《かきもの》をしていた。そして、筆を走らせながら、
「今行く」
と、大きいが、物やさしい声をした。机の上にも、膝の周囲にも、書物と、書き損じの紙とが、散乱していた。
寛之助の臨終にも、同じ邸にいる父として、無論、行かねばならなかったが、今書いている「大船禁造解」と、「大船禁造令撤去建議案」とは、一日早く出来上れば、一日だけ、日本に利益と、幸福とを齎《もたら》して来るものであった。
斉彬の頭の中も、血の中も、大船を造ることを禁じるというような愚令を、早く、撤廃させなくてはならぬ、ということで、いっぱいになっていた。煙を上げて走る、鋼鉄で装われた舶来船で、表象されている異国の力と、知識とを得んがためには、同じ船を作るより外に、最初の手がかりは無いはずであった。
幕府も、それを知っておりながら、反対論に怯えたり、繁雑な手続きを長々と調べたり――斉彬は、そういう役人、大名、輿論に対して、ただ一人、この部屋で、こうして闘っていた。ふっと、寛之助のことを思い出しても、自分の子の病、死などは、窓外をかすめる風音ぐらいにしか感じなかった。
(医者が十分に手当をしてくれている。自分がいたとて、癒らぬものは癒らぬ)
と、呼びに来られると、考えた。
(自分が行かないために、よし、寛之助が死んだとしても、この草案には代えられぬ。この草案のために、あの子が犠牲になったとしたら、こんな光栄な死はない)
と、いうような理窟まで考えた。だが、立上った。襖を開けると、近侍が、廊下に手をついて待っていた。
「もう、死んだか」
「いいえ、御重態のよしでござります」
斉彬は、愛児の見舞に急ぐよりも、早く見舞って早くここへ戻らんがために、大股に、早足に、廊下を急いだ。
「お渡り――」
と、いっている声が聞えた。侍女だの、医者だのが、出迎えに来た。
病室へ入ると、誰の顔にも、不安さと、涙とがあった。英姫の眼は、泣きはれて、蕾のようになっていたし、七瀬の髪は乱れて、眼が血走っていた。斉彬は、寛之助の枕頭へ坐って、じっと、病児の顔を眺めた。
寛之助は、眼に見えぬ敵と、何《ど》んなに戦ったのだろう? 三日見ない間に、頬の艶がなくなって、痩せてしまっていた。罪の無い、無邪気な幼児が、たった一人で、乳母の力も、医者の力も、およばないところで、泣きながら、苦しめられながら、怯えながら、死と悪闘している姿を想像すると、斉彬は
「若」
と、叫んで、涙ぐんだ。血管が青く透いて見える手、せわしく呼吸に喘いでいる落ちくぼんだ胸、愛と、聡明とで黒曜石の如く輝いていた眼は、死に濁されて、どんよりと、細く白眼を見開いているだけであった。
「回復の望みは――」
「はっ」
と、いって、三人の医者は、頭を下げたままで、何んとも答えなかった。見ない前の心強さが、寛之助のいじらしい姿に、打ちくだかれて、斉彬は、幾度自分の名を呼び、自分を見たく思ったかと思うと、熱い悲しみの球のようなものが、胸から、頭の中までこみ上げて来た。
「痩せたのう」
と、いって、斉彬は、意識のない寛之助の、手を握った。掌へ感じたのは、熱と骨とだけであった。英姫は、それを見ると、袖を口へ当てて泣き入った。
(せめて――せめて正気のある間に、そうしてやって下さったなら)
二日前英姫の懐の中で、熱っぽい、だるそうな目をしながら
「お父《とと》は?」
と、聞いた時、幼児は、それが父に逢う最後だと感じていたにちがいなかった。
「見たいか」
と、聞くと、はっきり、強く
「お父は?」
と、いって、頷いた。英姫は、すぐ、侍女に斉彬を迎えにやったが、今行く、今行くと、とうとう斉彬の来ぬうちに、また熱の中へ倒れてしまったのであった。
(何んなに、顔を見たかっただろうか)
寛之助が、灰色の、広々とした中を、ただ一人で、とぼとぼと、果もなく、父を恋い、母を求めて歩いて行く姿が考え出されて来た。英姫は、袖を噛んで泣き入った。
「寛之助――父《てて》じゃ」
と、斉彬が叫んだ。だが、幼児の眼は、もう動きもしなかった。
「方庵」
「はっ」
「澄も、邦も、同じ容体で、死んだのう」
「はい」
「未だ匙《さじ》が届かぬか」
やさしいが、鋭い言葉であった。斉彬のいうのは、当然であったが、方庵には、どうしても解《げ》せぬ病であった。
「七瀬、疲れたであろう」
「いいえ」
「病は、薬よりも、看護じゃ。こういう幼児には、余計にそうじゃで――」
七瀬は、斉彬の称《ほ》めてくれる言葉を、責められているように聞いた。寛之助の死は、斉彬にとって、後嗣《あとつぎ》を失う大事であると共に、七瀬にとっても、仙波の家を去らなければならぬ大事であった。夫の肩身を狭くし、自分を不幸にさせ――と、思った時
「ひーっ」
と、寛之助が叫ぶと、斉彬に握られている手も、身体も、力の無い脚も、一度に、病児とは思えぬ程の力で突上げ、顫わせた。脣は、痙攣《けいれん》して、眼は大きく剥き出し、瞳孔を釣上げてしまって、恐怖と、その苦痛とで、半分気を失っているような表情であった。
「寛之助っ」
斉彬は、不意に、力いっぱいに振切ろうとした寛之助の痩せ細った手を握りしめて、がたがた顫えている子供の身体を、片手で軽く押えながら
「父じゃ――見てみい、父じゃ」
と、顔を、幼児の眼の上へ、押しつけた。
「見えんか――寛之助っ、父じゃ」
斉彬の声は、沈黙している部屋中へ響いた。涙声であった。
「七瀬――おそわれると――いつもこうか?」
「はい」
寛之助の脣は、わくわくと開いたり、閉じたり、身体は烈しく
前へ
次へ
全104ページ中4ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング