、いつも感じたことのない凄さと、無気味さとを含んだ、丁度、真暗な、墓穴の中にいるような、凄い静かさであった。七瀬《ななせ》は、肌をぞっとさせ、頭の中へ不吉なことや、恐ろしい空想を、ちらっとさせた。
(何を、怯《おじ》けて――)
 と、自分を叱って、すぐ膝の前に、よく眠入《ねい》っている、斉彬の二男、寛之助の眼を、じっと眺めた。
 新しい蒲団を三重にして、舶来の緋毛布に包まれて、熱の下らない、艶々と、紅く光る頬をした四歳になる寛之助は、睫毛も動かさないで、眠入っていた。七瀬が耳を寄せると、少し開いた口から、柔かな、穏かな呼吸が聞えた。
(この分なら――)
 と、微笑して、身体《からだ》を引くと、また、余りの静かさが、気にかかった。その静かさに、それから、自分の臆病さに、反抗するように、わざと灯の影の暗い天井を仰いだ。暗い、高い天井を、じっと凝視《みつ》めていると、じりっと、下って来るように感じたが、睨むと、何んでもなかったし、屏風の蔭から、誰かが顔を出しそうなので、じっと眺めていたが、何も、出て来なかった。
(なぜ、今夜に限って、こんなことが、気にかかるのか? 大事な役を勤めておりながら、何んという臆病な――)
 と、自分を励ましたが――そう思う次の瞬間に、後方《うしろ》の襖の中から、鬼のような、化物のような奴が、こっちを見ているような気がした。
 左右の次の間には、典医と、侍女と、宿直《とのい》の人々とがいたが、物音も、話声もしなかった。
 寛之助の母の英姫は、寛之助が安眠したのと、斉彬が未だ起きているので、その部屋の方へ行った。英姫が、去ると、蘭法医の寺島宗英も、漢法医の延樹方庵も、控えの間に退ってしまった。そして、徹夜をして詰めていた侍女が、更代に出て、近侍も、七瀬に頼んで休憩に下るし――それらの人々は、次の間か、遠くないところにいるにちがいないのだが、物音一つしない静かさで、七瀬一人が灯影のゆらぐ下に坐っていた。
 長男の菊三郎は、生れて一ヶ月日に死んだので、誰も気がつかなかったが、澄姫と、邦姫の二人は、三歳と、四歳になって、原因不明の病で死んだから、人々の記憶には、十分残っていた。
 この二人の死ぬ前の症状と、寛之助の近ごろとが、よく似ているのであった。時々、熱を出して、よく怯えて――この十日程前から眠入っていても、出し抜けに泣いたり、眼の中いっぱいに、恐怖の色を見せて、小さい掌に汗を出していたり
「怖いっ」
 と、泣いて、飛び起きたり――それは、前の二人の時にも医者が
「御弱い上に、熱が高いと、恐い夢をよく見ます」
 と、いったが、斉彬の近侍の二三は
「然し――」
 と、いって、うつむいて、何か考えていた。七瀬は、その人々の言葉を思い出して
「調伏?――」
 と、ちらっと、考えた時、ぴーんと、木の裂ける音が、七瀬の心臓を、どきんとさせた。

 七瀬は、裁許掛見習、仙波八郎太の妻であった。そして斉彬の正室、英姫の侍女でもあった。誠実で、聡明で、沈着であったから、寛之助の病が、悪化してくると共に、その看護を仰せつけられたのであった。
「何うも、可怪《おか》しい、何か、悪い企みがあるのではないか」
 と、いう疑いが、まず、お目付兼物頭、名越左源太から起された。澄姫が、亡くなった時にも、熱がつづいて、医者は、首を振るだけで
「さあ――」
 と、臆病そうな目を上げるだけであったが、今度も、病状が判らなかった。澄姫は、死ぬ少し前から、小さい、痩せた手を、出し抜けに、蒲団の中から出して、誰かに、縋りを求めながら
「怖いっ、怖いっ」
 と、絶叫した。身体が、がたがた顫えて、瞳孔が大きく据ってしまって、いじらしい程、恐怖の怯えを眼にたたえながら、侍女へ抱きついて、顔を、その懐へ差込んだ。
「夢でございますよ――何も、おりませぬ」
 と、侍女は、怯えている澄姫を、正気にしようとしたが、澄姫は、がくがく顫えて、しがみついたままであった。
 英姫は、余り、いじらしいので、自分が夜を徹して、澄姫の枕許にいたが、澄姫は、だんだん、夜になるだけにでも、怖れだしてきた。昼間の、陽の明るい折
「寝てから、何を、見るの?」
 と、聞くと、それだけでさえ、もう、顔色を変えて
「鬼――」
 と、答えると、それ以上のことは、怖ろしくて、説明もできないようであった。そして、だんだん衰弱して行った。
 左源太は、その澄姫の死を想い出すと、可愛盛りの寛之助を捨てておけなかった。もう一度、あの恐怖に怯えさせるかと思うと、斉彬の冷淡さに、腹が立ってきた。
「寛之助様、ばかばかしゅうござりませぬが」
 と、いうと、斉彬は、ホンフランドの「三兵話法」を、読みながら、
「あれは、生来弱い」
「しかし、御病状が、異様でござります」
「病気のことは、医者に任せておけ」
「医者の手ではおよばぬ――」
「なら、天命だ」
 左源太は、それ以上、斉彬に云えなかったから、英姫に
「よもやとは思いまするが、例《ためし》のあること。油断せぬに、しくはござりませぬ。典医、侍女の方は、某《それがし》が、見張りますから、夜詰の人に、政岡如き女を――」
 と、すすめて、そして、七瀬が、選まれることになったのであった。病間夜詰と、きまった時、仙波八郎太は
「寛之助様は御世継ぎじゃで、もしものことが、おありなされたら、ここの敷居を跨げると思うな」
 と、云い渡した。小身者の仙波として、七瀬が首尾よく勤めたなら、出世の緒《いとぐち》をつかんだことになるし、他人に代った験《しるし》が無かったなら、面目として、女房を、そのままには捨て置けなかった。
「心して、勤めまする」
 と、答えて来たが、夜の詰をして、三日目の今夜は、いつになく、気が滅入って、何うしたのか、怯け心が出て来た。
 灯が、暗いようなので、心《しん》を切ろうと、じっと、灯を見つめながら、手を延そうとすると、部屋中が、急に薄暗くなって、天井が、壁が、畳が、襖が、四方上下から、自分を包みに来るように感じた。

 七瀬は、脚下から寒さに襲われた。はっとして、手を引くと、心を落ちつけようと、努力しながら、四方を見廻した。
 床の間には重豪の編輯《へんしゅう》した「成形図説」の入った大きい木の函があったし、洋式鉄砲、香炉、掛物の万国地図。それから、棚には呼遠筒が、薄く光っていた。
 誰かを呼びたい、ような気もしたが、自分の気の迷いで、人を呼ぶのも恥かしかったから、心切《しんき》りを持ち直して、燭台を見ると、前よりも薄暗いようであった。蝋燭の灯が、妙に黄ばんでいて、蔀屋の中が、乳白色の、霧のようなもので、満たされているようであった。
(和子《わこ》は――)
 と、寛之助を見ると、よく眠入っているし、その愛らしい睫毛さえ、はっきりと判ったから、安心して、部屋の異状を、見定めようとすると、その乳白色の空気が、薄暗い屏風の背後へ、流れ込むように動いていた。
 七瀬は、蒼白になって、息をつめて、膝を握りながら、自分の恐怖心にまけまいと、それを、じっと眺めていると、霧の固まりが屏風の背後で、ぐるぐる廻り出したように見えた。そして、屏風が、はっきりと眼に見えていながら、屏風の後方が、屏風を透して見えているように思えた。
(夢かしら?――夢ではない)
 と、思った瞬間――部屋の中が、急に、四方から狭められたように感じられてきて、畳が、四方の隅から、じりじりと、押上がってくるように思えた。
 七瀬の手は、いつの間にか、守り刀の袋へかかっていた。眼は、恐怖に輝きながら、廻転している霧を、睨みつけていると、霧が気味悪い、青紫色にぎらぎらと光るようにも見えたし、光ったのは眼の迷いであるような――そして、自分の眼が、何うかしていると、じっと、眺めると、その霧の中に凄い眼が、それは、人間の眼であったが、悪魔の光を放っている眼であった。
「あっ」
 と、叫んだが、声が出なかった。
(これが、寛之助様に――)
 と、思ったが、手も、足も、身体も、動かなかった。急に、青紫色の光が、急速度で、廻転すると共に、その光る眼の周囲に、人の顔らしいものが現れたように感じた。痩せた、鋭い顔であった。
 七瀬は、動かぬ手を、全身の力で動かそうとしながら、一念を凝《こ》めて
(こいつを、退散させたら――)
 と、全精神力を込めて、睨みつけた瞬間、寛之助が
「ああっ」
 と、叫んで、両手を、蒲団から突き出すと、顫えたまま、左右へ振って
「こわいっ――」
 七瀬が、その声に、寛之助を眺めて、はっと胸を押されると、部屋は、前のように明るく、その灯の下で、寛之助が、汗をにじませて、恐怖に眼をいっぱいに開いているだけであった。
「和子様っ」
 と、上から、抱くと、寛之助は、身体を、がたがた顫わせて、しっかりと抱きついた。七瀬の頬に触れた寛之助の額は、ただの熱でなく、熱かった。
 長いようでもあったし、短いようでもあった。ほんの瞬間、疲れから、夢を見たような気もしたし、本当に、奇怪な事が起ったようにも思えたし――七瀬には、判断がつかなかった。ただ、鋭い眼だけは、頭の隅に、閃いていた。

 侍女が、つつましく、襖を開けるのさえ、もどかしかった。顔が見えると、すぐ
「方庵を――」
 侍女は、立って入ろうとした。
「方庵を、早く――」
 侍女は、七瀬の声と、顔が、ただでないのを見て、襖を閉め残したまま、小走りに行った。
 寛之助は、熱い額を、頬を、七瀬の肌へ押しつけて、獅噛《しが》みついていた。寝かせようと、下へ置こうとすると、咽喉《のど》の奥から叫んで、置かれまいとした。
「七瀬がおります。七瀬がおります」
 背を軽く叩いて、顫える寛之助を、安心させようとしながら、七瀬は、眼の底、頭の隅に残っている今の幻像が、誰かに似ていると考えた。だが、似ているその誰かが思い出せなかった。
 抱き上げていて、風邪をひかしてはならぬと思ったので、寛之助が獅噛みついているまま、寝床の中へうつ伏せになって、毛布でくるんだ。
(あの物《もの》の怪《け》に、おそわれなさるのかしら)
 と、考えたが、そんなことが、有るべきはずでなかったし、自分の心の迷いから、幻に見たことを、迂濶《うかつ》に、人には話すこともできなかった。然し、心の迷いにしては、余りに明瞭《はっきり》と、幻の顔が残りすぎていた。
 微かに、足音がつづいて襖が開いた。方庵と、左源太と、奥小姓野村伝之丞とが、入って来た。三人とも、七瀬が、寛之助の熱を出させたように、睨みつけて、枕辺に坐ると
「何かに、おびえなされまして、急に、お目ざめになると、このお熱で――」
 方庵が、額へ手を当てた。
 七瀬が、身を引こうとすると
「こわいっ、いやっ――」
 寛之助が、烈しく、身体を悶《もだ》えて、小さい拳をふるわせつつ、七瀬の襟をつかんだ。
「左源太が、打《ぶ》った斬《ぎ》ってやりましょう。左源太は、鬼でも、化物でも、打った斬りますぞ、若」
 寛之助は、顔を埋めたまま、いやいやをした。
「余程、おびえていなさる」
 と、伝之丞が呟いた。
「方庵、澄姫様の時と、同じであろうが」
「うむ、気から出る熱らしいが――」
 方庵は、寛之助の脈を取って
「宗英も、判らんといいおったが――」
「七瀬――何んぞ、異状無かったか?」
 七瀬は、黙って左源太を見た。異状すぎた異変を見たが、それを見たといっていいか――本当に見たのか、夢を見たのか? それさえ明瞭《はっきり》しないことを、いいもできなかった。
「異状は、ござりませぬが――」
 と、いった時、さっき見た幻の顔が、島津家兵道の秘法を司《つかさど》っている牧仲太郎に似ているように思えた。ただ、牧は、もっと若かった。
(調伏――もしかしたなら)
 七瀬は、こう感じると、冷たい手で、身体を逆撫でされたように、肌を寒くした。
「若、何を御覧なされますな。左源太が、追っ払ってくれましょう。どっちから?――あっちから?」
 と、寛之助の顔をのぞき込むと、左源太の指している方を、ちらっと見て、うなずいた。左源太の指は、屏風の方を指していた。七瀬は、も
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