向いて
「近々に、牧に逢ったかの」
「一向に――」
「噂をきかぬか」
「ただ、江戸へ参られました、と、それだけより存じません」
牧仲太郎とは、玄白斎の後継者で、牧に職を譲って、玄白斎は、隠居をしているのであった。
「もしか、牧が――」
玄白斎が、呟いた。
「牧どんが?」
「いいや――」
玄白斎は、首を振って
「今日のことは、和田、極秘じゃ」
街道へ出てからも、玄白斎は、考えながら歩いているらしく、いつものように、左を見、右を見しなかった。和田は、大抵の雨にも、雪にも、薬草採りをやめない老師が、急に帰るのを考えると、何か、大変なことが起っているように感じられた。
(牧より外に、あの秘法を行う人間はない筈だ――牧の仕業としたなら――何んのために――誰《たれ》を――)
玄白斎は、険路も、汗も感じないで、考えつづけた。
(もし、自分の考えが、当っていたとしたなら――島津家の興廃にかかわる――)
玄白斎の考えは、次のようなことであった。
当主|斉興《なりおき》の祖父、島津重豪は、英傑にちがいなかった。彼は、シーボルトが来ると、第一に訪問した。それから、大崎村に薬園を作ったし、演武館、造士館、医学院、臨時館の設立、それによって、南国|片僻《へんぺき》の鹿児島が、どんなに進歩したか?
彼自らは「琉球産物誌」「南山俗語考」「成形図説」を著し、洋学者を招聘し、鹿児島の文化に、新彩を放たしめたが、然し、それは悉《ことごと》く、多大に金のかかることであった。
また重豪は、御国風の蛮風を嫌って、鹿児島に遊廓を開き、吉原の大門を、模倣して立てた。洋館を作った。洋物を買った。そうして、最後に、彼の手元には、小判はおろか、二朱金一つしかないことさえできるようにもなってしまった。
士《さむらい》は、鍔《つば》を売り、女は、簪《かんざし》を売って献金し、十三ヶ月に渡って、食禄が頂戴できないまでに窮乏してしまった。そして、彼は隠居をした。
次代の斉宣《なりのぶ》も、士分も、人民も、この重豪の舶来好みによって、苦難したことを忘れることができなかった。だから、斉宣は、秩父太郎|季保《すえやす》を登用して、極端な緊縮政策を行った。然し隠居をしても、濶達な重豪は、自分に面当《つらあて》のようなこの政策に、激怒した。そして直ちに、秩父を切腹させ、斉宣を隠居させ、斉興を当主に立てた。
斉興は、茶坊主笑悦を、調所《ずしよ》笑左衛門と改名させて登用し、彼の献策によって、黒砂糖の専売、琉球を介しての密貿易《みつがい》を行って、極度の藩財の疲弊を、あざやかに回復させた。
然し積極政策では、重豪と同じ斉興ではあったが、大の攘夷派で、従って極端な洋学嫌いであった。尊王派の頭領として、家来が
「西の丸、御炎上致しました」
と、いった時
「馬鹿っ、炎上とは、御所か、伊勢神宮の火事を申すのだ。ただ、焼けたと申せ」
と、怒鳴る人であった。家来が恐縮しながら
「就きまして、何かお見舞献上を――」
「献上? 献上とは、京都御所への言葉だ。未だ判らぬか、此奴。何んでもよい、見舞をくれてやれ」
ペルリが来た時、江戸中は、避難の荷物を造って騒いだ。その時、三田の薩摩邸は、徹宵、能楽の鼓を打っていた。翌日、門に大きい膏薬《こうやく》が貼ってあるので、剥がすと、黒々と「天下の大出来物」と書いてあった。
斉彬《なりあきら》は、この父の子であった。だが、幼少から重豪に育てられて、洋学好みの上に、開国論者であった。そして、自然の情として、父斉興とは、親しみが淡《うす》かった。その上に、幕府は、斉彬を登用して、対外問題に当らせようとして、斉興の隠居を望んでいた。斉興が斉彬をよく思わないのは、当然である。
そして、斉興も、家中の人々も、斉彬が当主になっては、また、重豪の轍を踏むであろうと、憂慮した。木曾川治水の怨みを幕府へもっている人々は、幕府が、斉彬を利用して、折角の金をまた使わせるのだとも考えた。
そうして、斉彬の生母は死し、斉興の愛するお由羅《ゆら》が、その寵《ちよう》を一身に集めていた。そして、お由羅の生んだ久光は、聡明な子の上に、斉興の手元で育てられた。
(斉彬を廃して、久光を立つべし)
それは、斉彬の近侍の外、薩藩大半の人々の輿論《よろん》であった。玄白斎は考えた。
(斉彬を調伏して、藩を救う――然し――)
老人は、山路を、黙々として、麓へ急いだ。
黙々として歩いていた玄白斎が、突然
「和田」
と、呼んで立止まった。和田が、解《げ》しかねる玄白斎の態度を、いろいろに考えていた時であったから、ぎょっとして
「はい」
と、周章《あわ》てて、返事して、玄白斎の眼を見ると
「その辺に、馬があるか、探してのう」
こういいながら、腰の袋から、銭を出して
「一《ひと》っ走《ぱし》り、急いで戻ってくれぬか」
和田は、何か玄白斎が、非常の事を考えているにちがいない、と思うと、ほんの少しでもいいから、それが、何《ど》んなことだか、知りたかった。それさえ判れば、自分にも多少の智慧もあり、判断もつくと思った。それで
「御用向は?」
「千田、中村、斎木、貴島、この四人の在否を聞いてもらいたい――居ったら、それでよい。もし居らなんだ節は――」
玄白斎は、髯をしごきながら
「何時頃から居らぬか?――何処へ行ったか? 誰と行ったか?――それから、便りの有無――よいか、何時、誰と、何処へ行ったか? 便りがあったと申したなら、何時、何処から、と、これだけのことを聞いて――」
玄白斎は、小首を傾けて、まだ何か考えていたが
「一人も、もし、居らなんだなら、高木へ廻って、高木を邸へ呼んでおけ。それから」
玄白斎は、和田の眼をじっと見ながら
「何気なく、遊びに行ったという風で、聞きに行かんといかん」
玄白斎は、こういって、静かに左右を見た。そして、低い声で
「牧は斉彬公を調伏しておろうも知れぬ」
和田は、口の中で、はっといったまま、うなずいた。
「わしの推察が当って、もし、貴島、斎木らが四人ともおらなかったなら、一刻も猶予ならん。すぐに延命の修法《ずほう》だ」
「はい」
「斉彬公の御所業の善悪はとにかく、臣として君を呪殺することは、兵道家として、不逞、不忠の極じゃ。君の悪業を諫めるには、別に道がある。もし、牧が、軍勝の秘呪をもって、君を調伏しておるとすれば、許してはおけぬし、左《さ》はなくとも、秘法を行っている上は、何んのために行っておるか、聞きたださぬと、わしの手落になる」
和田は、玄白斎の考えていたことが、すっかり判った。そして、判った以上、すぐに、命ぜられた役を、出来るだけ早く果したいと、気が、急《せ》いてきた。それで、大きく、幾度もうなずいて
「それでは、一走りして。谷山には、馬がござりましょうから――」
「わしも急ぐ――」
和田は、木箱を押えて
「お先きに」
と、いうと
「箱を――」
と、玄白斎は、手を出した。
「はっ――恐れ入ります」
和田は、急いで採取箱を肩から卸して、手渡すと、一礼して走り出した。土煙が、和田と一緒に走り出した。
芝野の百姓小屋が、点々として見えてきた。和田仁十郎は、肌着をべっとりと背へくっつけ、汗を拭き拭き、小走りに
(馬――馬)
と、思いながら、馬の動きを、馬の影を求めていた。一刻も早く急ぎたかったし、暑かったし、心臓も、呼吸も、足も
(早く、馬を)
と、求めていた。土埃《つちぼこり》が、額へまで、こびりついた。
「この辺に馬がないか」
雑貨を売る店へ怒鳴って立止まった。
「馬?」
と、店先にいた汚い女が、首を振って
「谷山まで、ござらっしゃらぬと、この辺には、無いですよ」
「済まぬが、水を一杯」
仁十郎は、肩で呼吸をしながら、ようようこれだけいった。
「水なら――たんと――」
女は、薄暗い勝手から、桶をさげて来た。和田の前へ置いて、容器を取りに入った。和田は、身体を曲げると手で掬って、つづけざまに飲んだ。女が、茶碗を持って、小走りに来ると
「忝《かたじけ》ない」
と、投げつけるようにいって、もう、灼《あつ》い陽の下へ出ていた。
暑い、この頃の陽の下を旅する人は少いから、戻り馬も通らなかった。和田は、俯向いて、口を開きながら、眉を歪めて、苦しそうに、小走りに走りつづけた。谷山の村へ入って、茶店へ来たが、いつも、茶店の脇の、大きい欅《けやき》の木の下に、一二疋ずついる馬が、一疋も見えないので、欅の下蔭は、淋しかった。
(出払いかしら)
と、思うと、失望と、怒りを感じて
「婆《ばあ》さん」
と、茶店の奥へ怒鳴った。
「馬は?」
「馬かえ」
婆《ばば》は、いつも、馬のいるところに、影が無いから、聞かずともわかっていそうなものだ、というような態度で
「居りましねえが」
「馬子は?」
「馬子も、居りましねえ」
和田は、この婆が、意地悪く、馬を皆、隠したように感じた。
「急用だに――」
「そのうちに、戻りましょう」
和田は、渇と、疲れに耐えられなくなって、腰をかけた。
「水を一杯」
「水は悪うござるよ。熱い茶の方が――」
「水でよい」
竈《かまど》のところから、爺《じじ》が、顔を出して
「つい、今し方まで、四五疋遊んでおりましたがのう。御武家が四人、急ぐからと――つい今し方、乗って行かっしゃりましたよ。ほんの一足ちがいで、旦那様」
「何処かに、爺《じい》――野良馬でも、工面つくまいか」
「さあ――婆さん、松のところの馬は、走るかのう」
和田は
(走らぬ馬があるか、気の長い)
と、じりじりしてきた。
人通りの無い、灼熱した街道に、鉄蹄をかつかつ反響させて、小走りに馬が、近づいて来た。誰か、乗っているにちがいなかったが、和田は、町人か、百姓なら、話をして、借りて行こうと、疲れた腰を上げて、葭簾《よしず》の外へ、一歩出た。
「先生」
玄白斎が、木箱をがたがたさせながら、半分裸の馬子を、馬側に走らせて、近づいて来た。
「馬がないか」
「一疋も、ござりませぬ」
「馬子」
馬子は、呼吸を切らして、玄白斎を、見上げただけであった[#「あった」は底本では「あつた」]。
「もう一疋、都合つかぬか」
馬も、馬子も、茶店の前で止まった。馬子は、胸を、顔を、忙がしく拭いて
「爺さん。四疋とも、行ったかえ」
「四疋とも、行ったよ」
「旦那、ここには、四疋しか居りませんのでのう」
和田は、馬側へ近づいて
「一足ちがいで、家中の者が、四人で――」
と、まで云うと、
「今か――」
玄白斎が、大きい声をして、和田を、鋭く見た。和田は、玄白斎のそうした眼を見ると同時に
(そうだ。猟師を殺して、一足ちがいに)
そう感じると、すぐ
「爺――その内の一人に、背の高い、禿げ上った額の、年齢三十七八の侍は居らなんだかの」
玄白斎は、手綱を控えたまま、茶店を覗き込んでいた。
「額の禿げ上った、背の高い?――婆さん、あの長い刀の御武家の背が、高かったのう」
「一番えらいらしい――」
婆は、首を振って、仁十郎を、じっと見て
「けれど、四十を越していなさったが――」
玄白斎が
「その外のは、三十前後ではなかったか?」
「はい、お一人だけは、二十八九――」
「それは、少し、太った――」
「はいはい、小肥りの、愛嬌のある――」
玄白斎は
「馬子っ」
と、叫んだ。馬子は
「へっ」
と、返事をして、茶店の中から、周章てて飛び出した。
「それが取計う」
玄白斎は、和田を、顎《あご》でさした。そして、和田へ
「馬子に手当してやれ。わしは、彼奴を追うから、都合して、すぐ、続け」
半分は、馬が、歩み出してからであった。馬子が
「旦那っ」
と、叫んで、馬の口を取ろうとするのを、和田が、引戻した。玄白斎は、手綱を捌いて、馬を走らしかけた。
「いけねえ、旦那っ」
「手当は、取らすと申すに」
和田は、力任せに、馬子の腕を引いた。
人々の立去った足音、最後の衣ずれが、聞えなくなった瞬間――邸が、部屋が、急に、しいーんとした。
それは
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