低くなった。時々、鉄砲の音が、気短く、はぜては、すぐ止んだ。
「もう、退治たか。早いの」
と、調所が、笑って、左右の人々へ云った時、襖が開いて、牧が、眼を向けると、すぐ平伏した。
調所が
「一同遠慮致せ――牧、近う参れ」
と、機嫌よく云った。
「何か――容易ならぬ騒ぎが起っておりまする」
「そうらしい――秘呪は、見事であったな」
「はっ――米が、両六斗では暮せますまい」
「一人口は食えぬが、二人口は食える、ということがある。然し、この暴民等は、五人口、八人口で、無闇矢鱈に、子を生んでおる。夫婦二人でなら、どうしてでも食えるが、子を生んでは食えん。国で、御手許不如意になった時、わしは、子供をまびく外に方法はないと思うた。減し児、減し児と、触れて廻った。すると、山一(山田一郎右衛門)が、例の木像の手柄で、「減し児をしてはならん」といいよった。まあ、財政が立直ったからよいが、よい子を残して、悪い奴は摘みとった方がええ。大阪も、それを布令《ふれ》ろ、と、跡部に申したが、彼奴には判らん――ところで、又、盛之進様が、御出生になったのう」
「はい」
「頼むぞ」
牧は、伏目になっていたが、眼を上げて、調所の、深い皺の、だが、皺一つにも、威厳と、聡明さの含まれている顔を、じっと見て
「国許、江戸表共、党派が目立って参りました。某、国越えの時、秋水党と申す、軽輩の若者共が、斬込みに参りましたし、江戸よりは、三組の刺客が出ました由、長田兵助より知らせて参っております」
「わしも聞いた」
「その上に、某の老師、加治木玄白斎が、延命の呪法を行っておりましょう。老師が、これを行う以上、某が倒れるか、老師を倒すか、何れにしても、呪法の上における術競べは、生命がけにござりまする。当兵道のためには、究竟《くっきょう》の機でござりますが、これが、或いは、一生の御別れになるかも知れませぬ」
牧は、痩せた頬に軽く笑った。久七峠で、玄白斎に逢った時とちがって、旅に、陽を浴び、温泉に身体を休めて、回復はしていたが、生命を削っての呪術修法に、髪は薄くなり、皺は深くなっていた。
「斉彬公は――」
調所は、目で、その後の言葉の意味を伝えた。
「前に申し上げました如く、かの君の、御盛んなる意力、張りつめた精力へは、某などの心の業は役立ちませぬ」
「そういうものかの。いや、斉彬公は、えらい。ただ、お若い。斉興公と、わしとが、何んなに苦しんで、金をこしらえたか? この金を、何時、何に、使うか、この辺が、よくお判りなく、舶来品をこちらで作ろうとなさっている。至極よいことだが、物には順序があってのう。それに、久光を、おだてては、いろいろのことをなさるのも、よろしくない。何うも、重豪公の血をお受けなされて、放縦じゃで、何んとかせにゃならん――それで、牧、今申したのう、これが、別れと――術を競べて――」
「いいや、秘術競べのみでなく、或いは反対党の刺客の手にかかるやも計られませぬ」
「人数を添えてつかわそう」
「有難う存じます」
「倅に逢うたか」
「未だ、只今、着きましたばかり――」
「よい若者になったぞ」
調所は、鈴の紐を引いた。遠いところで、からからと、鈴が鳴った。
「船で参れ。陸《おか》は人目に立つ」
「はい」
牧の倅の伴作は、調所の許へあずけられ、百城《ももき》月丸と改めていた。主を、主の筋に当る人を呪っている牧の倅として、万一の時に、調所の手で適当な処置を取って貰おうとする、仲太郎の親心からであった。
「ひどく、おやつれになりましたが――」
月丸は、不安そうな口吻《くちぶり》で聞いた。
「痩せた」
牧は、壮健に――暫く、見ないうちに、大人らしい影の加わって来た倅を見て、調所へ
「御世話を焼かせましょうな」
と、微笑した。
「何、捨てておいても、大きくなる。犬ころじゃ、この時分は。あはははは――嫁を、貰うてやろうかと、考えておるがのう。存じておろう、浜村孫兵衛」
「当家のためには、恩人でござりますな。只今、何うなりました?」
「泉州、堺におって、内々、わしが見ておるが、この浜村に、よい娘がある。町人だが、これからは、牧、月丸――町人とて侮れんぞ。こう金が物をいうては、追っつけ、町人の世の中になろうも知れん」
「そうなろうと、なるまいと、刀を棄てることは、至極よろしいと存じます。この縁組、よろしく御取計らい下さいますよう」
月丸は、黙って、俯向いていた。
「そうか。すぐ承諾してくれて何より――」
「月丸――国許を立つ時に申した、軍勝秘呪は、わし一代かぎりじゃと――」
「はい」
「呪法の功徳を示して、わしは、玄白斎殿も、明日か、一月後か、一年後か、とにかく、遠からぬうちに、死ぬであろう。一人の命を呪うて、己の命を三年縮めるが、もし、玄白斎殿と呪法競べになれば、十年、二十年の命をちぢめるかも知れぬ。もし、わしが、三十年、五十年、平穏無事に暮せるなら、お前にも、秘法を譲ろうと思うたが、時が無《の》うなった。学んで得られる道でもなく、言って伝えられるものでもない。以心伝心と、刻苦修練と、十年、二十年、深山に寒籠りをし、厳寒の瀑布に修行し、炎天に咀し、熱火の中に坐して、ようよう会得しても、平常には何んの用も為さぬ。家に火事が無ければ、百年でも、二百年でもそのまま心に秘めて、ただ、人知れず伝えるばかりじゃ。今度、調所殿の命を受けて、思い立ったのも、この秘呪を、秘呪の効顕を、広く天下に示さんがため――天下は広大で、効顕さえ現せば、後継者も現れようし、門人等も懸命になろう。調所殿の前ながら、世の中は、実学と理学ばかりで、理外の理が、侮蔑されている。わしは、最後の兵道家として、命にかけて、この理外の理を示したい。天下のためでもなく、御家のためでもない。己の職のために、悪鬼となっても、秘呪の偉効を示したい。もしも、呪法のためか、刺客のためか、死ぬか、殺されるか、何れにしても、長くはあるまいが、お前は、調所殿の仰せの通り、町人になる覚悟で、御奉公をせい。決して、父の後を継ぐとか、わしのように、流行物に反対するとか、愚かな真似をするな。万事、調所殿の御指図に従って、世の中に順応せい。わしの子で、兵道の家に生れたが、決して、わしを見習うな。これが、お前に与える、わしの遺言じゃ。忘れるな」
静かに、だが、力のある言葉で、牧は教訓した。
「さあ、もう、八軒家やで」
船べりに凭れて、ぼんやりと、綱手の横顔に見惚れている朋輩の肩を揺さぶった。
「知ってるが、御城が見えたら八軒家や。きまってるがな」
「判ってたら支度をしんかいな。何んぼ、見たかてあけへんて」
「見るは法楽や。俺は、お前みたいに、盗見なんぞしえへん。咋夜《ゆうべ》から、じっと、こう見たままや。何遍欠伸をしやはったか、欠伸する時に、お前、こう袖を口へ当てて、ちらっと、俺の顔を見て、はあ、ああああ」
「人が、笑うてはるがな。ええ、こいつは、少し色狂人で」
乗合の爺さんが
「いやいや、あんな綺麗な人を見たら、わしかて、色狂人になる。こう、袖を口へ当てはって、ふあ、ふあ、ふあ」
四辺の人が吹出した。七瀬と、綱手とは、伏見から、三十石の夜船に乗って、一睡もしなかった。乗合衆は、船べりの荷物に凭れて仮眠をしたり、身体を半分に折って、隣りの人とくっつき合って寝たりしていたが、初めての乗合船で、人々の中で――それから、明日の役目を思うと、眠れなかった。乗合衆は、いろいろの夜風を防ぐものを持っていたが、二人には、それさえなかった。船頭が、薄い蒲団を貸してくれたので、それを膝へかけて、二人は、一晩中坐りつづけていた。
人々が起き出して、川の水で顔を洗う頃になると、八軒家、高麗橋《こうらいばし》から出た上り船が、そろそろ漕ぎ上って来た。その中に、士ばかりの一艘が、杯をやり取りしていた。
「朝っぱらから、結構なことや。何んやの、かやのいうて、人の金を絞り取りよって――」
「今度の御用金は、鴻池《こうのいけ》だけで、十万両やいうやないか。昔やと、十万両献金したら、倍にも、三倍にもなる仕事がもらえたけど、当節は、ただ召上げや。薩摩なんて国は、借りた金を、何んと、二百五十年賦――踏み倒すようなもんやないか。今に、徳政ってなことになって、町人から借りた金は返さんでもええ、ということになりよるで。こう無茶したら、大きい声でいわれんが、長いことないで。京、大阪で、お前、大名への貸金が、千六百万両、これを、二百五十年賦にされたら町人総倒れや。町人が倒れたら、武家だけで、天下がもつかえ」
七瀬も、綱手も俯向いていた。
「あの船は、お前、薩摩やで――」
上り過ぎた船を、一人が眺めていった。
「そや、薩摩や、あいつが、大体いかんね」
七瀬は、そっと、顔を上げて、その船を見た。そして
「綱手」
と、口早に囁いた。
「あれは――」
七瀬は、顔を左、右に動かして、遠ざかり行く船の中から、何かを求めていた。
「母さま」
「牧では――牧ではないかしら」
綱手は、延び上ったが、牧の顔を知らないし、もう、船は、かなり遠ざかっていた。
「よく似た顔じゃが――」
七瀬は、人影で見えぬ牧の顔を、もう一度確めようと、いつまでも、眼を放さなかった。船頭が
「着くぞよーう。荷物、手廻り、支度してくれやあ」
と、叫んだ。
江戸へ出る時に見た荒廃した蔵屋敷の記憶は、新しい蔵屋敷の美しさに、びっくりした。
十年近い前に見た邸は、朽ちた板塀、剥げ取られた土塀、七戸前の土蔵の白壁は雨風に落ち、屋根には草が茂っていた。邸の中へ入ると、若侍達が薄汚い着物の裾を捲りあげて、庭の草を刈っていた。草取りの小者さえ、倹約しなければならぬ貧しさであった。
それが蔵屋敷であったから、三田の本邸、大手内の装束邸のように立派な門ではなかったが、広々と取廻した土塀、秋日に冴えている土蔵の白壁、玄関までつづいている小石敷――七瀬は、これを悉く、調所笑左衛門が一人の腕で造り上げ――そして、自分が、その調所を敵にするのだ、と思うと、一つの柱、小石の一つからでも、気押されそうな気がした。七瀬は、裾を下ろし、髪へ手を当てて押えてから、綱手へ
「よいか」
と、振向いた。短い言葉であったが、すべての最後のもの――決心、覚悟、生別などが、この中には、含まれていた。綱手は、俯向いた。胸が騒いだ。
「御用人様へ、御目にかかりに通ります」
と、門番に挨拶して、広々とした玄関の見えるところの左手にある内玄関にかかった。取次に、名越左源太からの書状を渡して
「御用人様へ」
と、いうと、暫くの後に、女中が出て来て、薄暗い廊下をいくつも曲り、中庭をいくつか横にしてから、陰気な、小さな部屋へ通された。二人は、入ったところの隅にくっついて坐った。
女中の足音が、廊下の遠くへ消え去ると、物音一つ聞えない部屋であった。二方は、北宋の山水襖、床の方にも同じ袋戸棚と、掛物。障子から来る明りは、二坪程の中庭の上から来る鈍い光だけであった。
「よう、覚悟しているであろうな」
「はい」
七瀬は、そういって、暫くしてから
「こう云うのは、何んであるが――母の口から云うべきことでないが――もう、或いは、一生の間、逢えぬかと思うから、申しますが、お前――益満さんを」
綱手は俯向いて、真赤になった。七瀬は、ちらっと、それを見たが、見ぬような振りをして
「――ではないかと、母は思いますが」
綱手は、俯向いているだけであった。
「益満さんは、ああいう方じゃが――もし、そうなら――機を見て――綱手」
七瀬は、綱手を覗き込んだ。
「厭なのではあるまい」
綱手は、頷いた。
「わかりました――」
「然し、お母様、妾は――」
綱手の声は、湿っていた。
「いいえ、心配なさんな――妾には、益満さんのお心は、よう判っております」
「でも、一旦、操を――」
と、云った時、廊下に、忙しい足音がして
「よいよい」
と、いう声がすると、障子が開いて、老人が入って来た。二人は、平伏した。
「よう来た。わしは、調所じゃ」
二人は、平伏
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