お上からも、こうして討手の出ている以上、妻も子も、助かるとは思えぬ。恩愛、人情、義理をすてて、ここは、京まで、万難を忍んで、牧を討つべき時じゃ」
「はい」
「それに討手は、主持ち、わしらは浪人者じゃ。一人殺しても、身の破滅になる」
「心得ました」
と、いった時
「あれっ、あれっ」
「喧嘩だ」
と、いう声と同時に、人々の走り降りて行く姿と、鬨《とき》の声に近い、どよめきとが起った。
「やるっ」
八郎太が、低く叫んだ。向う河岸へもう四分というところへまで近づいた二人の輦台は、五人の輦台に追いつかれたらしく、きらきらと光る刀が、五人の手に、躍っていた。
「斬合だっ、斬合だっ」
河岸の人々も、川中の人々も、一斉に、どよめいた。二組の輦台の四辺に、川を渉ろうとしていた人々は、周章てて、川水を乱して逃げ出しかけた。少し離れて、危くない人々は、誰も、彼も、川を渉るのを忘れて、眺めていた。
「斬った、斬った」
「未だだっ、未だだっ」
「あっ、やった、やった、やった」
群集は、興奮して、怒鳴った。五台の輦台の上では、刀を振りあげていた。池上と兵頭とは、後向きになって、輦台の上で、居合腰であった。川人足は、輦台の上で、足を踏み轟かされるので、川水の中に、よろめきながら、岸へ、早く近づこうとあせっているらしかった。
「父上」
小太郎は、声をかけたが、八郎太は、無言であった。
「もっと踊れ、御神楽《おかぐら》武士め」
池上は、片膝を立てて、微笑しながら、自分の前へ迫って来る追手へ、独り言のように呟いた。兵頭との間は、三間余りも離れていたから、五人の輦台は、二人を、左右へ放して、別々に討取るように、楔形《くさびがた》になって、追って来た。その、真先にいる武士は、輦台の上へ立上って、刀を振りながら
「早く、早く」
と、叫んで、手を、脚を動かしていた。そのたびに、人足は、顔を歪めて、舌打をしながら
「危い」
とか
「畜生っ」
とか、怒鳴った。それにつづく四人は、輦台の手すりにつかまったり、立ったりして、刀が届く距離になったら、一討ちにしてくれようと、身構えていた。
兵頭は、手すりへ、片脚をかけて、鞘ぐるみ刀を抜き取って、左手に提げながら、少しずつ近づいて来る討手へ
「周章てるな。周章てるな。日は長いし、川原は広い。輦台の上で、余り四股を踏むと、人足が迷惑するぞ」
「黙れっ」
二つの距離は、三間近くまで縮まって来た。討手の人々は、襷《たすき》へ一寸手をかけてみたり、目釘へしめりを、もう一度くれたりして、両手で、刀を構えかけた。
「池上っ」
「おい」
「やるか」
池上が頷いた。そして、袴の股立《ももだち》をとり、襷をかけて、刀へ手をかけて、立上った。
荒い事を自慢にし、喧嘩好きの人足達であったが、頭の上で、刀を振り廻されて、もしもの事があったら、大変だと思った。前の人足は
「おーい」
と、叫んで、後方の人足へ、余り早く近づくなと、合図した。後方の人足達は、いよいよ始まったなら、輦台を、川の中へ投げ出して、逃げようかと、眼で合図した。だが、二三人の人足は、眼でそれをとめて
「大井川の人足の面にかかわらあ」
と、元気よく叫んだ。それに、故意に、輦台を顛覆させては、二度と、川筋では、働くことができない掟であった。
追手の人足は、額の汗を拭いながら、時々、声をかけたり、後方を振向いたりして、なかなか近寄らなくなった。
「うぬらっ、早くやらぬと、これだぞ」
最先の一人が、一人の人足の肩へ白刃を当てた。
「無、無理だよ、旦那」
一人が、振向いて
「今日は、帯上だから、そう早く、歩けるもんじゃあねえでがすよ」
池上と、兵頭との輦台が、急に深処《ふかみ》へ入ったらしく、人足達は乳の下まで水に浸して、速度がぐっと落ちた。その時に最先の侍の輦台が、池上の輦台の間近まで勢いよく突進して来た。
「止めろ、止めろ」
池上は、足で輦台の板を踏み鳴らした。人足が、その力によろめいて、歩みをゆるめた時、最先の追手は一間余りのところまで迫って
「上意」
と、叫んだ。
その瞬間だった、池上の脚が、手摺にかかり、左手で刀を押え、右手を引く、と――見る刹那
「ええいっ」
追手は、斬るよりも、突くよりも、周章てて、身体を避けた。それは、余りに思いがけない池上の奇襲だったからだ。池上は、猛犬の飛びかかるように、自分の輦台を蹴って、追手の輦台へ、飛び込んだ。
人足が、顔を歪めた瞬間、輦台が、傾いた。と、同時に、池上の体当りを食った追手の一人は、脚を天へ上げて、白い飛沫を、つづく味方へ浴びせかけて、川の中に陥った。
「たたっ」
人足は、顔を歪めて、肩へ手を当てた。そして、輦台を持ち直した。池上は、輦台が傾いたので、倒れかかったが、手摺へつかまって、立上りかけると
「うぬっ」
白く閃くものが、顔から、二三尺のところにあった。池上は立上った。
「弱ったな、土州」
「やっつけるか」
と、人足が、叫んでいるのを、聞きながら、池上は、左右の追手へ
「輦台の上での勝負は珍しい。今度は、貴殿のところへ、源義経、八艘飛《はっそうと》び」
と、微笑して、手摺へ、足をかけた。兵頭の輦台は、もう、七八間も行きすぎていた。
「池上っ」
と、いう声と
「あとへ、あとへ」
と、兵頭の叫んでいるのが聞えた。池上は、右手を振って
「一人でよい、一人でよい」
と、叫んだ。
「小癪なっ」
輦台の上から、一人が叫ぶと、川の中へ飛び込んだ。人足は、臍のところまでしか水に浸っていなかったから、浅いところであったが、水流は烈しかった。その侍は、二三間、よろめいて、ようよう、押流されて、立上った。丁度その時、池上に川へ落された侍も、立上った。二人は、刀を抜いて、川下から、迫って来た。
「いけねえ」
人足が叫んだ。そして、二三尺進むと、乳の上まで水のある深いところへ入った。
「待てっ」
一人が、水中から、池上を目がけて、刀を斬り下ろした刹那、一人の人足はびっくりして、肩から輦台を外した。と、同時に、池上は、輦台の上から、川上の方へ飛び込んでいた。
兵頭は、じっと、川面を眺めていた。二人の追手は、胸まで来る水の中を、よちよちと、兵頭の方へ進んだ。三台の追手は、無言で、川中にいる二人の後方を、横を、兵頭の方へ迫りながら、川下へ浮んで出るべき池上の姿にも、気を配っていた。
兵頭が、輦台の近くへ浮いて来た黒い影へ、身構えた時、池上が顔を出して、頭を振った。髪をつかんで水を切りながら
「わしは、歩いて行く」
と、兵頭を見上げて
「歩けるのう」
と、人足へ笑った。
「ええ」
「旦那っ、強うがすな」
池上の輦台人足は、走るように近づいて来て
「お乗んなすって」
と、いった。
「大勢かかりやがって、何んてざまだ。やーい、どら公、しっかりしろいっ」
人足共は、小人数の方へ味方したかった。
島田の側も、金谷の側も、磧は、人でいっぱいであった。
「強いな」
「兄弟、もう一度、行こうぜ、輦台二文って、このことだ」
「江戸へ戻って話の種だあ、九十六文、糞くらえだ」
「何うでえ、五人組は、手も、足も出ねえや。町内の五人組と同じで、お葬いか、お祝いの外にゃ、用の無え、よいよい野郎だ」
「二人の野郎あ、水の中で、刀をさし上げて、おかか、これ見や、さんまがとれた、って形だ。やあーい、さんま侍」
八郎太と、小太郎とは、微笑しながら、川を眺めていると
「おおっ、加勢だっ」
「八人立で、こいつあ、早えや」
「棒を持っているぜ」
「馬鹿野郎、ありゃあ槍だ」
「こん畜生め、穂先の無え槍があるかい。第一、太すぎらあ」
「川ん中で、芋を洗うのじゃああるめえし、棒を持ってどうするんだ」
小太郎が
「父上、あれは、休之助ではござりませぬか」
「ちがいない」
「一人で――」
と、いった時、八人仕立の輦台は、川水を突っ切って、白い飛沫を、乳の上まで立てながら、ぐんぐん走っていた。
「小手をかざして見てあれば、ああら、怪しやな、敵か、味方か、別嬪か、じゃじゃん、ぼーん」
「人様が、お笑いになるぜ」
「味方の如く、火方《ひかた》の如く、これぞ、真田の計、どどん、どーん」
「丸で、南玉の講釈だの」
「あの爺よりうめえやっ、やや、棒槍をとり直したぜ」
「やった」
益満の輦台が、追手へ近づくと、長い棒が一閃した。一人が、足を払われて、見えなくなった。何か、叫んでいるらしく、一人を水へ陥れたまま、益満の輦台は、追手の中を、中断して、池上の方へ近づいた。もう、金谷の磧へ、僅かしかなかった。水の中で閃く刀、それを払った棒。追手を、抜いて、二人と一つになると、すぐ、益満の輦台だけが川中に止まって、二人は、どんどん磧の方へ、上って行った。追手の五人は、益満一人に、拒まれて、何か争っているらしく、動かなかった。
二人の人足が、益満のために、川へ陥った一人を探すため、川下へ急いでいた。時々、頭が、水から出ようとしては没し、没しては出て、川下へ流されていた。
池上と、兵頭とは、磧へ上ってしまった。磧の群集が二つに分れた。役人らしいのが、二人に何か聞いて、二人を囲んで、だらだら道を登って行った。
益満は、一つの輦台が、右手へ抜けようとするのを、棒を延して押えているらしく、その輦台が止まった。
「益満め、舌の先と、早業とで、上手に押えたと見えるな」
と、八郎太が微笑した。そして
「この騒ぎにまぎれて渡ろう。何ういう不慮の事が起きんでもなし、水嵩も増すようであるし――」
小太郎は、川会所へ行った。川札は
[#天から3字下げ]乳下水、百十二文
と、代っていた。どんより曇った空であった。山の方には、雲が、薄黒く重なり合っていた。雨が降っているのだろう。
島田の宿は、混合っていた。風呂の湯は、真白で、ぬるぬるしていたし、女中は、無愛想な返事をして、廊下を足荒く走った。
「へん、ってんだ」
[#ここから3字下げ]
雨は降る降る
大井川はとまる
飯盛りゃ、抱きたし
銭は無し
隣りの――
[#ここで字下げ終わり]
と、唄って、七瀬と、綱手の部屋の隣りの旅人は、急に声を落して
[#ここから3字下げ]
娘で間に合わそ、か
てな、事なら、何うであろ
雨の十日も、降ればよい
[#ここで字下げ終わり]
それから、大声になって
「とこ、鳶に、河童の屁」
と、怒鳴った。
七瀬と、綱手とは、お守袋を、床の間へ置いて、掌を合せて、夫と子供の無事と、自分ら二人の道中の無事を、祈っていた。
「やーあい、早くう、飯を持って来う」
[#ここから3字下げ]
腹がへっても、空腹《ひもじ》ゅう無い
大井の川衆にゃ、着物が無い
可哀や、朝顔お眼めが無い
俺の懐、金が無い
それは、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]《うそ》だよ、案じるな
娘に惚れたで、お眼めが無い
[#ここで字下げ終わり]
「お待ちどお様」
女中が、膳を運んで来た。
[#天から3字下げ]手前の面には、鼻が無い
女中は、膳を置いたまま、物もいわないで行ってしまった。七瀬と、綱手とが、声を立てんばかりに笑った。
廊下も、上も、下も、喚声と、足音とで、いっぱいであった。
「ええ――」
番頭が、手をついて
「まことに申しかねますが、御覧の通りの混雑でござりまして――それに、ただ今、急に、お侍衆が七人、是非にと――何分の川止めで、野宿もなりませず――済みませんが、女子衆を一つ、相宿《あいやど》ということに、お願い致しとう存じますが――」
番頭は、手を揉んで、御辞儀した。
「相宿とは?」
「この御座敷へ、もう一人、御女中衆をお泊め願いたいので、へい」
母娘《おやこ》は、顔を見合せた。
「品のいい御老人で、つまり、お婆さんでござります。是非、何うか、へっ。お隣りの唄のお上手な方へも、御三人、お願い致すことになっておりますので、へい」
隣りの旅人が
「やいやい番頭、六畳へ、四人も寝られるけえ」
「へへへ、子守唄を、一つ唄って頂きますと、よく眠ります」
「おうおう、洒落
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