は、その隣りの表から
「女連れ二人が泊っておらんか」
「いいえ」
「十八九の美しいのと、四十がらみの」
「いいえ、お泊りじゃござりません」
女中は、じろじろと、益満を眺め廻していた。
(時刻から申せば、二人は、もうこの辺へ着かなくてはならんのに――途中で、悪雲助共に逢うたか、討手の奴等に手でも負わされたか――今夜小太に逢えぬとすれば、せめて、二人に逢いたいが――)
「旦那、お泊りじゃござんせんか」
「少し、尋ね人があって――」
益満は、そう答えて、街道へ出た。そして、すっかり暗くなった湖畔を、提灯も無く、歩き出した。角の茶店の仕舞いかけているところを折れて、急坂にかかろうとすると、提灯の灯が見えた。
(あれかも知れん)
と、足を早めて、提灯を見ると、それは駕屋のものでなく、定紋入りの提灯であった。益満は、素早く杉木立の中へ入った。人声が近づいた。提灯のほのかな灯でみると、それは、大久保家中の人々らしく
「ようよう着いた。慣れた道じゃが、疲れるのう」
「薩摩っ坊め、下らぬごたごた騒ぎをしやがって、彼女《あれ》との約束が、ふいになってしもうた」
「それは、御愁傷様、拙者には又、箱根町に馴染があっての――」
「又、色話か」
「話は、これに限る。貴公の、斬口の、鑑定は、女と手を切った時にたのむ」
「然し、見事に斬ってあったのう。薩州の示現流――」
人々は、話しながら、通ってしまった。
(もう、小田原から役人が来た。宿にいる三人は、一日、二日取調べられるであろう――いいや、この身も危い。山越に、今夜のうち、三島まで、のすか)
と、思った時、小さい提灯が一つ、ゆっくり、坂途《さかみち》を降りて来た。
提灯の、微かな灯影の中にでも、綱手の顔は、白く浮き出していた。益満は、ずかずかと、近づいて
「お嬢様、お出迎えに――」
と、いって、びっくりして、益満の顔を見た綱手の眼へ、合図をしながら
「心配致しました。余り、お遅いので。途中で斬り合がございましたそうで、たゞ今、役人が、その侍を取調べておりますが、うっかりしたことは出来ませぬ」
と、口早に、小腰をかがめて、七瀬と、二人にいった。
「ほんに――」
二人は、益満の肚がわかった。
「駕屋、済まんのう」
「いいえ」
「さあ、お嬢様、手前、そこまで背負って参りましょう」
「いいえ」
益満は、背を出した。綱手は、赤くなった。益満の、着物から、頸筋から臭う、汗と、体臭とが好もしく、綱手に感じられた。だが、綱手は
「歩きます」
と、いった。然し、益満が、綱手の腰へ、後ろ手に手をかけて、引寄せると、よろめいて、もたれかかった。そして、一寸、身体を反らしたが、そのまま、背へのせられると、思わず、手を、益満の肩へかけて、胸を、脚を、益満の身体へ押しつけた。そして、真赤になった。
「いいえ、歩きます」
綱手は、足を開くのが恥かしかった。だが、離れるのも厭であった。このまま、じっと抱きしめて欲しかった。綱手は、自分の暖かみと、益満の暖かみとが一つに融け合うのを感じると、すぐ、次の瞬間、二人の肌も融け合い、二人の血が一つになって、流れているような気がした。
(誰も居なければ、よいのに――)
と、思った。だが、すぐ、右手で益満の肩を押して
「歩けます」
と、強くいった。
「では――」
益満は、曲げていた身体を延し、綱手の腰から手を放した。綱手は
(放さないで、もっと、強く、長く、抱き締めていてくれたら――)
と、思った。
「もう、すぐでございますから――駕屋、そろそろと、やってくれ」
益満は、先に立った。綱手は
(益満様に、恋をしたのであろうか――隣同士の家にいる内は、ただ好きな人であったが)
と、思うと、母に顔を見られるのが、気まり悪くなってきた。益満が、いつか
「娘時分と申すものは、手当り次第に、間近い男に惚れるからのう」
と、小太郎と、話していたのを思い出して、胸を打たせた。
(益満様なら、不足のない)
と、思うと、同じ家中で、許嫁などとなっている人々のことを思い出して、八郎太が
「益満はよいが、品行が悪いし、家柄がちがうし――」
と、いった言葉が、恨めしくなってきた。と、同時に、益満が
「御家のためには操をすてて」
と、いったのも、恨めしくなってきた。
「小太郎にお逢いなされて?」
七瀬が聞いた。
「関所の刻限がきれて――然し、明日、もう一追い仕りましょう」
さっきの茶店は、店を閉じてしまっていた。角を曲ると、宿の前に人だかりしているのが見えた。
宿の表は、三つ、四つの提灯の、ほのかな灯の中に、大勢の人影がうごめいていた。それから、家の中には甲高い叫びと、荒い足音と――表の人々は、口々に、騒ぎ合っていた。益満が、その隣りの旅舎に駕をつけると、隣りの騒ぎを見物するため、軒下に立ったり、往来へ出て見たりしていた宿の女中が、番頭が、周章てて、駈け寄ってきた。
「お疲れ様で」
とか
「先刻のお方様で」
とか、という御世辞を聞き流して、奥まった部屋へ入った。
表の人声と、ざわめきとは、未だ止まなかった。綱手と、七瀬とは、不安そうに、宿の人々が、部屋から出てしまうと、七瀬が
「まあ、嬉しいやら、びっくりやら――何んと思うて、あの、下僕《しもべ》の真似など?」
「隣りの騒ぎを御存じか」
「御存じか、とは?――騒いでいるのは、判っておりますが――」
「わしの手下の者が捕縛されたのじゃ、小母御。関所の刻限に一寸遅れたばかりに、小太郎にも逢えず――然し、これが、世の中の常で、一つの仕事を成就させるには、こうした蹉跌《さてつ》が、いろいろと起る。綱手、そいつにめげてはならぬ」
益満は、脚絆を畳んでいる綱手を見ながら、茶を飲んで
「国乱れて、忠臣現れ、家貧しゅうして孝子出づ。苦難多くして現れ出づ、男子の真骨頂。いよいよ益満が、軽輩を背負って立つ時が参った」
益満が、三尺余りの長刀を撫して、柱に凭れて腕組しながら、こう云って笑っているのを見ると、七瀬も、綱手も、何んとなく、心丈夫であり、頼もしく思えた。綱手は
(益満様なら、夫にでも――)
と、心の中で囁きながら、さっき山の中で、生れて初めて、ぴったり、肉に、肌に、血に触れ合った男の暖かさを思い出した。そして、益満を、そっと盗み見した。
「討手は、小太郎に、もう追いつく時分でござりましょうか」
「追いつくかもしれぬ。追いつけぬかもしれぬ。然し、何れにもせよ、小太も、相当に、心得はある。やみやみ、五人、七人を対手にして、斬られる奴でもない。それに、こつこつ石の如き親爺がついておる。これが、一見頑固無双に見えていて、なかなか変通なところがある。本街道を避けて、裏を行けば、大井川までは、首尾よく参ろう。ここを無事に通れば、京までは、先ず無事――」
こういっている時、旅舎の番頭が
「明日、早朝お立ちでございましょうか。御弁当の御用意、それから、関所切手――なかなか、きびしゅうござりますゆえ、もし、御都合で、お持ちがなければ、手前共で、何んとか御便宜を――」
といって来た。
「切手は、持っております。御弁当と、それから、達者な駕人足とを、御頼み申します。時刻は、六つ前――」
「かしこまりましてござります」
番頭が立去ると、早立の客達は、風呂へ入って寝るらしく、隣りも、下も、もう、蒲団を布く音を響かせてきた。
七瀬は、小太郎のことを、八郎太のことを、綱手は、益満のことを、それから、二人で暮している空想を――益満は、敵党に根本的打撃を与える方法を――お互に、それぞれ考えながら、廊下を、轟かせて蒲団を運んで来る女中達の足音を、黙然と聞いていた。
刺客行
大井川の川会所《かわかいしよ》の軒下には、薄汚れのした木の札がかかっていて
[#天から3字下げ]帯上通水《おびうえとおしみず》、九十五文
と、書いてあった。今日の川水は、渡し人足の帯まで浸すからであった。汚い畳敷の上へ台を置いて、三人の会所役人が、横柄に、旅人の出す金と、川札とを引換にした。その横、暗い奥の方、会所前の茶店の辺には、川人足が群れていて、旅人の川札を眺めては
「荷物は、何れでえ」
とか
「甲州。われの番だに、何を、ぞめぞめこいてやがる」
とか、怒鳴っていた。
大井川を渡る賃金は、水|嵩《かさ》によってちがっていて、乳下水、帯上通水、帯通水、帯下水、股通水、股下通水、膝上通水、膝通水と分れていた。そして、一番水の無い、膝通水の時の賃金は、人足一人が四十文で、乳下水に少し水嵩が増すと、川止めになるのであった。
水嵩が増しそうな気配だと云うので、旅人達は急いでいた。川会所の前には、そういう人々でいっぱいだった。役人が
「輦台《れんだい》二梃」
と、叫んで、木札で、台を叩いた。五六人の人足が
「おーい」
と、元気よく答えて、だらだらの砂道、草叢の中に置いてある平輦台の方へ走って行った。一人の人足が、群集の前に、編笠を冠って立っている二人の侍に
「あちらへ」
と、御辞儀した。
「急ぐぞ、人足」
そういって、侍は、すぐ、その人足の後につづいて、河原の方へ降りて行った。その会所の前の茶店から、一人の若侍が立上って、二人の侍の後姿を見ながら
「父上、あれは、池上氏と、兵頭氏では」
と、振向いた。
「似ている、そうらしい」
「見届けましょうか。何んなら、同行しても――」
「さ――」
小太郎が、一足出ようとした時、勢いのいい五梃の駕が、川会所前の群集の中へ、割込んで来て、駕の中から
「輦台、五梃、急ぐぞっ」
と、怒鳴る声がした。そして、垂れが上ると、一人の侍が、素早く、駕の外へ出た。八郎太は、歩きかけた小太郎に
「待て」
と、声をかけた時、小太郎は、その侍の顔を見、次々の駕から出て来る侍を見て、急いで茶店の中へ入って、腰かけた。そして、二人は、街道を背にして、低い声で
「四ツ本の下の奴でないか」
「はい」
二人は、五人の侍に見つからぬように、顔を隠して
「急ぐ模様だが――」
と、云った時、一人の侍が、川の方を見て
「居る、あの二人が――相違ない」
と、四人の者に、川を指さして振向いた。
「人足、急ぐぞっ」
一人は、刀を押えて、磧《かわら》の方へ小走りに歩み出した。
「今|渉《わた》るところだ」
「川の中で追っつけよう」
人々は、群集の中で、声高に、こう叫んだ。旅人達は、五人が、前の二人の連衆だと思っていたが、仙波父子は
「討手だ」
と、信じた。
「小太、油断がならぬ」
八郎太は、手早く編笠をきた。
池上と、兵頭との輦台は、川の中央まで出ていた。二人とも、刀を輦台へ凭せかけて、腕組をしていた。
川人足は、行きちがう朋輩に声をかけながら、臍の辺に、冷たい秋の川水の小波を、白く立てつつ、静かに、平に、歩いていた。
人足の肩に跨がり、頭に縋りついている旅人達は、着物の水へ届きそうになるのを気づかいつつ、子供の時、父の肩車に乗って以来、何十年目かの肩車に、不安を感じていた。
その穏かな川を渉る人々の中を、五台の輦台が、声をかけつつ、川水を乱し立てて、突進した。
「ほいっ、ほいっ」
と、いう懸声の間々に
「頼むっ、頼むっ」
と、肩車で渉って行く、渉って来る人足に、注意しながら、輦台は突進して行った。その上に乗っている人々は、刀を押えて、誰も皆、前方を睨みつけるように見て
「急げっ、急げっ」
と――中の一人は、刀の鐺《こじり》で、そういいつつ、こつこつ、川人足の肩をたたいていた。
仙波父子は、茶屋の横へ廻って、松の影の下の小高い草叢の中から、この七台の輦台を眺めている。
「五人では討てまい」
八郎太が、呟いた。
「助けに参りましょうか」
「求めて対手にすべきではない。よし、二人が殺《や》られようと、大事の前の小事じゃ。わしが指図するまで、手出しはならぬ」
「益満は、何うしておりましょう」
「あれも、一代の才物じゃが、世上の物事は、そうそうあれの考え通りに行くものでもない。日取りからいえば、もう、追っつく時分じゃが、
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