い生あたたかいものが、小雨のように降ってきた。
「これでも――これでも」
一木は、歯を食いしばって、頭上のところで受けている奈良崎の刀を、つづけざまに撲《なぐ》った。
人の絶叫と、懸声とが、人間の叫びとは思えぬくらいに物凄く、杉木立の中へ木魂していた。
誰の米噛もふくれ上っていたし、額からは汗が流れていた。眼は、ヒステリカルに光って、それは、物を見る穴でなく、殺人的気魄を放射する穴に変っていた。
浪人達は、三重の不利があった。一つは、ここを切抜けて牧を討つのが目的であったし、もう一つ、地の利を対手に占められていたし、第三は、得物に槍の無いことと、人数の少いことであった。
だが、それよりも、もっと大きいのは、金で動いている請負仕事で、一木以下の六人が隼人《はやと》の面目をかけて、対手を討とうとするのと、その態度においてちがっていた。
一木が、奈良崎に打込んだのを合図にして、双方の離れていた刀尖が、少し触れ、二三人は、懸声をしたが、対手が、じりじりつめて来るのに対して、四人は、退るばかりであった。だが、その中の一人は、奈良崎が槍で股を突かれたのを見ると、
「何をっ」
と、絶叫して、その槍の浪人に斬りかかった。進む浪人も、退いた浪人も、草に滑った刹那
「ええいっ」
右頭上八相に構えていた一人が、閃電《せんでん》の如く――ぱあっ、と鈍い音と共に、つつと上った血煙――
「うわっ」
と、遠巻にしていた旅人、駕屋が、自分が斬られたように叫んで、顔色を変えて、二三間も逃げた。
斬られた浪人は、首を下げて、手を下げて、二三歩、よろめいて歩み出て、すぐ、奈良崎の横へ倒れてしまった。斬口から血の噴出するのが遠くからでも見えた。
斬った男は、真赤な顔をして、刀を振り上げて、悪鬼のように、眼を剥き出して
「こらっ、うぬらっ」
と、叫んで、三人に、走りかかった。それは、殺人鬼のように、狂的な獰猛さであった。三人は、同じように刀を引いた。そして、 逃げ出した。
「逃げるか、逃げるか。卑怯者、卑怯者」
六人は、お互に絶叫して、猟犬の如く追った。追う者も、追われる者も、草に滑り、石につまずき、凹みによろめいて走った。旅人は、周章てて、木立の中に飛び込んだ。
「待て、卑怯なっ、待てっ」
一人は、刀を押えて、槍を持って走っていたが、思うように走れないので、こう叫ぶと、槍を差上げ
「うぬっ」
と、叫んで、投げつげた。槍は、獲物に飛びかかって行く蛇のように、穂先を光らせて、飛んで行った。そして、一人の腰に当ったが、石の上へ落ちて転がってしまった。
「馬鹿っ」
追手の一人が、振向いて、槍を投げた男に
「股を目掛けて、何故投げん」
と、睨みつけた。その途端、一人の追手が、浪人の一人に追いついて、片手突きに、その背中を突いたが、間髪の差――素早く、振向いたその男が、片手|薙《なぎ》に、身体も、刀も、廻転するくらいに払ったのが、見事、胴に入った。討手は、背後から突かれたように、手を延したまま、どどっと、前へ倒れてしまった。
「やったな」
と、一人が叫んだ。
七瀬は、綱手をせき立てて、すぐ、益満の後を追った。小田原の立場で
「箱根まで――」
と、いうと、人足達は
「秋の陽は、短いでのう」
と、渋っていたが、それでも、七瀬の渡した包紙を握ると
「やっつけるか」
と、いって、駕を出した。荒涼とした、水のない、粗岩の河原を、左に湯本へ行くと、駕屋は、草鞋を新しくして、鉢巻をしめ直した。
湯本から急な登りになる石敷の道は険しかったし、赤土の道は、木蔭の湿りと、木の露とで滑り易かった。
「おう」
と、駕屋が、振向いて、後棒へ
「妙ちきりんなものが、現れましたぜ」
その声に、綱手が、駕から覗くと、遠くの曲り角へ、槍を持って白布で頭を包んだらしい侍が、急ぎ足に降って来た。
駕屋は斜にしていた駕を真直ぐにして、その侍を避けるように、道傍を、ゆっくり登って行った。七瀬も、綱手も、その侍は、八郎太と小太郎とを討取った戻り道のような気がして、胸が高く鳴り出した。
「綱手、あの方は、御邸の一木様ではないか」
「はい、お母様――」
と、いった時、もう、一木は、駕のすぐ間近まで来ていた。七瀬が
「一寸、駕屋」
と、声をかけて、駕が止まるか、止まらぬかに、駕の外へ足を出して、降りかけながら
「一木様」
と、叫んだ。
一木は、答えないで、七瀬へ、冷たい一瞥を送って、行きすぎようとした。その途端、綱手が
「一木様っ――それは」
と、叫んだ。一木の左の腰に――それは、確かに、首を包んだ包と覚しいものが、縛りつけてあった。七瀬は、駕を出て
「卒爾ながら――」
一木は、七瀬を、睨んで立止まった。
「仙波八郎太に、お逢いではござりませんでしたか」
「仙波?」
一木は、右手の槍を、突き立て
「仙波とは――ちがう。仙波へは、別人が参って――」
「別人とは?」
「別の討手――気の毒であるが、御家のためには詮もない」
「そ、その討手は、貴下様より、先か、後か?」
綱手は蒼白になって、七瀬の横に立っていた。駕屋は、眼を据えて、一木の顔を見ていた。
「前後?」
一木は、脣で笑って
「敵の女房に、左様のことがいえようか。聞くまでもない。無益なことを――」
口早に、いうと、ずんずん降って行った。二人は、暫く眼を見合せていたが
「急いで――急いで」
と、憑かれたようにいいながら、駕の中へ入りかけた。
「合点だっ」
駕屋は、肩を入れると
「馬鹿っ侍、威張りやあがって」
と、呟いて、足を早めた。
「びっくりしたのう、おいら」
「何をっ。吃驚《びっくり》って、あんなものじゃねえや」
「何?」
「手前のは、ひっくり、てんだ。下へ、けえるがつかあ」
「おうおうおう、涎を滴《た》らして木へしがみついて居たのは誰だい」
「それも、手前だろう」
旅人達は、一団になって、高声に話しながら降りて来た。そして、七瀬と、綱手の駕を見ると、一斉に黙って、二人を、じっと見た。七瀬が
「お尋ね申します」
と、一人へ声をかけて
「只今のお話、もしか、斬られた人の名を御存じでは――ござりませぬか」
旅人は、立止まって、二人を眺めていると、駕屋が
「斬られた人の名前を、知ってなさる人は居ねえかの」
「のう、名は判らんのう」
「名は判んねえが、齢頃は、三十七八だったかの、あの首を取られた人は」
「三十七八? 何をこきゃあがる。二十七八だい」
「こいつ、嘘を吐け。昔っから、生顔と、死顔とは、変るものと云ってあらあ。二十七八と見えても――」
「物を知らねえ野郎だの、こん畜生あ。二十七八だが、死ぬと、人間の首ってものは、十ぐらい齢をとるんだ。女が死ぬと美人に化け、男が溺死すると、土左衛門と、相場がきまってらあ」
「手前、首だけしか見ねえんだろう。俺、最初から見ていたんだ」
七瀬が
「その中に老人が――」
「老人も、若いのも、いろいろいたがね。奥様。まず、こう、その駕、待《ま》あて、と」
「おうおう、芝居がかりかい」
「待てと、お止《とど》めなされしは?」
「音羽屋っ」
「東西東西、静かにしてくれ、ここが正念場だ」
旅人は、七瀬が、綱手が、何う考えているかも察しないで、綱手を、じろじろ見ながら、巫山戯ていた。
「その、果合《はたしあい》の場所は?」
と、七瀬が聞くと
「この二三町上でさあ。のう、待てと、お止めなされしは――」
「おや、眼を剥いたよ。豆腐屋あ」
「有難う存じました。駕屋さん、急いで」
駕が上った。
「いい御器量だのう」
「吉原にもいまい」
「ぶるぶるとするのう」
「首を見ては、ぶるぶる、女を見てはぶうるぶる」
人々は、遠ざかった。行きちがう人々は、悉《ことごと》く、血腥《ちなまぐさ》い話を、声高にして、行った。駕が、山角を曲ると、草叢のところに、旅人が集まっていて、菅笠や、手拭頭が動いていた。
「あれだっ」
と、駕屋が、叫んだ。二人は、駕の縁を握りしめながら、夫と、父とが、子と、兄とが、その中にいないように祈っていた。いないとわかっていても、何んだか、どっかで、斬られているような気がした。
四梃の駕が、急いでいた。そのすぐ後方から、一梃の駕が
「頼ん」
と、声をかけて、崖っぷちを、擦れ擦れに追い抜こうとした。一梃抜き、二梃抜き、三梃目のを抜いた時、その駕の中の侍が
「待てっ、待てっ、待てっ。とめろ、止めろっ」
と、怒鳴った。駕屋が、周章てて、駕を止めると
「益満っ、待てっ」
三梃目の侍が、刀を提げて、駕から、跣足のまま跳び降りて、抜いて行った駕を、追うと同時に、他の人々も、駕を出て、走りすがった。
「その駕。待てっ、益満」
六七間のところで叫ぶと、抜いて行った駕がとまって、益満が、口から煙草の煙を吐きながら、駕の中から振向いた。そして
「おおっ」
と、微笑して
「これは、御無礼」
追って来た侍は、真赤な顔をして、袴を左手で掴み上げながら
「出い、駕を出い」
益満は、頷いて、刀を左手に、駕を出た。見知らぬ浪人者が、腕|捲《まく》りして、三人、益満を睨んで、三方から取巻いた。駕屋が、恐る恐る、駕を人々のところから引出して、道傍で、不安そうに、囁き合っていた。
「何れへ参る?」
「さあ、何れへ――」
益満は、ゆっくり、腰へ刀を差してから、喫い残りの煙管を、口へ当てて
「当途《あてど》も無く」
「何っ、当途も無く?――御重役へ届け出でてお許しが出たか」
「いや、その辺、とんと、失念仕って――」
「こやつ、引っ捕えい」
侍は、一足引いて、浪人達に、顎で指図した。益満は、煙を吹き出しながら
「引捕える? 暫く暫く、一寸、一服して――こうなれば、尋常に――」
と、いいつつ、大刀の柄へ、煙管を当てた。とんとん二三度叩いて、灰殻を落した。そして、舌の先へ当てて、ぶつぶつと音させて、それから、懐の煙草をつまみ出して
「暫時。今一服」
と、いって、雁首へつめ込んだ。四人の侍は、黙って見ているの外になかった。益満は、燧石《ひうち》を腰の袋から取出して
「ゆっくり眺めると、いい景色でござるが」
火をつけて、一口吸って、一人の浪人の顔へ、ぷーっと、煙を吹っかけた。
「何を致す」
「斬る」
三人の浪人が、この益満の言葉に、一足退いて、刀へ手をかけた瞬間、益満の煙管は、一人の鼻へ当っていたし、一人はよろめいて、顔を押えて、よろめきつつ、走り出した。押えている手から、血が土の上へ洩れていた。
一人が、躓《つまず》きつつ、後方へ退って、抜いた刀を両手で持ち直す隙もなく、片手で益満の返した刀を止めようとしたが、もう、遅かった。膝頭を十分に斬られて、刀を、草の上へ投げ出して、前へ転がってしまった。
「手向い致すか」
侍が、絶叫した。
「小手をかざして、御陣原見れば、か。行くぞ、行くぞ」
益満は、同屋敷の侍を振向きもせず、残りの浪人者に、刀を向けた。浪人者は、煙管に打たれて、鼻血を出しながら、じりじり退りかけた。
益満は、じりじり浪人を追いつめた。浪人は、蒼白になっていた。益満は、片手で、刀を真一文字に突き出して、道の真中まで出ると、自分の投げつけた煙管を左手に拾い上げた。侍も、浪人も、二人を一瞬に斬った益満の腕と、その態度とに、すっかり圧倒されてしまっていた。頭も、身体も、しびれたように堅くなってしまって、恐怖心だけが、あふれていた。
益満は、左手の煙管を口へ当てて、舌の先で、ぽっぽっと音させつつ、右手の刀を、浪人の咽喉の見当へ三尺程のところから、ぴたりと当てて
「たって斬ろうと申さん。逃げるなら、逃げるがよい――後方が危い、もっと、左へ、そうそう」
益満の刀の尖と、浪人の咽喉とが、何かで結ばれているように、ぴたりと膠着していた。益満は、煙管を口にくわえて、刀を
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