――深雪さん、大阪のお母さんと、姉さんを、手助け致しやしょうか。そして、貴女に何か、一手柄――」
「立てさせて上げてくれるなら、そりゃあ、庄吉、この爺も――ねえ、お嬢さん」
 深雪は
「はい」
 と、答えた。
「ようしっ」
 庄吉は、眼を輝かして、膝を叩いた。

  第二の蹉跌

 戸塚より藤沢へ二里、本駄賃、百五十文。藤沢より平塚へ三里、二百八十文、平塚より大磯へ二十町、六十文。箱根路へかかると、流石に高くなって、小田原から、箱根町へが四里という計数で、七百文であった。
「駕屋、急ぎだぞ」
 五人の侍風の者と、商人風の者とが、藤沢の立場《たてば》の前で、乗継ぎの催促をしていた。
「へい」
 と、いって、小屋の中で、籤《くじ》を引いていた駕人足が、きまったと見えて、黒く、走って出た。そして、自分の駕を、肩へかけると、侍の方へ
「お待ちどおで」
 七瀬は、小屋の横から、駕へ入る人を、一人一人眺めていたが
(あれは――家中の夫と近しい方――)
 と、思うと、一足出て見た。駕は、すぐ上った。七瀬は
(夫のことを聞こうか、聞くまいか)
 と、思案した時、その人も、七瀬を見つけた。それをきっかけに、七瀬は、御叩頭をして、小走りに駕へよって
「奈良崎様では?」
 奈良崎は、七瀬を見て
「仙波氏は?」
「さあ――ここで、待っておりますが」
 奈良崎は
「待つ? 待っておる? 何を愚図愚図と――危険が迫っておるに」
 と、いって、すぐ
「駕やれ」
 駕は、五梃つづいて、威勢よく行きかけた。奈良崎の急ぐ態度、言葉からは、何かしら、大事が起るような、予感がした。
 一筋道ではあったが、八郎太と、小太郎とが、昼間しか通らぬと決まってはいなかった。自分達が、品川から夜道したように、二人は、綱手の眠っている間に、行きすぎたかも知れぬし――
(もしかしたなら、あの人々が、夫を追うのでは?)
 と、思うと、そうも、思えた。七瀬は、多勢の者に取巻かれて戦っている、夫と、子とを想像すると、もう、立場《たてば》で見張っては居れなくなってきた。
(奈良崎の、あの、危険が迫っているという言葉――夫に迫っているのか、自分に迫っているのか? 何故、危険が迫るのか?)
 七瀬には、十分理由が判らなかったが、今まで引続いて起った不運のことを考えると、何かしら大事が起るように思えた。
「七梃だっ、急ぎ」
 と、いう声がしたので、振向くと、侍が七人、怒鳴っていた。その中に、七瀬の顔見知りの人がいた。立場の横には、掘抜井戸があって、馬の、雲助の、飲み水になっていた。駄賃をもらうと、駕を、軒下へ片付けて、雲助はその井戸へ集まった。
「今し方、五梃、侍が乗って行かなんだかのう」
「行かっしゃりました」
「何の辺まで参っておろう」
「さあ、この宿を――外れたか、外れんかぐらいでござんしょう」
 筆を、耳へ挟んで、立場の取締りらしいのが答えた。七人の侍は、軒下に陽を避けながら、何か囁いては、頷き合った。
「酒手《さかて》をはずむから、急いでくれんかの」
「心得ました」
「てへっ、てへっ、今日は、女っ子が抱けるぞ。いい御天道様だっ」
 雲助達は、元気よく、駕を担いで走り去った。七瀬は、何んとなく、だんだん胸騒がしくなってきた。そして、宿の方へ歩き出した。その時
「ほいっ、ほいっ」
 と、四人立の駕が、すぐ後方へ来た。七瀬が振向くと、駕の中の人の眼が光って
「七瀬殿、何を愚図愚図」
 と、叫んだ。益満であった。
「夫は?」
「とっくに――今、敵の討手が、七人、吾々同志を追って参ったであろうが――」
 と、いう内に、駕は眼の前を行きすぎていた。七瀬は、裾をかかげて走り出した。

「追っつきましたぜ、旦那」
 駕の中の侍は、駕をつかまえて、身体を延した。そして
「垂れを下ろして――」
 自分で、そういいながら、垂れを下ろしてしまった。七梃の中二梃には、槍が立ててあった。
 同じ、宿場の駕として、四人仕立のが、二人立の駕を抜くのは当然であったが、二人仕立同士の抜きっこは、止められていた。だが、酒手の出しようで、駕屋は、対手に挨拶をして、抜いてもよかった。七人の侍の駕は、五梃の駕へ追いつくと
「兄弟、頼むっ」
 と、棒鼻が叫んだ。
「おおっ――手を握ったか」
 後棒が、振向いた。
「その辺――」
 お互に、仲間の符牒《ふちょう》で、話し合って、追い抜いてしまった。大磯と、小田原の間、松並木つづきで、左手に、遠く、海が白く光っている所であった。
 小田原から、箱根越の雲助は、海道一の駕屋として、威張っていた。七百文の定賃に、三百文の酒手ではいい顔をしないくらいであった。美酒、美食で、冬の最中にも裸で担ぐのを自慢にしていた。その裸の腕へ、雪が降っても、すぐ、消えて行くのが、彼等の自慢の第一であった。
「箱根泊りですかい、今から――」
 不平そうな顔をして、雲助がこういうのに対して
「頼む――」
 と、云って、多分の酒手を出す外になかった。雲助は支度をしながら、七人の姿を、ちらちら眺めていた。
 七人は、軽装で、二人まで袴をつけていなかった。木綿の袷一枚に、兵児帯をしめて、二尺七八寸の刀を差していた。
「おかしな野郎だの」
 駕屋は、仲間へ囁いた。
 七梃の駕が、小田原を離れると共に、駕の中の人々が
「山へ入ってから、それとも――この辺でもよいでないか」
 とか
「その曲りっ角は――」
 とか、話し合つた。だが、最初の駕にいる一人が
「山の中で、十分の足場のところでないと――」
 と、対手にしなかった。湯本から、登りになった。石段道へかかった。駕屋は、沈黙して、息杖を、こつこつ音立てながら、駕を横にして、ゆるゆる登りかけた。
 一町か、一町半で、休茶屋があった。駕屋は、きっと、そこで暫く休んだ。少しも、疲れていないようであったが、十分に休んでからでないと、行かなかった。
 右も、左も杉林で、その下は雑草の深々としたところへかかった。最初の駕の侍が
「駕屋、とめろ」
 と、叫んだ。
「ええ?」
「此処まででよい――降りる」
 駕屋は、お互に
(怪しい奴だよ。この野郎ら――)
 と、眼配せをした。
「吾々は、公儀御用にて咎人を討取る者じゃ。見物せい」
 と、一人が、駕屋へ微笑して
「小田原の方へ降ることはならぬ。そっちへ――遠くへ離れておれ」
 と、命じた。そして、酒手を多分に出した。

「待て。駕屋、待てっ」
 行手の叢から、侍が立現れて叫んだ。
 最初の駕にいた男も、次の駕の男も、立てかけてあった刀をとった。そして、素早く、左脚を、駕の外へ出した。
「奈良崎――」
 草叢の中から出て来た侍は、こういって近づくと
「聞きたいことがある」
 奈良崎は、黙って、刀を提げて、その侍の反対側へ出た。雲助が、急いで草履を持って来た。四梃の駕からも、刀を持って、商人に化けた四人が出た。そして、四辺を見廻してから、奈良崎の背後に立って、その侍を、じっと睨みつけた。
「一木」
 奈良崎が、少し、顔を赤くして叫んだ。
「連れ戻るか、斬るかであろう」
 一木は、冷たい微笑をして
「君公の命じゃ。何故、お主は無断で、旅へ出た」
「そういうことを聞きとうない」
「そうか――覚悟しておるのか」
「お身達、虎の威を借る狐とはちがう」
 一木の顔色が動いた。
「奈良崎、君公の御裁許も仰がず、濫りに私党を組んで、無届出奔に及ぶ段、不届千万、上意によって討取る」
「そうか」
 奈良崎が、足に敷いていた草履を蹴飛ばして、身構えすると同時に、草が動き、物音がして、人が、槍が、草叢の中から現れた。
「奈良崎、その外の浪人者も、手向い致すか」
 七人は、槍と、刀とで、五人を取巻いた。
「たわけ――来い」
「芋侍なら不足はない」
 五人は、刀を抜いて、背を合せた。
「そうか――是非も無い」
 一木が、こういうと同時に、六人の侍は、じりじりと迫って来た。五人の駕屋は、立木の中へ入って、樹を掴みながら、ぼんやりと、だが、腋の下に、掌に、汗をかいて、眺めていた。もう、走ることも、動くことも、出来なくなっていた。
 十二人は、無言で、お互の刀尖と、穂先とを近づけて行った。誰も皆、蒼白な顔をして、眼が、異常に光っていた。
 一木は、右手に刀を提げて奈良崎の横へ廻って来た。奈良崎は、もう、額に微かに汗を滲ませていた。追手の内の二人は、肩で呼吸をしていた。
 槍は中段に、刀は平正眼に、誰も皆同じ構えであった。お互に、最初の真剣勝負に対して、固くなっていた。懸声もなかった。刀尖が二尺程のところまで近づくと、お互に動きもしなかった。
 一木は、両手で、刀を持つと、刀尖を地につけた。示現流の使手として、斬るか、斬られるか、一挙に、勝負を決しようとする手であった――果して
「やっ、やっ、やっ」
 一木は、つづけざまに叫ぶと、刀尖で、地をたたきつけるように、斬り刻むように、両手で、烈しく振って
「ええいっ」
 山の空気を引裂いて、忽ち大上段に、振りかざすと、身体ぐるみ、奈良崎へ、躍りかかった。

 一木の攻撃は、獰猛の極であった。それは、躍りかかって来る手負獅子であった。後方へか、横へか――避けて、その勢いを挫く外に方法がなかった。
 もし、受けたなら?――それは、刀を折られるか、受けきれずに、どっかを斬られるか、それだけであった。
 だが、たった一つ、相打になる手はあった。一木の、決死の斬込みに対して、斬らしておいて、突くという手である。諸手突《もろてづき》に、一木の胸へ、こっちからも、必死の突撃を加えることである。
 然し、それも、冒険だった。もし、一分、一秒、奈良崎の刀が、遅れたなら、自分だけが真向から二つに斬られなくてはならなかった。
 こういう時になると、それは技量の問題でなく、肚の問題であった。生死の覚悟如何の問題であった。二人の間に格段の相違があればとにかく、互角か、互角に近かったなら、それは、場馴れているとか、いないとかの問題でなく、自分の命を捨ててかかった方が勝であった。
(ここを逃れて――牧を討たなくてはならぬ――)
 と、考えている奈良崎に、この覚悟がなかった。一木の、眼の凄さと、脚構えを見て
(さては――)
 と、感じた瞬間、一寸、怯け心がついた。それは、剣道で、最も、忌むべきものとされているものだった。疑う、惑う、怯ける――どの心が起っても、勝てぬものとされているものだった。
 奈良崎は、一木の光る眼、輝く眼、決死の眼が、礫《つぶて》のように、正面から飛びかかって来たのを見た。一木の両手の中に、紫暗色をして、縮んでいた刀が、きえーっ、と、風を切って、生物の如く叫びながら、さっと延び、白く光って、落ちかかるのを見た。
 奈良崎は、避けた。それは、自分の命令で、避けたのでなく、本能的に、反射的に、身体が勝手に、自然に避けたのだった。それから、奈良崎の両手も、無意識に刀を斜にして、一木の打ち込んで来る刀を支えようとした。
 だが――奈良崎が、避けたはずみに、隣りの味方――浪人者の一人へ、身体がどんと、ぶっつかった。お互に、よろめいた。奈良崎は膝をついた。そして、眼を剥き出し、絶望的な光を放って、一木を睨んだ。その瞬間、一木の打ち込んだ刀が、びーんと腕へ響いた。奈良崎は、膝を立て直そうと、片足を動かした時、太腿に、灼けつくような痛みと、突かれたという感じとを受けて、腰を草の上へ落してしまった。
「卑怯、卑怯」
 奈良崎は、血走る眼、歪んだ脣、曲った眉をして、叫んだ。誰に叫んだのか、自分でも判らなかったが、こうでも叫ぶほか仕方がなかった。だが、一木は
「えい、えいっ、えいっ」
 それは殺人の魔に憑かれた人間のように、倒れかかっている奈良崎へ、力任せに、つづけざまに、大太刀を打ち込んで来た。奈良崎は、その隙間なく打降ろす刀を受けるだけで一生懸命であった。二人とも逆上したように、憑《つ》かれたように、同じことを繰返していた。
「わーっ」
 それは、杉木立の中へ、反響して、空まで響くような叫び声であった。そして、すぐ奈良崎の頭へ誰かが斬られたらし
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