立上って、押入を開けた。狭い、急な階段があった。
「今夜は、狼共、来るかの」
「さあ、一人、二人は――お由羅さんが、お帰りなので、町内中が、見張に出ているらしいから」
「ほほう、お由羅様が、お帰り?」
「あのお嬢さんを、奥勤めさせるなど――何うして、あちきのところへ、あずけないかしら?」
 益満は、階段《はしごだん》の二段目から、首を延して
「庄吉は、色男だからのう、危い」
 と、云って、すぐ、階段を、軋らせて登ってしまった。

「お由羅さん、か」
 富士春は呟いた。同じ、師匠のところへ、通って居たこともあったが、物憶えの悪い、お由羅であった。そして、富士春は、その反対であったが、反対であったがために、富士春は師匠となり、お由羅は、いつの間にか、お部屋様になった。富士春は、勝手の小女に
「早く、おしよ」
 と、夕食を促した。
 益満は、暮れてしまった大屋根へ、出た。周囲の長屋の人々は、悉く、里戻りのお由羅を見るため、家を空にして出ているらしく、何んの物音もしなかった。
 屋根から往来を見下ろすと、町を警固の若い衆が、群集を、軒下へ押しつけ、通行人を、せき立てて、手を振ったり、叫んだり、走ったりしていた。
 提灯を片手に、腰に手鉤《てかぎ》を、或る人は棒をもって、後から出る手当の祝儀を、何う使おうかと、微笑したり、長屋の小娘に
「お前も、あやかるんだぞ」
 と、云ったり、その間々に
「出ちゃあいけねえ」
 とか
「早く通れっ」
 とか、怒鳴ったり――小藤次の家は、幕を引き廻して、板の間に、金屏風を、軒下の左右には、家の者、町内の顔利きが、提灯を股にして、ずらりと、居流れていた。
 益満は、ぴったりと、屋根の上へ、腹を当て、這い延びて、短銃《たんづっ》を、棟瓦の上から、小藤次の家の方へ、覘《ねら》いをつけていた。片眼を閉じて、筒先を上げ下げしつつ、軒下の中央へ、駕が止まって、お由羅の立出るのを、一発にと、的を定めていた。
 駕が近づいて来たらしく、人々のどよめきが、渡って来ると共に、軒下の人々が、一斉に首を延し、若い衆の背を押して、雪崩れかかった。そして、若い衆に制されて、爪立ちになって覗くと――真先に、士分一人、挟箱《はさみばこ》一人、続いて侍女二人、すぐ駕になって、駕脇に、四人の女、後ろに胡床《こしょう》、草履取り、小者、広敷番、侍女数人――と、つづいて来た。
 軒下に居並んでいた人々が、手をついた。陸尺《ろく しゃく》が、訓練された手振り、足付で、小藤次の家の正面へ来た。
 益満は、左手を短銃へ当て、狙いの狂わぬようにして、右手を引金へかけた。そして、籠から出て、立上った女の胸板へと、照準を定めていた。
 駕は、然し、横づけにならず、陸尺の肩にかかったまま、入口と、直角になった。そして、益満が
(妙な置き方をする)
 と、思った時、そのまま陸尺は、土足で、板の間へ、舁《か》き入れかけた。
(しまった)
 照準を直した時、駕は、侍女の蔭を通って、もう、半分以上も、家の中へ入ってしまっていた。
(こっちに備えがあれば、敵も用心するものだ――流石に、お由羅だ)
 益満は、微笑して立上った。そして、瓦をことこと鳴らしつつ、二階の窓から、入って来て
「ちんとち、ちんちん、とちちんちん、ちんちん鴨とは、どでごんす――」
 と、唄いながら、段を下りた。富士春が
「騒々しいね」
「ちんちんもがもがどでごんす」
 益満は、片足で、三段目から、飛び降りて、そのまま、ぴょんぴょん、富士春の側へ行こうとすると、火鉢の前に一人の男が坐っていた。

 そして、その男も、富士春も、二人ながら気拙そうに、沈黙してしまった。益満は
(庄吉だな)
 と、思った。そして、二人を気拙くさせたのは、自分だと感じた。その途端、富士春が
「ねえ、益満さん、あの、貴下《あんた》とこのお嬢という人は、この人の手を折った人の、妹さんで、ござんしょう」
 益満は、庄吉に
「初めて――でもないが、手前は、益休と申して、ぐうたら侍」
 庄吉は、周章てて、座蒲団から滑って
「恐れ入ります、お名前は、それから、以前|此奴《こいつ》が、お世話になりましたそうで、いろいろと――」
 富士春が、庄吉を睨んで、鋭く
「余計なことを喋らなくってもいいよ」
「ははは、逢えば、そのまま、口説《くぜつ》して、と唄の通りだの。それで、富士春、妹なら?」
「現在手首を折られた男の妹に惚れて――」
「手前は又、折った小太郎さんに思召しがあるんじゃあねえか」
「馬鹿に――」
「仲よく二人で惚れたって、何んでえ。何んかといや、不具者を引取ってやったと――手前なんざ、不具者の外の亭主がもてるけえ」
 富士春は、ぽんと、煙管を投げ出して、益満に
「その深雪さんが、小藤次の手で奥勤めすると聞いて、へへ、邪魔を入れてますのさ、この人が――奥へ入ると、逢えないもんだから――」
「て、手前、おれの気立を、うぬあ、まだ御存じ遊ばさねえんだ。俺《おいら》、成る程、よく聞いてみりゃあ、深雪さんは好きだと、この胸が仰しゃるけどな、あのお嬢さんを追っかけるのは、南玉爺一人に任せちゃあおけねえからだ。一手柄、俺《おいら》の手で立てさせ上げ奉っちまって、ねえ、益満さん、あの親爺さんなり、小太郎さんに逢わして上げたら、何んなに肩身が広かろうと、これが、世に云う、そら、義侠心って奴だ」
「体のいいこと云いなさんな」
「手前、何んでえ、小太郎の男っ振りに惚れやがって――」
「小娘じゃあないよ」
「何を。昨夜も、手前、あの人は、まだ女を知らないだろう、何んな顔をするだろうねって――※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]と思やあ、腕まくりしてみろ、俺がつねった跡がついてるだろう。さあ、そっちの腕をまくって、益満の旦那に見せてみろ、それ、見せられめえ」
「ははあ、のろけか」
 庄吉は、笑った。益満が
「まま、こういう喧嘩なら、大したことはあるまい。なまじ、仲裁をしては、あとで、悪口を云われるものじゃて――その内に、ゆっくり――」
 と、立上った。
「旅をなさいますって?」
 と、富士春が、見上げた。
「上方へ暫く」
「そして、深雪さんは?」
「奥勤めができんなら、暫くは、南玉の食客《いそうろう》かの」
「庄吉が、くっつきましては?」
「それも、よかろう。庄吉、頼むぞ」
「男ってものは――」
 と、富士春は、口惜しそうに、羨ましそうに呟いた。
「男同士でなくっちゃあ、判らねえ」
 庄吉は、そう、云いすてて、益満を送りに立った。

「お部屋様付になれたら、俺のいうことも聞くか?――成る程」
 小藤次は、常公と、二人で、南玉のところへ、深雪を尋ねて来て、自分の妾に、又は、妻にと話し出した。
「尤もだが、ま、俺からいうと、俺のいうことを聞いてくれたら、由羅付なりと、大殿付なりと、好きなところへ奉公してもいい、と、こういいたいの」
 常公が、頷いた。深雪は、頭から、髪の中まで、口惜しさでいっぱいだった。父に別れるとすぐ、浅ましい妾奉公などを、大工上りの小藤次から、申し込んで来たのに対して、口惜しかった。
(でも、これを忍ばないと――いい機なのだから――)
 と、思った。然し、小藤次に肌を与えてまでも、由羅付女中になりたくはなかった。そうまでしないでも、外に方法があるように思った。然し、益満は
「操ぐらい――」
 と、軽く――それも、深雪には、口惜しかった。汗ばんだ手に、懐の短刀を握って
(由羅付になって、由羅を刺すか、自分を刺すか)
 と、思うと、人々の見ている中で、芝居をしているように、いろいろの場面が、空想になって拡がって行った。
(女の決心は、男の決心よりも強い。その今、流している涙を十倍にして、敵党へ叩きつける決心をするのだ。父の分、母の分、兄の分、姉の分を、自分一人で背負って、復讎《ふくしゅう》する決心をしておれ)
 と、云われたが、それを思い出すと、小藤次に、肌を許して、一日も早く、お由羅を刺そうかとも思った。だが、小藤次の下品な鼻、脂切った頬、胸の毛を見ると、身ぶるいがした。
「武家育ちだから知ってるだろうが、一旦、上ってしまうと、町方たあちがって、なかなか、男など近づけるところでないし、宿下りは年に二度さ、だから――」
 南玉が
「そこを一つ、若旦那、お由羅さんの兄さんという勢力で、気儘に逢引のできるよう、骨を折って下さるんでげすな」
「不束者《ふつつかもの》でございますが、お世話になります以上は、一生をかけたいと存じます。それにつきましては、一通りの御殿勤めも致しとうござりますゆえ、一二年、御部屋様付にて、見習をさせて頂きましたなら」
 深雪は、一生懸命であった。頭も、顔も熱くなって、舌が、ざらざらして、動かなくなるのではないかと思えた。
「利口なことをいうぜ」
 小藤次は、腕組をして、深雪の滑らかな肩、新鮮な果実《くだもの》のような頬、典雅な腰の線を眺めていた。
「成る程、御尤もさまで――」
 と、常公が、思案に余ったような顔をしていた。
「講釈流で行くと、ここで、岡田小藤次は、侠気《おとこぎ》を見せますな。何んにも云わねえ、行って来な」
 南玉は、首を振って、仮声を使った。
「てえことになると、娘の方から――ほんに、頼もしい小藤次さま」
 南玉は、娘の仮声をつかった。そして、常公に、しなだれかかった。
「うわっ、おいてけ堀の化物だ」
 と、常公は、身体を反した。

「今晩あ――やあ、これはこれは」
 庄吉が、暗い土間から、奥を覗き込んだ。そして
「若旦那、今晩は」
 と、云って上って来た。小藤次は、煙管を仕舞って
「とにかく、奥役に聞いて、奉公に上れるか、上れんか、なあ、それから先にして、俺《おいら》あ、もう一度来るから、深雪さんも、よく考えておいてくんな。そりゃあ、無理をすりゃあ、邸の中でも――出来ねえこたあねえが、窮屈だからのう、邸勤めってのは」
「話あ、きまりましたかえ」
 と、庄吉が、小藤次の顔を見た。
「庄公も、一つ骨を折っといてくれ。なかなか、利口なお嬢さんだ。じゃあ、師匠、又来らあ。お邪魔したのう」
「手前も、今夜、ゆっくり、口説いてみましょう」
「師匠の口説くなあ、講釈同然、拙いだろうの」
 と、いいつつ、深雪に挨拶して立上った。常公も、庄吉も、南玉も、上り口まで見送って来た。深雪は、まだ短刀を握りしめて俯向いていた。
「お嬢さん――邸奉公なさるって――そりゃあ、一体、貴女《あんた》の望みか、それとも、この南玉爺の」
「これこれ、爺とは、何んじゃ。齢はとっても、若い気だ。物を盗っても、庄吉と、いうが如し、とは、これいかに。うめえ問答だ。明晩、席で、一つ喋ってやろう」
 庄吉は、南玉が喋るのを、うるさそうに聞きながら
「勤めなんぞより、お嫁に行きなせえ。早く身を固めた方が、利口ですぜ」
 庄吉は、じっと、深雪を凝視めつつ
「だが、びっくりなさんな。こうすすめるのは庄吉の本心じゃあねえんで――その懐の中、手のかかっているものは――」
 深雪は、庄吉を見た。
「短刀でげしょう」
 深雪の眼も、懐の手も、微かに動いた。
「商売柄判りまさあ。お由羅のところへ奉公に上って、その短刀が――」
 と、いった時、南玉が
「わしの、講釈よりも、筋立が上手だよ、のう庄吉」
「誰も、俺を、巾着切だとおもって対手にしねえが、流石に、益満さんは、目が高えや、南玉。深雪さん、益満さんは、貴女のお父さんが、牧を討ちに行ったと、あっしを見込んで打明けて下さいましたぜ。床下の人形のこたあ、世間でも知ってまさあ。二つ合せて考えて、その短刀と三つ合せて考えて、小藤次の色好みを幸に、御奥へ忍んで――ねえ、あっしゃあ嬉しゅうがすよ。十七や、八で、その心意気が――あっしの手が、満足なら、忍び込んで御手伝いしやすがね」
 庄吉の言葉は、二人を動かすに十分であった。だが、二人とも黙っていた。
「あっしに、何か、一仕事――庄吉、これをせいと、お嬢さん、何かいいつけて下さんせんか――死ねとか、盗めとか」
 二人は、黙ったままであった。
「じゃあ
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