「恐れ入ります」
 四ツ本は、平伏した。
「それから、これも、貴公では、手に余る獣じゃが、益休――此奴を、油断無く見張ってもらいたい――と、申しても、お前で、見張られるかな」
「死物狂いで――」
「死物狂いでは、見張れん。添役に、一人、付けてやろう。それから、万々、内々のことじゃで、世間へ知れては面白うない。これも、よく含んでおいてくれ、ええと――」
 将曹が、冷えた茶を、口へつけた時、次の間に、荒い足音がして、取次が
「伊集院様――」
 と、云い終るか、終らぬかに、襖を開けて、伊集院平が入って来た。小姓が、その後方から、周章てて、座蒲団を持って来た。四ツ本が、一座滑って、平伏した。
「やあ――寒くなって」
 伊集院が、座につくと
「四ツ本ならよかろうが、碇氏、国許から暴れ者が二人、名越へ着いたのを、御存じかな。昨夜」
「いいや」
 碇山は、身体を起して、伊集院の方へ、少し火鉢を押しやった。
「例の、秋水党の、何んとか、池上に、兵頭か、そういう名の奴が参ったが、案ずるところ、国許の意見を江戸へ知らせ、江戸の話を、国許へ持ち戻る所存らしい」
「打った斬ろう」
「やるか」
「四ツ本、藩の名では後日が煩い。浪人を、十人余り集めて、網を張り、引っかかったら、引縛《ひっくく》るか、斬るか――のう平」
「四ツ本、斬れるか」
「只今も、それで、面目を失いました」
「はははは、碇殿も、流行唄は上手だが、この方は、一向でのう」
 と、平は、四ツ本の頭を打つ真似をした。

 四ツ本は、将曹の指令を受けて、退出してしまった。将曹は、欠伸《あくび》をして
「商魂士才で、如才が無い、薩摩の殿様お金が無い、か」
 と、呟いて
「これは?」
 と、指で丸を作って、平へ、微笑した。
「何うも――」
 平は、口重にいって、腕を組んで、首を傾けて
「調所の心底がわからぬ。下らぬ大砲鋳造とか、軍制改革とか――表面は、久光公の御命令だが、裏に、斉彬公が糸を引いていることは、よくわかっておるのに、すぐ、それには、金を出す。そして、この御家の基礎を置こうとするには、きまって出し渋る」
 将曹が、微笑して、金網の間から、火を掻き立てつつ
「数理に達者だからのう。あの爺――わしらが、その中から小遣にしておるのを、ちゃんと知っておるかも知れぬ」
「真逆《まさか》――」
「いいや、金のことになると、お由羅とて容赦せぬからのう。そうそう、彼奴の江戸下りも近づいたから、帳尻を合せておかぬと、何を吼《ほ》え出すかわからん」
「この夏の二千両の内、八百両、貴殿にお渡しした。あの明細が、未だ、届いていん」
「届かぬ筈で、ありゃ、内二百両が、芸妓《げいこ》に化けた」
「又、出来たか」
「出来たと思うたら、逃げられた」
 将曹は、脣を尖らした。そして
「その代り、端唄を一つ覚えた。二百両の端唄じゃ。一、二百両也、端唄、と書け。調所のかんかん爺には、判るまい」
 あはははは、と、高笑いして、鈴の紐を引いた。遠くで、微かに、鈴が鳴ると、すぐ、女の声で
「召しましたか」
「酒じゃ」
「はい」
「お高の三味線で、その二百両の唄を一つ聞かしてやろう」
 平は、丁寧に、頭を下げて
「有難い仕合せ」
 と、膝の上で、両肱を張った。衣擦れの音がして、襖が開くと
「お久し振り」
 将曹の愛妾、お高が、真紅の襟裏を、濃化粧の胸の上に裏返して、支那渡りの黒繻子《くろじゅす》、甚三紅の総絞りの着物の、裾を引いて入って来た。
「高、二百両の端唄を、今夜は、披露しようと思うが――」
 お高は、練《ねり》沈香の匂を立てて、坐りつつ
「三文の、乞食唄?」
「又――」
「でも、深川あたりの流し乞食の――」
「平、文句がよい――巽《たつみ》に見えたあの白雲は、雪か、煙か、オロシャ船、紅毛人のいうことにゃ、日本娘に乗りかけて――」
 お高が、口三味線で、近頃流行の猥歌を唄い出した。平は、神妙に聞いていたが
(敵党には人物が多い。こんなことでは)
 と、俯向いて、暗い心を、じっと、両腕で抱いていた。

  匕首に描く

 南玉のところは上り口の間と、その次の六畳と、それったけの住居であった。ただ幾鉢かの盆栽と、神棚と――それから、深雪が、明るく、光っていた。益満が
「退屈なら深雪、富士春のところへでも行くか」
「戯談《じょうだん》を――碌《ろく》なことを教えませんよ。富士春は――」
「その代り、お前のように、孔明|字《あざな》は玄徳が、蛙《かわず》切りの名槍を持って、清正と一騎討ちをしたりはせん――」
「だって、あん師匠あ、辻便所じゃあ、ごわせんか。そんなところへお嬢さんが――」
「小父さん、辻便所って、何?」
「そうれ御覧なさい――だから、云わないこっちゃねえ。齢頃が、齢頃なんだから、こういうことは、すぐ感づきまさあ――辻便所ってのは、お嬢さん――」
 南玉は、両手の人差指で、鼻を押上げ、小指で、口を大きく開いて
「ももんがあ」
「あら。ももんがあが、お厠《しも》から出ますの」
「そうそう、三縁山の丑三つの鐘が、陰にこもって、ぐぉーんーと、鳴ると――」
「成る程、拙《まず》い講釈師だの」
「便所の蔭から――」
「ちょいと、ちょいと」
 南玉は、手で額を叩いて
「出来ましたっ、夜鷹の仮声《こわいろ》は天下一品」
 と、いった時、
「物申《ものも》う、講釈師、桃牛舎南玉の住居はここかの」
 南玉が
「へい」
 と、いった途端、益満が
「真木か」
「益満」
 格子を開けて、着流しの浪人が入って来た。そして、土間に立っていると
「南玉、酒を買って来い」
 銀子を渡して、益満が
「こちらへ」
 と、いった。南玉は、勝手口から出て行った。浪人が、深雪に挨拶してしまうと、益満が、金包を出して
「支度金」
「いや、忝ない」
 浪人は、膝の上へ手をついて御叩頭した。
「一手五人として、三手――成るべくならば、姿をかえて、悟られぬようにお願いしたい。一手から一人ずつ、物見兼連絡掛として、某と、各々との間におって、事があれば知らせ合うこと――誰も同じことで、某も覚えがあるが、苦しい時には、刀の中身まで替えたもの。もし、そういう仁があれば、是非、味のよい物を求めてもらいたい。仲間の喧嘩、口論は勿論のこと、道中、みだりに人と、いさかってはならぬ。旅宿《やど》での、大酒、高声、放談も慎んで頂きたい」
 浪人は、一々、うなずいていた。
「出立は、明後日?」
「左様、明後日ときめて、万事、某の指図をお待ち願いたい」
「では、支度に忙がしいゆえ、これにて」
 浪人は、手をついて
「一同の人は、何処に。貴公のところ?」
「揃うておりまする」
 浪人は、そう云って、腰を上げた。
「では、明後日早朝として、某は神奈川でお待ち申そう」
 益満も、見送りに立上った。

 益満は、座につくと
「深雪」
 と、正面から、顔をじっと見た。
「わしは、予ての話の如く、明後日の早朝、牧仲太郎を討取るため、今の浪人共を連れて上方へ立つ」
 深雪は、膝を凝視めて、鼓動してくる心臓を押えていた。
「人を討つに、己のみが助かろうとは思わぬから、或いは、これが今生《こんじょう》の別れかも知れぬ。父に別れ、母に別れ、小太に別れ――今又、わしと別れて心細いであろうが、かかる運命になった上は是非もない――ただ――如何なる苦しみ、悲しみが押寄せようとも、必ず、勇気を失うなよ。じっと、耐えて、その苦しさ、悲しさを凝視めてみるのじゃ。それに、巻き込まれず、打挫《うちくじ》かれずに、正面から引組んで味わってみるのじゃ。そうすると、何故、自分は、こんなに、苦しめられるのか? 悲しまされるのか、だんだんわかってくる。誰が苦しめるのか? 何んのために、悲しまされるのか? それを、よく考えて、その苦しませる奴と戦う――ここから、その悪い運が、明るく開けてくる。よいか」
 深雪は、頷いた。
「それで、小父上から、あずかっておいたが――」
 益満は、袋に入った短刀を取出した。
「小藤次が惚れておるのを幸として、お由羅の許へ、奉公に出るということ――もし、この話が成就したなら、これを、父と思って肌身離すな。奥女中は、片輪者の集まりゆえ、いじめることもあろうし、叱ることもあろうが、お家のため、父のために、十分に耐えて――隙があらば、由羅を刺し殺せ。己を突くか、由羅を突くか、二つに一つの短刀じゃ。その外に使うことはならぬ。又――朱に交れば赤くなる、と申すが、泥水に咲いても、清い蓮の花は清く咲く。決して、奥の悪風に染むなよ」
 深雪は、身体をかたくして聞いていた。一家中の者が、それぞれ身を捨ててかかっているのに、自分一人だけは、南玉のおどけた生活の中にいたので、日夜、そのために苦しんでいたが、益満の言葉で、頭が軽くなった。
 だが、同時に、齢端《としは》の行かぬ、世間知らずの娘が、そんな――由羅を刺すというような大任ができるだろうかと、心配になった。
「人間というものは、何んなことがあっても、いつも、明るい心さえもっておったなら、道は、自然に開けてくる。明るい心とは、勇気のあること、苦しさに負けぬこと――よいか」
 と、云った時、南玉が、ことこと戻って来た。深雪は、短刀を押頂いて、懐中した。
「わしは、これから、富士春の許へ、一寸、行って来る」
 益満は、刀を持って、立上りながら、勝手で、七輪への、焚木を、ぷつぷつ折っている南玉へ
「客は、戻ったぞ」
「しめたっ」
「へべれけになって、又、席を抜くなよ」
「腰を抜く」
 南玉は、こういって、障子の破れ穴から、中をのぞいて、益満が出て行きそうなので
「一杯やってから」
 と、徳利を提げて出て来た。
「急ぐ」
「便所なら、こっちにも――」
「馬鹿っ」
 益満は、笑いながら出て行った。深雪には何の事だかわからなかった。

 富士春は一人きりだった。益満が入って行くと、惣菜をお裾分けに来たらしい女房が、周章てて勝手から出て行った。富士春は、お惣菜の小鉢を、鼠入らずへ入れて、益満へ
「お見限りだねえ」
「何を――こっちのいう科白《せりふ》だ。近頃は、巾着切を、くわえ込んでいるくせに――」
 富士春は、下から、媚びた目で、益満を見上げて
「ま、お当て遊ばせな」
 と、座蒲団を押しつけた。
「貴様でも、遊ばせ言葉を存じておるか」
「妾は、元、京育ち、父は公卿にて一条の」
「大宮辺に住居して、夜な夜な、人の袖を引く」
「へんっ、てんだ。何うせ、そうでございましょうよ。柄にもない、お嬢さんなんかと、くっついて」
 富士春は、益満の眼へ、笑いかけつつ、茶をついだ。
「そのお嬢さんに、小藤次が執心らしいが、師匠、一つ骨を折って、奥勤めへでものう。父は浪人になるし、南玉の許に食客《いそうろう》をしていては――」
「本当にね、お可哀そうに――」
「などと、悲しそうな面あするな。内心、とって食おう、と、思っているくせに――」
「やだよ、益公。与太な科白も、ちょいちょい抜かせ。意地と、色とをごっちゃにして、売っている、泥溝板長屋の富士春を知らねえか」
「その啖呵あ、三度聞いた」
「じゃあ、新口だよ。いいかい、剣術あお下手で、お三味線はお上手てんだ、益公。お馬もお下手で、胡麻摺りゃお上手。ぴーんと、痛いだろう」
「常磐津よりは、その方が上手じゃ。流石、巾着切のお仕込みだけはある」
「外聞の悪い、巾着切、巾着切って」
 と、云って、女は、声を低くして
「お前さんにゃあ敵わないが、知れんようにしておくんな、人気にかかわるからね」
「心得た――その代り、二階へ一寸――」
 富士春は、ちらっと、益満を見て
「本心かえ」
 と、険しい眼をした。
「一緒に、というんじやあねえ、わし一人で――その代り、暫く、誰も、来んように」
 富士春は、微笑して
「屋根伝いに、お嬢さんが――」
「まあず、その辺」
 富士春は、手を延して、益満を捻った。
「たたたった――まさか、二階に、庄公が鎮座してはおるまいの」
「はいはい、亭主《やど》は、人様が、お寝静まりになりましてから、こっそり、忍んで参りまする」
 益満は、
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