と、叫んだ。三人は、この闇の雨の道を歩きたくはなかったが、江戸近くで泊るということは、夫に対して出来なかった。夫に対し、父に対し、主人に対し、自分達も、その人と同じように苦労をしなくてはならぬように感じていた。そして、身体を冷やしつつ、歩いた。
それでも、鈴ヶ森へかかって、海の鳴る音、波の打上げて来る響き、松に咽《むせ》びなく風と、雨の音を聞き、仕置場の番小屋の灯が、微かに洩れているのを見た時には、流石に気味悪くなって
(品川で泊った方がよかった)
と、思った。街道には一人の通行人も無かったし、これから川崎までは、殆《ほと》んど人家の無い道であった。川崎は、未だ深い眠りの中にいるうちに通った。そして、鶴見へ入る手前で、ようよう雲に鈍い薄あかりがさし初《そ》めて、雨が上るらしく、降りも少くなって来たし、雲の脚が早く走り出した。
合羽を着ていたが、それを透したと見えて、着物の所々が、冷たく肌へ感じるくらいに濡れていた。そして、暁の冷たい空気が顫えるくらいに寒かった。
鶴見を越えると、道傍の、茶店などは起き出ていて、煙が低く這っていたし、いろいろの朝らしい物音が聞えかけてきた。神奈川へ入る手前では、早立ちの旅人が、空を仰ぎながら、二三人急いで来た。そして
「お早う、道中を、気をつけさっし」
と、気軽に三人へ挨拶して、擦れちがって行った。綱手は
(こんな人ばかりの道中ならよいのに)
と、思った。そのうちに断《き》れ断《ぎ》れの雲間から、薄日がさし出した。三人は、神奈川の茶店で、朝食を食べて、着物を乾すことにした。鰊、蒟蒻《こんにゃく》、味噌汁、焼豆腐で、一人前十八文ずつであった。
この辺から、左右に、小山が連なって、戸塚の焼餅坂を登りきると、右手に富士山が、ちらちら見えるまでに、晴れ上ってしまった。左手には、草のはえた丘陵が起伏して、雨に鮮かな肌をしていた。戸塚の松並木は、いつまでもいつまでもつづいた。七瀬は、その松並木が余りに長いので腹が立った。そして、すっかり疲れきった。
松並木の下の、茶店で休むと、腓《こむら》に何か重い物を縛りつけているようで、腰も、足も立たなくなってしまった。茶店の亭主が、江戸からと聞いて
「そりゃ、無茶だ。奥様、無茶というものでがすよ。女の脚で、おまけに、初旅というのに――そんな無茶な――こちらへござって、足をよく揉んで、暫く、ちゃんと坐ってござれ」
座敷を開けてくれた。三人は、其処へ入った。そして、又蔵が、七瀬の足を揉み、綱手が自分の腓を揉んでいる時、往来から、道中合羽を着た男が、覗き込んだ。
「やっと、見つかった」
と、七瀬へ、笑いかけて、御叩頭した。
又蔵が、警戒するように、二人の前へ立って、男を睨んだ。七瀬も、綱手も、坐り直した。
「無茶なことをなさるじゃあござんせんか――昨夜は、夜っぴてでござんしょう。あの雨の中、もし、風邪でもひいたら、一体、どうなさるんで。旅ってものは、腹と一緒で、八分目でござんすよ。昨夜よっぴて歩いたって、今朝、早立したあっしが、馬で急ぎゃあ、ここで追っつけるんだ。旅の初日に出た肉刺《まめ》は、二日や、三日で癒らねえし、その脚じゃあ、今日、当り前なら六里歩けるところが、無理なすったため、半分歩きゃあ、又へたばっちまいますぜ――又蔵さん、いい齢をして、何んのためのお供だい」
「そうともそうとも」
茶店の亭主が、茶を汲んで来て、庄吉の喋っているのへ相槌《あいづち》を打った。
「それくらいのことあ心得てらあ。ところが、そうは行かねえんだ」
又蔵が、不平そうに云った。七瀬は、又蔵へ気の毒な気がしたし、気ばかりあせって、旅慣れない自分に、軽い後悔も、起って来た。庄吉は、合羽の間から、懐へ手を入れて
「悪気で云うんじゃあねえ。怒んなさんな。所で――」
鬱金《うこん》木綿の財布を、七瀬の前へ置いて、部屋の隅へ小さく腰をかけた。
「ええ――これは、御道具を売った金でござんす」
三人は、一時に、財布と、庄吉の顔とを見較べた。七瀬が
「何んという名であったか――そちの志は、よう判っていますが――」
「うんにゃ、一寸もお判らねえ――何んとか、ござり奉って、御返答申し上げ遊ばすおつもりでげしょうが、あっしゃあ、もう少し――やくざ野郎だが、この胸んところを買ってもれえてんだ。お嬢さん、あっしのここを、買っておくんなせえ。庄吉、死ねっと、仰しゃったら、死なんとも限らねえ野郎ですぜ。失礼ながら、ぎりぎりの路銀しかお持ちじゃねえ。万一、水当りで五日、七日、無駄飯でも食ったら、一体何うなさる。この財布を、お持ちになるよりは、もっと、辛い思いをしますぜ」
「然し、あの道具は一旦、お前に、差上げた道具ゆえ」
「何んのいわれ、因縁があって、差上げてもらったんで――いや、お互に、唐変木は、よしやしょう。とにかく、こいつあ御納め願います。ほんのあっしの志で――」
左手で、財布を、七瀬の膝の方へ、押しやって、立上った。
「お前――」
「さよなら」
「これっ――又蔵」
七瀬は、又蔵へ財布を渡して、庄吉を追わそうとした。表口から、庄吉が振返って
「深雪さんにゃ、手前がついていやす。御心配にゃ及びません。さよなら」
口早に叫んで、微笑した。そして、軒下から足早に走り去ろうとした時、二人の馬上の武士が通りかかった。又蔵が、駈け出して来た。七瀬が、上り口のところまで出て来た。
「下郎」
馬を停めて、馬上から侍が呼んだ。又蔵が振向くと、一人の武士が、七瀬を、顎でさして
「仙波の家内ではないか」
又蔵は、不安そうな顔をして、馬上の人を見上げた。
一人が、馬から降りて、左手で編笠の紐を解きつつ
「仙波殿の御内室では、ござりませぬか。久し振りにて、お眼にかかりまする」
「おお、池上」
国許で、小太郎の友達として、出入していた池上であった。
「どちらへ?」
「貴下は?」
「江戸へ」
「妾は、国許へ」
「亭主、ちょっと、奥を借りるぞ」
池上は、こういって、未だ馬上にいる兵頭へ
「降りて来いよ」
と、声をかけた。そして、奥へ入ろうとすると、赭っ茶けた襖の前に、花が咲いたような綱手が坐っていた。
「これは――御無礼致した。亭主、客人がいるでないか」
七瀬が
「いいえ、お見忘れでござりますか、あの綱手」
綱手が、御辞儀した。
「ああっ、綱さんか、わしは――」
池上は、少し赤くなった。そして、小声で七瀬に
「寛之助様の、御死去の折、たしか、お守役と聞きましたが――それに就いて、ちと、聞いたことがあって」
池上は、打裂羽織《ぶっさきばおり》の裾を拡げて、腰かけた。兵頭が、土間の奥の腰掛へ、大股にかけて
「初めまして、兵頭武助と申します」
と、挨拶した。七瀬は、二人の丁度間へ坐って
「如何ようの?」
「国許では、御変死、と噂しておりますが――」
池上は、こういって、七瀬の顔を、じっと見た。
「はい、御変死で、ございます」
七瀬は、言下に、はっきり答えた。
「と、申すと、証拠でもあって」
「調伏の人形が床下にござりました。小太郎が、それを掘り出しましたが、そのために、八郎太は浪人――妾は、国許へ、戻るところでござります」
池上は、暫《しばら》く黙っていたが
「それは又、奇妙な――調伏の証拠を掘り出して、咎めを蒙るとは」
「地頭には勝てませぬ。して、貴下様は、何用で、御江戸へ」
池上は、腕組して暫く黙っていたが
「御内室を見込んで、お明かし申そうが――加治木玄白斎殿が、牧仲太郎の調伏に相違無しと、見究められ、只今、御懐妊中の方に、もしものことがあっては、と、江戸の同志の方々と、打合せのために参る途中――」
「そして、その牧は、只今、何処に――」
「上方へ参っておりましょう。場合によっては、某等の手にて討取る所存でござる」
「国許の同志の方々は?」
「赤山|靱負《ゆきえ》殿、山田一郎右衛門殿、高崎五郎左衛門殿、など――今度の異変にて、夜の目も寝ずに御心痛でござる」
七瀬は、又蔵に
「聞いたか」
「はい」
「御国元ではお待ちじゃによって、妾にかまわず、先に行ってたもらぬか」
「でも――」
七瀬は、黙って又蔵を睨みつけた。
兵頭が
「判ったなら、急ごうでないか」
「いや、江戸の気配も、ほぼ、判り申した。忝のう存じます。道中御健固に」
と、いって、池上が立上った。
「もし、名越様にお逢いの節は、よろしくお伝え下されませ」
「して、仙波殿は」
「江戸におりましょうか、それとも、その辺まで、参っておりましょうか」
「その辺まで?」
と、池上がいった時、もう、兵頭は、馬の頸を叩いていた。
「では、御免、もし、仙波殿に、途中で逢ったなら――」
池上は、歩き歩き振向いていった。
「無事とお伝え下さりませ」
三人は、池上の馬に乗るのを見送った。
「御免」
二人は、編笠をきて、すぐ、馬をすすめた。三人は、御辞儀して、座に戻ると、暫く黙っていたが
「又蔵、御苦労ながら、一足先へ立ってたもれ。大事の手紙じゃで、一刻も急ぐから」
「はい――然し、お二人では――」
「今、聞いたであろう。牧が、上方へ、参っておると――このことを、夫に知らせて、一手柄させて上げたいが、今から江戸へ戻れるものでなし、ここで、こうしていて、夫と、小太郎に逢うて、牧の行方を告げましょう。それまで、そちが、ここにおっては、大事の書状が無駄になる。わかりましたかえ、お前の心配に、無理は無いが、妾とても、十八九の娘ではない――さ、心配せずに、急いで立っておくれ」
「はい」
七瀬は、腹巻を引出そうと、手を入れた。俯向いていた又蔵が
「路銀は――ここに」
と、庄吉の置いて行った財布を出した。
「それは、人様の金子でないか」
「いいえ――あいつの申します通り、もしも、水当りででも、五日、七日寝ましたなら、先立つものは金、又、手前が、これを使います分にゃあ、申訳も立ちますし――あいつも、なかなか、おもしろい奴でございます。手前、これで参ります」
「何程入っていますかえ」
又蔵は、中を覗いてから
「おやっ」
と、いって、掌へ開けた。小判と、銀子とが混っていた。
「ございますよ、八両余り」
「八両?――少し、多いではないか」
「ねえ」
「あれは巾着切であろうがな」
「そう申しますが」
「もしか、不浄の金ではないかの」
又蔵は、立上った。
「もしもの時にゃあ、奥様、又蔵が、背負《しょ》います」
「いいえ。これをもって――」
と、七瀬が金子を差出した時
「では、御無事に――すぐ又、大阪へお迎えに参ります。お嬢さん、気をおつけなすって下さいまし、水当りに――」
又蔵の声が湿った。走るように軒下へ出て、振向いて
「祈っておりまする。奥さん、お嬢さん、行って参りますよ」
綱手は泣いていた。七瀬の眼も、湿っていた。茶店の旅人も、亭主も、両方を見較べていた。
碇山将曹は、四ツ本の差出した書面を見ていた。それには「あかね」で、会合した人々の名が、書いてあった。
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大目付兼物頭 名越左源太
裁許掛 中村嘉右衛門
同《おなじく》見習 近藤七郎右衛門
同 新納弥太右衛門
蔵方目付 吉井七之丞
奥小姓 村野伝之丞
遠方目付 村田平内左衛門
宗門方書役 肱岡五郎太
小納戸役 伊集院中二
兵具方目付 相良市郎兵衛
同人 弟 宗右衛門
無役 益満休之助
同 加治木与曾二
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「この外に、仙波親子か」
大きい、丸い眼鏡越しに、四ツ本を見て
「はっ」
と、頷くと、眼鏡をはずして、机の上へ置いた。そして、金網のかかった手焙《てあぶり》――桐の胴丸に、天の橋立の高蒔絵したのを、抱えこむように、身体を曲げて
「これだけの人数なら、恐ろしくはないが、国許の奴等と、通謀させてはうるさい。それを取締って――時と、場合で、斬り捨ててもよい。と申しても、貴公は弱いのう」
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