門内へ入ってしまった。暗い大門の軒下で、人通りの少い雨の往来であったが、時々通る人は、立止まってまで、六人と、道具とを眺めて通った。
(何んと挨拶しゃあがるか――とにかく、ぶっつかってみろ。だまっちゃ、何んしろ、居れないことに、なって来やがるんだからなあ)
 庄吉は、勢いよく立上った。そして、真直ぐに六人の方へ歩いて行った。

「いつぞやの者でござんす」
 庄吉は、小太郎に、お辞儀をした。小太郎は、じっと睨みつけたまま、口を利かなかった。深雪が
「ああ――先刻の?」
「ええ先刻の野郎でございます」
 と、深雪に、お辞儀してから
「手前、お初にお目にかかりやす。ええ、仙波の御旦那様、手前――」
 庄吉は、膝まで、手を下ろして
「巾着切の、庄吉と申しやす。至って、正直な――」
「あっちへ参れ。用は無い。行けっ」
 八郎太が、静かにいった。庄吉は、その声と共に、さっと、身体を立てて、八郎太と正面から、顔を合せた。
「御尤も様でございます。すぐ、あちらへ参ゆますが、一言だけ、聞いて頂きたいもんで。御存じの通り、若旦那に、この手首を――ねえ、小太郎さん――手首を折られまして」
 八郎太は、じっと、庄吉の顔を見た。
「実は――本当のことを申しますと、怨みがございます。何んしろ、巾着切が、手首を折られちゃ、上ったりでげすから――人間誰だって、手首を折られて怨まん奴はござんせん。ねえ旦那、随分怨んでましたよ。今だって、こん畜生、ひでえ目に逢いやがるがいいや、と――これは、本当の話で、正直な、気持を申し上げているんでげすが――然し、でござんす、旦那、このお嬢さんにゃあ、怨みはござんせん。その怨みも、縁も無い方が、こんなにおなりなさり奉ったのを、あっしが、黙って見ておれるか、おれんか? 何うでげす、旦那、江戸っ子なら、判りまさあ、見ておれるものじゃござんせん。そうでげしょう、ねえ、旦那。見ちゃいられませんや」
 八郎太は、七瀬に
「支度をせんか」
 七瀬は、風呂敷包の中から、旅支度の品々を、取り出した。綱手が手伝った。
「旦那、待っておくんなさい。あっしゃあ、これで一生懸命なんだ。お侍対手に、うまくいえねえが――おかみさん、一寸、聞いてやって下っせえよ。そう急がずに――その手首を折られて、無念、残念、びんしけん、何んとか、この青ちょこ野郎め、御免なせえ――大体、この方の印籠を掏れといった奴は、岡田小藤次って、野郎でさあ」
 八郎太も、小太郎も、ぺらぺら妙なことを喋っている庄吉に、五月蠅《うるさ》さを感じていたが、岡田と聞いて、次を聞く気になった。七瀬も、娘も、庄吉の顔を見た。
「ねえ、ところが、若旦那に、御覧の如く、手首を折られっちまいました。小藤次野郎も、自分のいい出したことだから、あっしに済まねえと思ったのでしょう、庄吉、この仇はきっと取ってやるって――どうか、皆さん、怒らずに聞いておくんなさい。するてえと、昨日、仇は取ってやったよ、あいつら明日から浪人だと――あっしゃあ、実のところ胸がすーっとしやしたよ。全くね。ところが、さっきお嬢さんにお目にかかりやした。あっしの怨みのあるのは、この若旦那一人にだ。こんな、別嬪のお嬢さんを怨もうにも、怨めやしませんや。ねえ旦那、そうでしょう。若旦那に怨みはある、然し、憚《はばか》んながらお嬢さんにゃあ、怨みも、罪も何んにもねえ。そのお嬢さんが、もう一人ふえて、お二人だ、それに又ふえて、旦那様、奥様まで――それが、何か大それた泥棒でもなすったのならとにかく、小藤次野郎の舌の先で、ぺろりとこの泥の中へ転がされちゃあ、江戸っ子として、旦那、自慢じゃあねえが、巾着切仲間じゃあ、黙って見ていませんや。それで、さっきから、何か、いい工夫がなかろうかと、おでんを食べ食べ考えていたんでげすがね――いい智慧が、ござんせんや、随分、お力になりますが――」
 庄吉は、一生懸命であった。

「そうか」
 八郎太は、笑った。
「よくわかった」
 庄吉の顔を見てうなずいてから、七瀬に、
「何時までも、ここにはおれぬ。僅かの道具に未練をもって、夜明ししおったと噂されては口惜しい。そちとも、何れは別れる宿命でもあるし、ここからすぐに上方へ立て――」
「旦那」
 庄吉が、口を出した。八郎太が、庄吉へ手を振った。
「あっちへ行っとれ――旅は急ぐなよ、八里のところは、六里にしても、足を痛めて馬、籠などに乗るな、駕人足一人前の賃で、十五文の宿銭が出る。夜は必ず、御岳講か、浪花講へ泊れ」
「それが、ようがす、宿のことなら、あっしが――」
「煩いっ」
「旦那、御尤もでござんす」
 庄吉が大きな声を出した。そして、早口に
「あっしが、若旦那をお怨み申したように、あっしが憎うがしょう。だがねえ、あっしら仲間にゃあ、意地って奴と、粋興って奴とがござんしてねえ――」
 小太郎が
「わかったから、あっちへ参れ」
 と、いって、庄吉の肩を、静かに押した。
「ようがす。この御道具類は?」
「捨てて置く」
「じゃあ、あっしに頂かせて下さいまし」
 八郎太が
「売って、手首の疵の手当にでも致せ」
「ところがね、へっへっへ、そんな、けちな巾着切じゃござんせん――じゃあ、皆様、あっしゃ、ここで失礼いたしやす」
 庄吉は、丁寧に、御叩頭をして門番の窓下へ行って
「御門番」
 と、怒鳴った。そして、何か、紙包を渡して、物を頼んで、雨の中を、闇に融けてしまった。
 親子、主従六人は、もう顔も見えぬくらいになった闇の中に立っていた。八郎太は、話し出そうとして、妻の顔が、ほのかな、輪郭だけしか見えぬのに物足りなくて
「灯を――」
 と、いった。又蔵が
「はい」
 燧石《ひうち》が鳴った。その火花の明りで、ちらっと見た夫の顔、小太郎の顔。七瀬は、それを深く、強く、自分の眼の底に、胸の奥に、懐の中に取っておきたいように、感じた。
 提灯は、すぐついた。こんなところを、余り人に見せたくないと思っていたが、闇の中で、このまま別れることも、八郎太には、流石《さすが》に出来なかった。
 綱手は、深雪に助けられて、旅支度をしていた。二人とも、灯がつくと涙の顔を外向《そむ》けた。八郎太は、二人の娘の顔をちらっと見たが、平素のように、何を泣く、と叱らなかった。
 七瀬は、手甲、脚絆までつけて、いくらか蒼白めた顔を引き締めて、夫の眼をじっと見た。いつもの七瀬よりは、美しく見えた。小太郎は、親子の生別よりも、反対党に対する憤りでいっぱいだった。彼は、腕を組んで、胸を押えていたが、悲しいものが、胸の底に淀んでいて、時々、押え切れないで湧き上って来かけた。

 七瀬は、何をいっていいか、判らなかった。何かに、せき立てられるようで、いいたい事がいっぱい胸の中にあるような気がしたが、その何れを、何ういっていいのか――苛立《いらだ》たしさと悲しさとが、いいたいと思うことを、突きのけて、胸いっぱいにこみ上げてきた。
「いろいろ――」
 それだけいうと、咽喉がつまってしまった。人目が無かったなら、せめて胸へでも縋ったなら、このいろいろの胸の中の思いが、夫の身体へ滲み込むだろうと思えた。四ツ本の無法な、冷酷な仕打ちさえ無かったなら、今夜は、ゆっくり名残を惜めたのにとも思った。そして、もう一言
「長々――」
 と、いうと、涙声になった。八郎太も
「うむ」
 と、いっただけであった。深雪は、門の柱へ袖を当てて、顔を埋めていた。綱手は、その片手を、しっかりと握って、片手で、母親の手を掴みながら、手を顫わして泣いていた。小太郎は、涙の浮んで来るのを、そのままに、雨空を見上げていた。暫くして、七瀬は
「御看護に不調法を仕りまして申訳もござりませぬ。この失策は、必ず、上方にて取戻して御覧に入れます」
「抜かるな」
「み、深雪を、何うか――」
「うむ――綱手、予々《かねがね》申付けある通り、命も、操も、御家のためには捨てるのじゃぞ。又、こと露見して、いかようの責苦に逢おうとも、かまえて白状するな。敵わぬ時は舌を噛め、隙があれば咽喉を突け」
「はい」
 綱手の頬は涙に濡れていた。七瀬が
「深雪」
 深雪は、振向かなかった。
「何を、お泣きやる」
 それは、深雪の泣くのを叱るよりも、自分の弱さと、涙とを叱る声であった。綱手は、自分の握っていた深雪の手を放した。深雪は、顔に袖を当てたまま母の方へ振向いた。
「お前も、何れ、綱手と同じように、働かねばなりません。それに――そんな――よ、弱いことで――」
「七瀬、道中、水当り、悪人足に気をつけよ。深雪は、益満の許にあずけるから、心配すな。小太郎、申すことは無いか」
「別に――御身体、気をおつけ遊ばして」
「お前も――」
「では行け。又蔵、たのむぞ」
 小者は、地に両手をついて
「いろいろと、御世話になりました。命にかけて御供仕ります」
「たのむ」
「では、御、御機嫌、よろしゅう」
「道中無事に――」
 深雪と、綱手とはもう一度抱き合った。そして、泣いた。それから、深雪は
「お母様」
 と、叫んで、胸へすがった。七瀬は、その瞬間、深雪の背をぐっと抱き締めたが、すぐ
「未練な」
 やさしく、深雪の指を解いて、押し放した。そして、雨具、雨笠を手に、門から一足出た。深雪は、佇んだまま袖の中で声を立てて泣いていた。七瀬と、綱手は、手早く、雨支度をすると
「参ります」
「うむ」
「母上をたのむぞ」
 深雪は、雨の中を駈け出した。小太郎が、追っかけて素早く引留めた。そして、泣き崩れる深雪を自分の胸の中へ抱え込んだ。三人の者は静かだったが、すぐ見えなくなった。だが、すぐ、闇の中から
「お父様」
 と、綱手の声がした。八郎太が
「未練者がっ」
 と、怒鳴った。しめった声であった。

  両党策動

 目黒の料亭「あかね」の二階――四間つづきを借切って、無尽講だとの触込みで、雨の中の黄昏時から集まって来た一群の人々があった。
 もう白髪の交っている人もいたし、前髪を落したばかりの人も混っていた。平島羽二重の熨斗目《のしめ》に、精巧織の袴をつけている人もあったし、木綿の絣を着流しに、跣足の尻端折で、ぴたぴた歩いて来た人もあった。
 人々の前には、茶、菓子、火鉢、硯、料紙と、それだけが並んでいた。階段から遠い、奥の端の部屋の床の前に、名越左源太、その左右に御目見得以上の人々。そして、その次の間の敷居際には、軽輩の人々が、一列に坐っていた。
「仙波が来ぬが、始めよう」
 名越左源太は、細手の髻、一寸、当世旗本風と云ったようなところがあったが、口を開くと、底力を含んだ、太い声であった。
「今日の談合は――」
 と、云って、低い声になって
「御部屋様の御懐妊――近々に、目出度いことがあろうが、もし、御出生が、世子ならば、その御世子を飽くまで守護して、御成長を待つか。又、それとも――女か――或いは、男女の如何に係らず、お由羅派を討つか、それとも、牧仲太郎一人を討つか――この点を、計って見たい」
 居並ぶ人々は、黙っていた。
「つまり、成るべくならば、家中に、党を樹てたくはない。たださえ、党を作ることの好きな慣わしの家中へ、御当主斉興派、世子斉彬派などと分れては、又、実学崩れ、秋父崩れなどより以上の惨禍が起るに決まっておる。これは御家のため、又漸く多事ならんとする天下のために、よろしくはない――然しながら――」
「声が、高い」
 と、一人が注意した。左源太は、又、低声《こごえ》になって
「斉彬公の御子息御息女四人までを呪殺したる、大逆の罪、しかも、その歴々たる証拠までを見ながら、これを不問に付するということは、家来として、牧の仕業に等しい悪逆の罪じゃ。ただ――もし――然しながら、この企てが、お由羅の計画であり、斉興公も、御承知とすれば――吾等同志は、何んと処置してよいか? 福岡へ御|縋《すが》りするか? 幕府へ訴えて出るか、斉彬公へ仔細に言上するか?――もし、このまま捨ておいて、御出生が男子なら、牧は又、呪殺するにちがいない。然らば、牧を討つか? 然しながら、果して、牧一人討って、禍根を絶滅させうるか? 牧
前へ 次へ
全104ページ中18ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング