れから、浮世の苦労をさすってことは――俺一人の仕業でないにしても、男として、寝醒めがよくねえや。兄貴の奴あ、何うなってもいいが――うんにゃ、兄貴の野郎が何うにかなると、妹も何うにかなる――こいつあ、いけねえ。あん畜生、一人きりが、ひでえ目に逢わなくちゃ、物の理前《りめえ》が合わねえ。罪も、咎も無い、あの別嬪が、巻きぞえ食うなんて――俺《おら》あ、あの女に手を折られたのじゃねえ、だから怨みもねえのに、畜生っ――何うしてあんな別嬪の、可愛らしいのがいやがったんだろう。早く知ってたら、小藤次の告げ口だって、止められたのに――掏摸だって、庄吉あ、真直な男だ。物の理前に合わねえことはしたくねえ――)
 庄吉は、雨の中を、軒下伝いに、ぼつりぼつり歩き出した。
(少しゃあ、惚れたかな。あのくらいの女になら、惚れたって無理はねえ――然し、惚れていなくったって――こいつは、何んとか、考えんと、俺の男にかかわる。家業は巾着切でも、小藤次なんかたあ、憚りながら、人間の出来がちがうんだ)
 庄吉は、三田の薩摩屋敷の方へ、歩くともなく歩いて行った。兄妹の姿は、何処にもなかったし、人通りも少かった。庄吉は、俯向いて、片手を懐に、肩から、尻まで雨に濡れて、しおしおとした姿だった。

 火灯《ひともし》時に近くなってきた。
「仙波八郎太は、在宅か。横目付四ツ本だ」
 玄関で、大きな声がした。七瀬と、綱手とが、八郎太に不安そうな眼を交えて、立とうとした。八郎太が、眼で押えて
「わしが行く」
 すぐ立って行った。八郎太が玄関へ出ると、四ツ本の後方に、小者が四人ついていた。八郎太には、すぐ、何んのための使か判った。憤った血が、米噛でふくれ上った。八郎太は立ったままで
「何用か?」
 四ツ本は、一言の挨拶もなしに、いきなり、そういう物のいい方をした八郎太に、暫く、物もいえぬくらいに怒っていたが
「小太郎に、上を憚らざる、不届の所業があったゆえ、ただ今から、屋敷払を命ずる。すぐ立退け」
 下から、八郎太を見上げて睨んだ。八郎太は、覚悟していた。然し、こんなに早いとは思わなかった。
「それは――お上からのお沙汰か? 重役からか、それとも、貴公一人の所存からか」
「何?――」
「扶持のお召上げは、お上の心、お指図によらねばならぬし、屋敷払いに、三日の猶予を置くことも、慣わしになっておるが、今の口上は、お上から出た沙汰か――それとも、外からかと申すのだ」
「何れにてもよろしい。すぐに、退去せい」
 八郎太は、鯉口を握った。小者達が、驚愕の眼を動かした。
「聞かぬうちは――ならぬ、断《た》ってとあらば、対手するぞ」
「対手に?」
 四ツ本は、八郎太の鋭い気配に押されまいと、身構えた。
「食禄を離れた以上、貴公等一存の指図を、受ける訳がない――」
「食禄を離れた上は、指図を受けるも、受けんもあるか? ここは、島津家の御長屋だ。それに、一時たりとも、縁も、ゆかりも無い浪人者を、住まわしては置けぬ」
「こ、この、たわけっ」
 八郎太が、大声を出した。四ツ本は、すぐ、鯉口へ左手をかけた。
「横目付ともあろうものが、よくもたわけた横車を押したな。役目の表として、恥でないか、役目を汚したと判らぬか」
 八郎太は、口早に、たたみかけた。
「食禄召上げ程度の者には、三日五日の立退き期間を与えるのは、独り、御当家のみならず、天下の憤わしだ。慣わしは、これ、掟より重い。その掟を、目付風情如きが破るは、上を軽んじ――いいや、上を傷つける不忠の振舞。もし、お上の命ならば、これを止めるが道でないか? しかも、拙者は、斉彬公の直臣、一言でも、斉彬公にこの事を計って御許しでも受けたか? まさか、かかる不法の振舞を、お許しなさる公でもあるまい。又、浪人者と――いかにも、扶持離れした以上浪人だ。その浪人の拙者に、島津家が、天下の掟を破ってまでも、二度の処分をしようと申すのか。天下の慣わしを破り、浪人までも支配しようと申すのか。四ツ本、汝の支配を受ける八郎太でなくなっておるぞ。町奉行同道にて参れ」
 八郎太は、怒りに顫えて、いい終ると、自分を押えて冷笑した。

 八郎太の冷笑へ、四ツ本も、蒼白な顔の脣に、微笑をのせた。
「成る程――」
 暫く、こういったまま、黙っていてから
「この処分は、その方へではない。小太郎の不届に対して――」
「小太郎が、どこで、不届をした」
「岡田小藤次の家へ土足のまま乱入し、弟子を傷つけたのは、不届でないか? それとも、知らんとでも申すか?」
「倅から聞いた。不届千万じゃ」
「よって――」
「だ、黙れっ。いよいよもって奇怪至極。浪人者の倅の働いた狼藉を、何故、島津家からわざわざ取調べに参った? それとも、南北町奉行所から、貴公に立会えとの御通知でもあって参ったのか? 当邸内なら、いざ知らず、既に浪人した小太郎が、町家での所業を、わざわざ以て、何が故に、島津家の横目付が出かけた。三田四国町の岡田小藤次ならば、お由羅の方の兄であろう。主君の愛妾の兄の家ゆえに、町奉行の職権を犯してまでも、処置をしに参ったか? 目付とは、何んじゃ。人の不正を見て、これを正すのが役でないか? その目付が、自ら、法を枉《ま》げて、軽々しくも、辻番所へ出張するなど、近頃以て、奇怪千万。島津の目付が、町奉行の下働きになったなど、いつ頃からか、後学のために聞こう。四ツ本、いつから、町奉行の下役になった?」
 仙波の表に、二三人の人が立って、二人の高声を聞いていた。小太郎も、七瀬も、姉妹も、不安な胸の中にも、四ツ本をやり込める父の言葉を微笑しながら、聞いていた。小太郎は、四ツ本から見えるところへ、身体を出して、左手に太刀を立てて、じっとその顔を睨みつけていた。
 四ツ本は、八郎太が、こんな強硬な態度で、こんな理窟をいおうなどと、考えてもいなかった。蒼白になって、拳を顫わせていた。云い込められた口借しさに、脣が、びくぴく痙攣していた。
「よしっ――」
 四ツ本は、鋭く叫んで、身体を斜にした。そして
「道具を運び出せっ」
 と、小者の方へ、手を振って指図した。小者が一足踏み出すと、八郎太が、式台へ片足を音高く踏み下ろして、脇差へ手をかけた。小太郎が、兎のように飛び出て来て、三尺に近い刀を、どんと、式台へ轟かした。小者達は、そのまま止まってしまった。
「何うなされた」
 表に見物していた家中の一人が、入って来て、声をかけた。四ツ本は、激怒で、口が利けなかった。八郎太が
「人間、切腹の覚悟さえあれば、何も、恐ろしいものはない――叩っ斬って腹を切るまでだ」
 と、独り言のように、大きく呟いた。
「四ツ本氏」
 四ツ本は、黙っていた。
「仙波氏も、穏かになされたら――」
 と、いった時
「よしっ、人数をかりても、処置はする」
 八郎太と同じように、独りごちて、四ツ本が出て行ってしまった。小者も、すぐ、四ツ本に蹤《つ》いて出てしまった。
「馬鹿がっ」
 八郎太は、身構えを解いて、吐き出すように呟いた。

「小太郎、表を閉めて、あらましの品を、庭から、益満のところへ運んでおけ」
 八郎太は、こういって、小走りに部屋へはいると、小者に、鎧櫃《よろいびつ》の一つを背負わせ、自分もその一つを背にして、垣根から、益満の廊下へ運んだ。益満は留守らしく、勝手口から、爺が出て来て
「旦那様」
「物を運ぶから頼むぞ」
「手前も御手伝い致します」
 三人が、垣根のところへ引返すと、七瀬と、綱手とが、大きい包物を持って来た。小太郎が、仏壇を抱いて、よろめきつつ、廊下から降りて来た。深雪は、人形の箱と、位牌を持って
「危い」
 小太郎の後方で、重さによろめく小太郎の脚へ眉をひそめていた。庭の土は、雨で泥になっていた。垣根は、茂った葉で、一度跨ぐと、裾がぐしょぐしょになった。父子が、雨に打たれながら、二三度往復した時
「開けろっ」
 表が、けたたましく叩かれた。八郎太が、縁側から
「深雪、早くっ」
 と、叫んだ。深雪は、周章てて垣根に袖を引っかけながら、入って来た。
「たわけ者が又うせおった」
 と、自分も、着物の濡れたのを拭きながら、裾を、肩を気にしている娘に、小太郎に
「わしらのすることは、これからじゃで、今、何をされても、手出しをしてはならぬ」
 そう云って、小太郎を見た。小太郎は
「よくわかっております」
 戸が、苦しそうに、軋り音を立てた。御家の邸内で、厳しい用心がしてないから、すぐ、閂が外れたらしく、土間へ棒の転がる音がした。
「仙波っ――仙波」
 誰も、答えなかった。どかどかと、踏み込んで来る足音がした。玄関の襖が開いた。廊下が轟いた。次の間へ来た。襖が開かれた。
 もう、暮れかかっていて、部屋の中は、夜色が沈んでいた。庭の植込みは、すっかり暗くて、牡丹の花だけが、白く、だが、雨にうなだれていた。
 襖の後方いっぱいに、足軽が、小者が――そして、水の溢れるように、襖から入って来て、その両側へ、溢れ出て来た。四ツ本の上席にいる佐田が
「仙波、即刻に立退くか、立退かぬか、何れか、この返答だけを聞きたい」
 足軽が、棒を取り直した。
「是非もない」
 八郎太は、立上った。
「小太郎、長持を運べ――いや、待て――佐田氏、人間には足があって、すぐにも、御門前へ出られるが、この長持、諸道具と申す輩《やから》には、不憫《ふびん》ながら、足が無うて」
「道具類は、小者が持ち出そう」
 佐田は、仙波が、すぐ承知したのに、軽い失望と、大きい安心とをしながら
「諸道具類を残らず、門前へ運び出せ」
 仙波父子は、暗い廊下を、人々の中を、玄関へ出た。
「深雪、益満のところへ行っておれ、邪魔になる」
「いいえ」
 深雪は、泣声を出した。五人の足軽と、士分が一人、式台に立って、五人を看視していた。

(おや――)
 庄吉は、薄暗い、大門の軒下へ、不審そうに、眼をやった。
 仲間対手の小さい、おでんと、燗酒《かんざけ》の出店が、邸の正面へ、夕方時から出て店を張っていた。車を中心に柱を立てて、土塀から、板廂《いたびさし》を広く突き出し、雨だけは凌《しの》げた。
(お嬢さんだ――次は小太郎。ははあ、もう一人、これもいい娘だ。しめて五人、小者とで六人――この雨の中を――)
 と、思った時、辻番所で、四ツ本が
「今日のうちにも、追放する」
 と、いった言葉を思い出した。
「親爺、いくらだ」
 庄吉は、急いで、財布を出した。そして、それを口にくわえて、紐を解いていたが、じれったくなってきたので
「この中から取ってくれ」
 がちゃんと、財布を板の上へ投げ出して、門の方ばかり眺めていた。
「ええ、確かに、二十三文頂きました。お改め――旦那、お改めなすって――」
 庄吉は、返事もしないで、財布を懐へ押込んだ。六人の後方から、長持が、小箪笥が、屏風が、箱が――次々に、軒下の片隅へ、一人一人の手で、運ばれて来た。六人は、その側に立っていた。庄吉は
「有難う」
 と、いった亭主の言葉を、耳では聞いたが、何をいわれたのか判らないくらいに、軒下の人と、品物とを、凝視しながら、雨の中へ出た。小走りに、泥溝のところへ行って、夜色の中にまぎれながら、表門の出窓の下へ入った。そして、雨を避けている人のように、しゃがみ込んでしまった。
 六人は、黙って立っていた。品物が、かなり、積み重なって、小者達が、もう出入しなくなると、一人の士が、六人に
「明朝まで、ここへ、差許す。早々に処分するよう」
 庄吉の、しゃがんでいる出窓の上で、低い話声がした。
「ああまでせんでええになあ」
「別嬪《ぺっぴん》だのう。もう、明日から拝めんぞな」
「じゃあ、御供して――」
 庄吉が下から
「つかんことを、お尋ねしますが」
 窓の内部の門番は、さっと、顔を引いた。
「あの――あれは一体――御引越しかなんかで――」
 門番は、答えなかった。
(薩摩っぽうって、恐ろしい、つき合いの悪い奴ばかり揃ってやがる――手前《てめえ》に聞かねえでも、追ん出したたあちゃんとわかってるんだ。唐変木の糞門番)
 道具を運んでいた人々は、
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