、耳を立てていた。
「それに、斉興公が、このことについて、大の御立腹だから、手出ししては損じゃ。小太のところは、然し、気の毒ゆえ、餞別を集めるつもりで、実は今まで、駈けずり廻っていたのだが、小太――斉彬公のお袖にすがって、御助力を願ってみぬか、それなら、わしも――」
「断る」
小太郎は、赤くなっていた。富士春が
「何んの話か、妾には、判じられんが、休さん、折角の――」
「婆あ、黙っちょれ」
「まあ」
と、いった途端、小太郎が
「御免っ」
立上ると、益満の肩に、ぶつからんばかりにして、開けたままの格子から、出て行ってしまった。
「もし」
富士春が、素早く、格子のところへ立って、往来へ叫んだが、姿も答えも無かった。
「親爺相伝の、野暮天野郎だ。富士春――あいつを射落してみろ。男はよいし、身体はよいし、抱き甲斐があるぞ」
「情夫《まぶ》に持とうか」
益満は、上って奥へ入りながら
「よい男じゃが、下らぬことをしでかして、御払箱に、なりよった」
「浪人?」
「引取って、養ってやってくれ」
「随分――」
「では、町内会議を、開くか。お集まり、御歴々の若い衆方々、富士春が、人形を食べたいと申します」
益満が、こういって、人々の挨拶を受けながら、坐ると、源公が
「あの方には、御器量よしの妹さんがお二人あるという話じゃござんせんか」
「うむ、それで、わしらの住居を、小町長屋と申すのう」
「貴下《あなた》との御関係は?」
「わしか、わしは、御国振りで、あの小太郎が、よか雅児、二世さんじゃ」
「それに、又、何うして、ああ手強く」
「いくら可愛くとも、あいつの浪人と一緒に、食わず交際は、真平だ。この師匠なら、食わんとも可愛がるか知れんが」
「ええ、そうとも、浪人の、一人や、二人、達引《たてひ》く分にゃあ――」
「町内から、追い出してしまう」
「そんなことをいうと、ここから、追い出す」
「そいつあいけねえ」
益満は、じっと、天井を眺めていたが
「もう二三軒、餞別を集めてやろう。後刻に又――」
立上って、すぐ、表へ出てしまった。
益満の気紛れ、奔放は、十分に知っていた。然し、いざとなった時に、利欲につくのは――益満だけに、許しておけなかった。
小太郎は怒りに顫えながら、不信の態度に歯噛みしながら、富士春のところを飛び出して来たが、ふと、佇むと
(引返して斬り捨ててやろうか)
と、思った。
重い空から、小雨が降りかけてきた。往来の人々は、小太郎に、気もかけず、急ぎ足に、小走りに――すぐ、ちらちら、傘をさす人さえ見えてきた。
小太郎は、歩いているのか、走っているのか、わからなかった。頭の底に、重い怒りが、沈んで燃えていた。血管の中の血までが、怒っていた。その時
[#天から3字下げ]可愛や、あの子は、浪人かあ
大きい声であった。浪人と、いう言葉が、その怒っている頭を、針のように突き刺した。小太郎が振向いて、声のした家を、睨むと
[#天から3字下げ]不憫や、明日から、野伏《のぶせ》りかあ
二人の職人が、家の中の板の間へ坐って、雨の降ってくる往来を見ながら、小太郎の振向いた顔へ、にやっと笑った。
独り言だろう、と、思っていたのが、自分への当てつけらしいので
「何?」
と、小声で、叫んで、立止まった。職人が、それに応じて
「何んでえ」
職人のからかいとしては、余りに乱暴な態度であった。小太郎は、一足踏み出したが、すぐ
(たわけた――)
と、思い直して、歩もうとすると
「馬鹿野郎っ、素浪人の、痩浪人、口惜しかったら出て来いっ」
二人の職人は、腕捲りをして入口まで出て来た。小太郎は、怒りの中から、二人の不審な態度に、疑いを抱いて
(此奴ら、何処の、誰か――)
店をじっと見ると、顔の色が変った。
(小藤次の家だ)
手が、脚が、顫えてきた。
(この職人づれまでに、もう、浪人になったことが判っている以上、小藤次の指金――それは、お由羅の指金――)
そう思うと、小藤次が何っかの蔭から、冷笑しているように感じた。こういう侮辱を受けて、そのまま、通りすぎることは、出来なかった。小太郎は、脇差を押えて、小走りに、その家の軒下に走りよった。職人が
「やあい」
と、叫んで、一二間、板の間を逃げ込んだ。小太郎が、入口に立って
「出ろっ」
と、叫ぶと、別の声で
「出てやろう。へへ、お主ゃあ、俺を見忘れたか。手首を、折られの与三郎だあ」
口で、おどけながら、凄い目をして、両手を懐に、木屑、材木の積んであるところから立上ったのは、掏摸の庄吉であった。
「うぬは、おれの仕事を叩っき折りゃがったが、うぬも、明日から日干しの蛙だ。はいつくばって、ぎゃあと鳴け。頭から、小便ぐれえ引っかけてやらあ」
「何っ」
「何は、難波の船饅頭」
庄吉は、ぺろりと舌を出して、眼を剥いた。小太郎は、憤怒に逆上した。
「たわけっ」
下駄のまま、板敷へ、どんと、片脚踏み込んで、側の木片を握った時
「小太郎っ」
障子が開いて、小藤次が、次の間から板の間へ飛び降りた。小太郎は、木片をもったまま
「不埓なっ、通るを見かけての罵詈雑言《ぼりぞうごん》、勘弁ならぬ――」
「馬鹿っ」
一人の職人が、木片を、かちんと叩いて
「東西東西、この場の模様は、いかがに相成りまするか」
「えへん」
一人が、空咳をした時、小太郎は後方に人の動きを感じた。振向くか、向かぬかに、跳りかかる一人の男と、その手に閃く棒とを見た。その瞬間、小太郎は、反射的に、身体を伏せたし、小太郎の手は、平素の修練で、咄嗟《とっさ》に、延びていた。男が
(しまった)
と、よろめき、小太郎が、腕に、重みを感じた時
「ええいっ」
小太郎自身が叫ぶよりも、腕が、咽喉に叫ばしたのだった。男がよろめいて、前へのめる力を、そのまま引いて、さっと、太腿を払った引倒しの一手。どどっ、板の間に、壁に、天井に響いて、男はうつ伏せに、倒れてしまった。棒が、からんからんと、板敷へ音立てて転がった。小太郎は蒼白《まっさお》な顔をして、突立った。
「やいっ、仙波っ、小倅」
小藤次は、刀へ手をかけて怒鳴った。
「うぬは、もう、素浪人だぞっ。土足のまま人の家へ入《へえ》りゃあがって、この泥棒め。勝手に、人の宅へ入りゃあ、引っ捕えて、自身番へ渡されるのを知らねえか。この野郎」
小太郎は、前から企んでいた計《はかりごと》だと感じた。
(いけない、長居しては――)
一人を叩きつけたので、いくらか、胸が納まった。
板の間へ叩きつけられた男は、起き上らなかった。小太郎が、出ようとすると
「殺しゃあがったなっ――人殺し」
と、一人が叫んだ。
「えらい血だ」
「医者っ」
「役人を呼んで来いっ」
「逃すな」
奥からも、向い側からも、人が走り出して来た。
抱き上げられた男は、口から血を流していたし、鼻血で、頬も、額も染まっていた。眼を閉じて、唸っていた。何を叫んでも、返事しなかった。
「人殺しだっ」
往来の人々が叫んだ。雨の中を近所の人々が、傘もささずに駈けつけた。そして、小太郎を恐ろしそうに避けて、板の間へ集まった。庄吉は懐手のままで、微笑して立っていた。小太郎は、動くことができなかった。
「除けっ、除けっ」
その声と共に一
「御役人だ」
と、人々が、呟いた。
小太郎は[#「小太郎は」は底本では「小太部は」]、立っている大地が、崩れて、暗い穴の中へ陥って行くように、絶望を感じた。だが
(取乱してはいけない)
と――父のこと、母のことよりも先に、武士として立派な態度をとりたいと感じた。
「何うした」
自身番に居合せた小役人は、小藤次と顔馴染であった。小太郎を、じろっと見たまま、職人にこう聞いた。
「そいつが、常を殺しゃあがったので」
役人は、小太郎に
「何れの御家中で――」
「薩藩――」
と、口に出して、黙ってしまった。その途端
「薩藩? 巫山戯《ふざけ》るねえ。得体の知れねえ馬の骨のくせに、薩藩? 一昨日《おととい》来やがれ、この乞食侍」
庄吉が怒鳴った。小藤次が
「昨日までは、俺んとこの下っ端だったが、不都合をしゃあがって、お払箱になった代物だ。一つ、しょっ引いて行ってくれ。人の骨を折ったり、殺したり、近所へ置いとくと、危くっていけねえ」
役人は、小太郎の手を握って
「とにかく、番所まで――」
抵抗したとて、素性の知れた身として無駄であった。だんだん多くなってくる群集に、見られたくもなかった。
小太郎は、無言で、役人と肩を並べて歩き出した。群集が、左右へ分れた。
雨は少し烈しくなって来て、道が泥濘《ぬかる》んできた。小太郎は、いつの間にか、跣足《はだし》になっていた。髪が乱れていた。頭から、びたびたかかる雨の中を、人々の眼を、四方から受けて、自身番の方へ、引かれて行った。
「常っ」
「うむ」
「死んじゃいねえや」
「ぺっ」
常公は、唾を吐いた
「こいつ、物を云ゃあがる。死んだんじゃあねえや、やいっ、しっかりしろ」
「しっかりしてらあ。ああびっくりした。眼から火が出るって、本当に出るもんだのう」
常公が起き上った。
「俺《おいら》あ、殺されると、思ったよ。死んだ振りを、していたが」
「こん畜生っ、びっくりさせやあがって」
「あれっ、前歯が折れてやがらあ」
常は、指を口の中へ突込んだ。小藤次が
「よかった。仙波の小倅め、しおしおと引かれて行きあがって、いい気味だ。庄っ、溜飲が下っただろう」
「溜飲は下ったが、常公、睾丸《きんたま》がちぢみ上っちまったぞ。血だらけの面をして、眼を剥きあがって」
人々が、笑いかけた時、表口に集まっている人々の背へ、眼をくれながら、益満休之助が、傘を傾けて、急ぎ脚に、通って行った。
玄関脇の部屋で、又蔵が、古着屋を相手に、いくらかでも高く売ろうと、押問答をしていた。
綱手と、深雪とが、七瀬が、旅着と、その着更のほか、白無垢まで持ち出してしまったので、新調の振袖も、総|刺繍《ぬい》の打掛も、京染の帯も、惜しんでおれなかった。
「これは、二度着たっきり――」
綱手は、甚三紅《じんざべに》の絞りになった着物を、肩へ当てて、妹に見せた。深雪は、涙ぐみながら、大久保小紋の正月着、浮織の帯、小太夫鹿子の長襦袢、朧染の振袖と、つづらから出して、積み上げた。
七瀬は、夫の着物を出して、えり分けた。八郎太は「道中細見」の折本を披げて、大阪までの日数、入費などを、書き込んでいた。
「十五両? 馬鹿申せっ、人の足許へ付け込んで。この素ちょろこ町人め。又蔵、日影町へ一っ走りして、もそっと人間らしいのを五六人呼んで来い。わしが売ってやる」
益満が、大きい声を出していた。そして、荒い足音がすると
「小太っ、怒ったか」
と、怒鳴って、襖が開いた。
「おお、益満」
「これは」
益満が、御辞儀をした。
「小太郎は?」
「足下《そっか》を探しに参ったが――」
「はて――」
益満は、坐って
「そこの遊芸師匠の家で――丁度小藤次の若い奴がおりましたので、小父貴だの、小太郎を毒づいて、お由羅の耳まで入るよう、一寸、小刀細工をしたが、小太め、本気にとりましての、かんかんになって駈け出して行ったが、戻らないとは」
「たのみがあるが――」
「何を――」
「暫く、深雪はあずかってもらいたい」
「そして、小父上は?」
「妻に、調所のもとを調べさせ、わしは、牧の在所《ありか》を突き止め――」
「御尤もながら、今度のことは、一人二人の手で、何んとも仕様のないことで、証拠も握れましょうし、陰謀の形跡も、調べてわからぬこともないが、さて、何うそれを処分するか? もしこれに、斉興公が御同意なら、取りも直さず、斉彬公のために、その父君を、罪に処すことになる。同志の苦慮するところはここで――」
益満は、声をひそめた。
「万一の時には、久光殿を――」
指を立てて、斬る真似をした。
「禍根は、ここにござりましょう」
八郎太は、返事をしないで、益満の顔を眺めていた。
「極秘、未だ同志にも語りませぬが、久光様の
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