座の中へ、八郎太が、低いが、強い声を、響かせた。斉興は、湯を一口飲んで、首を延して、名越の背後をのぞき込みながら
「おのれは、何んじゃ」
 小藤次が
「裁許掛見習、仙波八郎太と申します」
「これっ――裁許掛を勤める程のものなれば、濫りに、奥へ忍び込んだ罪ぐらいは、存じておろう――」
「恐れながら――」
「黙れっ――直々の差出口、誰が、許したっ。不届者。軽輩の分際として、老職へ、強談するのか、身に――身に――」
 斉興が、興奮した手から、湯を溢《こぼ》そうとするのを、由羅が、手を添えて
「将曹――二人を退げてたもれ」
「退れっ」
 斉興が、八郎太の方を睨んだ。
「御身体に障ります」
 お由羅が、人々を叱るように叫んだ。仙波が
「八郎太」
 と、口早にいって、目を配せた。八郎太が、平伏した。そして、一膝退ると、斉興が
「閉門しておれ、閉門」
 と、叫んだ。小藤次が俯向いて、にゃっと笑った。

  父子双禍

 目付、洞川右膳と、添役、宝沢茂衛門とは、沈んだ顔付をして、八郎太の手もとを見ていた。八郎太は、赤い顔をして、墨を磨りながら、御仕舞に連署している三人の名――島津将曹、伊集院|平《たいら》、仲吉利へ、押えきれない憎しみと、怒りとを感じていた。手先の顫うのを二人に見せまいと、気を静めながら、左の隅へ、自分の名を書いた。その奉書の右の方には
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其方不埓儀|有之《これあり》、食禄を召上げ、暇被下《いとまくださる》者也、月日、承之《これをうけたまわる》」
[#ここで字下げ終わり]
 それから、その三人の名が、書いてあるのであった。八郎太が、受書をして、二人の前へ差出すと、一見してから、洞川が
「それで――」
 と、一寸、いい淀んで
「三日の内に、退転されるよう」
「三日?」
「左様」
 八郎太の顔は、怒りで、だんだん赤くなってきた。
「承知仕りました。御苦労に存じます」
 洞川は、宝沢に合図して、立上った。次の間で、小太郎が、玄関の供へ
「お立ち」
 と、叫んだ。八郎太は、坐ったまま、見送りに立とうともしなかった。
 小太郎の手柄も、八郎太の訴えたことも、総て逆転して来た。多少の咎めは覚悟していたが、追放とまでは考えなかったし、三日限りで、出て行けというのも、情け容赦のないきびしさであった。
 重豪公の放漫から、七八年前まで、藩財窮乏のために、知行の渡らないことさえあった。それに裁許掛見習などの役は、余分の実入《みいり》とて無かったから、御暇が出れば、すぐにも困る家であった。
「七瀬――皆も参れ」
 次の間で、行末の不安に、おののいていた七瀬らが入って来た。
「聞いたであろう」
「はい」
「何れにせよ、別れる運命になった――国許へ戻ってもらいたい。それに就いて、一つ頼みがあるが、益満の申す如く、元兇|調所《ずしょ》を、一つ、さぐって欲しい」
「はい」
「わしは、名越殿と談合の上、お国許の方々と策応して、小太郎と共に手段をめぐらそうが、或いは、これが一生の別れになるかもしれぬ」
 二人の娘は、俯向いた。深雪は、もう、袖を眼へ当てていた。
「すぐ召使の者に手当して取らせい。目ぼしいものは売却して――小太郎、益満を呼んで参れ。ひっそりしているから、留守かも知れぬが、何処にいるか、心当りを存じているか?」
「存じております」
「深雪、何を泣く。女は女として、又一分の勤めがある。泣くようでは、父の子でないぞっ。泣くなっ」
 廊下へ集まっているらしい三人の召使の一人が、すすり泣いた。七瀬は、ふらふらしそうな頭で――だが、元気よく
「綱手、門前の道具屋へ、深雪は、古着屋を呼んで来てたも」
「私がついでに」
 と、小太郎が立上った。八郎太は、もう手箱から、不用の文書を破り棄てにかかっていた。

「お父様、妾にも、何か御用を仰せつけ下さいませ」
 涙曇りの声だ。八郎太は、手箱から出てくる文書の始末をつづけながら、黙っていた。
「何んなことでも致します。何んな、辛い辛抱でも致します」
 八郎太は、手をついている深雪の眼の涙を、いじらしそうに見た。深雪は、湧いてくる涙を、睫毛で押えつつ
「お父様、決して、御手纏いにはなりませぬから――」
「お前は、江戸へ残って――」
「ええ? 江戸へ残って――お父様、残って? 一人で残るのでございましょうか」
「話をよく聞かずに、何んじゃ。そんなことで手助けができるか」
「いいえ、お父様、妾一人残りましても、御申し付けのことは仕遂げます」
 八郎太は、うつむいている綱手に
「綱手、お前は、母について国許へ参るがよい」
「はい」
「生れて三歳までしか居らなんだから、国と申しても、何んの憶えもあるまいが――よいところじゃ。お前の生れた家も、母の家も、親類達も、皆そこにある」
「幾日ぐらいかかりましょうか」
「道程《みちのり》は、ざっと三百八十里、女の足で二月はかかろうか」
「まあ、三百八十里?」
 綱手も、深雪も、安達ヶ原の鬼の話や、胡麻の蠅のことや、悪い雲助のことや、果のない野原、知らぬ道の夜、険しい山などを、いろいろと、心細く、悲しく、想像した。
「母と二人で行けるか?」
「ええ、参ります。そして、妹は?」
「深雪には、深雪の役がある」
「何んな役? お父様」
 七瀬が、襖を開けた。召使が、膝を揃えて平伏した。
「お暇乞に」
 七瀬が、そういって、中へ入ると、小者の又蔵が
「いいえ、お暇乞でござりませぬ。ただ今、この御手当を頂きましたが、これは、御返し申します」
 又蔵は、金包の紙を、敷居の中へ押しやった。
「六年と申せば、短いようで長い――お嬢様が、十二三から、こんなに御成長遊ばしますまで、ええ、その長い間、何うか、よいところへ御縁のきまるを見てと、それを楽しみに――何も、今更になって、手当だの、暇だのと、それは一期、半期の奉公人のことで、手前は、憚りながら、坊ちゃんに、剣術を教えて頂きますのも、こんな時に、又蔵、こうこうこういう訳だが、どう思う、と、旦那様、一言ぐらい仰しゃって下さっても――」
 又蔵の涙声が、だんだん顫えて来た。
「い、いきなり、手当をやるから、出て行けって――」
「又蔵、よくわかった。忝ない。然し、明日から雇人を置く身分ではなくなるのじゃ」
「さあ、旦那、そこで――手前は、や、雇人じゃござんせん。何故、主従は三世の、家来にして下さいません。死ねと仰しゃれば死にます。出て行けと仰しゃれば――そいつだけは、御勘弁を――」

「うめえことを、云やがったのう。古人って奴は」
 富士春の坐っている長火鉢の、前と、横にいる若衆の中の一人が、小藤次の家にいる源公の顔を見て、大声を出した。
「何が?――途方もねえ吠え方をして、何を感ずりゃあがった」
「そら、千字文の初めに、天地玄黄、とあらあな。源公」
「何を云やあがる、そりゃ、論語の初めだあな」
「糞くらえ、論語の初まりは山高きが故に尊からずだあ」
「無学文盲は困るて。それは、大学、喜句《きく》の章だ」
「喜句の章じゃあねえ、団子の性だ。団子の性なら転げて来い、師匠の性なら、金持って来い」
「おやっ、もう一度唄って御覧な」
 富士春は、口で笑って、眼で睨んだ。一人が
「東西東西、それで、天地玄黄が、何うしたえ」
「天地玄黄の、玄の字は、黒いって字さあね。それ、千年前に、源公は、色が黒いって、古人って奴が、ちゃあんと、物の本に書き残してあるんだ。豪気なもんじゃあねえか」
「成る程、それで感ずりましましたか」
「へへへ、雀ら、嫉《そね》め嫉め、師匠の側にくっついてるから羨ましいのだろうよ。もそっと、くっつくか」
 源公は、富士春の方へ、身体を寄せた。白粉と、舞台油の匂が、微かに、源公の血の中へ流れ込んだ。
「色が黒いって、福の神は、大黒天って、こら、三助。色の白い福の神があるか? 師匠のような別嬪《ぺっぴん》は、玄人って云わあ。未だあるぞ、九郎判官義経って、源頼光さんの弟だ」
「大伴の黒主ってねえ、源さん」
「師匠っ、上出来っ。天下を睨む、大伴の」
「九郎助」
「稲荷大明神」
「こんこんちきな、こんちきな」
「置きあがれ、馬鹿野郎――おやおや、喋ってる間に、定公め、一人で、煎餅を食っちまゃあがった」
「手前の洒落《しゃれ》より、煎餅の方がうめえ」
 格子の開く音がして
「頼もう」
 若い侍の声であった。それに応じて、富士春が
「はい」
 と、店の間をすかして見た。若い衆が
「暫く、士連中の弟子入りが無かったが――」
 と、呟きつつ、御神燈の下を眺めた。
「おやっ」
 富士春は、裾を押えて立上った。二三人が、押えている裾のところをちらっと見た。倹約令が出て、いくらか衰えたが、前幅を狭く仕立てて、歩くと、居くずれると、膝から内らまで見えるのが、こうした女の風俗であった。そして、富士春は、今でも、内股まで、化粧をしている女であった。
「暫く」
 と、小太郎の前に立った富士春は、紅縮緬《べにちりめん》の裏を媚《なま》めかしく返した胸のところへ、わざと手を差入れて、胸の白さを、剥き出しにしていた。

「益満は?」
「休さん?」
 富士春は、こう云っておいて、すぐ
「もう見える筈――お上んなさいましな」
 小太郎は、土間へ眼を落したままで
「間もなくで、ござろうか」
「今しがた、南玉先生も、お尋ねに見えて、いつも、もう見える時分、町内の御若衆ばかりゆえ、御遠慮はござんせん」
 源公は、小太郎をじっと眺めていたが
「不憫や、この子も」
 と、大声に云って
「素浪人」
 と、小太郎に、聞えないように、小さく呟いた。そして
「お上んなせえまし」
「おもしろい方ばかりで――」
「暫時《ざんじ》、では、ここにて、待ちましょう」
 小太郎は、上り口へ、腰をかけた。
「そこは――」
 富士春は、両膝をついていたが、こう云うと、片膝を立てた。乱れた裾から、白い肌、紅縮緬が、小太郎の顔を、赤くさせた。富士春は、小太郎の耳朶の赤くなったのに、微笑して
「では、こちらへ」
 小太郎の、腰かけている後方から、小太郎の後方の格子の前に重ねてある座蒲団を取るために、手を、身体を延すはずみ、左手を、軽く、小太郎の腰へ当てて
「少し手が――憚りさま」
 ぐっと、小太郎の背中へ、身体を押しつけて、届かぬ手を、延していた。小太郎は、周章てて、身体を引きながら、素早く、横にある蒲団をとった。
「えへん、えへん、えへん」
 一人の若いのが
「きゅっ――きゅっ」
 と、大きい声を出した。源公が、出し抜けに
「浪人って、いいものだのう」
「芝居で見ても、小意気なもんだ」
「然し、扶持離れになると――」
 小太郎が、じっと、その方を見た。自分へ当てつけているような感じがして、腹が立ってきた。
「源さん、憚りさま、お湯を一つ」
「へいへい、一つと仰しゃらず、二つお揃いで、持参致します。憚りさまやら、茶ばかりさん」
 源公が、湯呑を二つ両手にもって、店の間へ出た。そして
「へへへへ、何《ど》うぞ」
 小太郎は、何っかで見た顔だと思った。そして、考えると、すぐ、いつか、掏摸の手首を折った時、正面に、鋸を持って、喚いていた男だと思った。
(浪人、扶拝離れ)
 と、いう言葉は、十分に意味がある、小藤次から聞いたのであろう――と思うと、怒りで、頭が濁って来た。張りつめて来た。途端、荒い足音が、近づいて、手荒く格子が開いた。
「おやっ」
 益満が、土間へ入ると、小太郎を見て、すぐ、源公へ、じろっと眼をやった。そして
「富士春、罪なことをするなよ」
 と、笑った。

「仙波、今聞いた、御暇だとのう」
「それについて、父が、何か智慧を借りたいことがあるらしいが、同道してくれんか」
 益満は、土間に立ったままで、腕を組んだが
「断ろう」
 小太郎が、眼を険しくして、立上った。
「何故」
「何故か?――わしらの見込みがちがうらしい。名越にも今逢うたが――陰謀などと跡方も無いことじゃ」
 富士春が
「休さん、話なら、ゆっくりと上って」
 源公は、じっと聞いていたが、立上って、奥へ入った。だが、敷居際で、じっと
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