ら聞えたのか、頭の中で、そういう声が、したのか、判らなかった。
(誰であろうと、何ういうことであろうと、自分の此世における仕事は果てた。果した。斉彬――兵道の敵斉彬は、滅んでしまったのだ。斉彬も、その子も――兵道を呪咀した血は、これで、悉く絶えてしまったのだ――知ったであろう、兵道の威力を――)
牧は、笑えぬまでに、固くひからびた頬に微笑した。
「立て、牧、仙波八郎太の倅じゃ――立て、牧」
(仙波?――八郎太?)
牧の頭は、急速度に、疲弊してきた。肉体の衰亡が、一時に拡がってきた。仙波、と聞いても、記憶が、すぐ、口には、出て来なかった。
何かが、首を、身体を、ぐいぐい引上げるようであった。牧は、土のついた、濁り、淀んだ、黒灰色の顔を上げた。そして、残りの力を瞳に集め、手に集めて、手を膝へ置き、上の方を見た。
「仙波小太郎じゃ。立上れるか?」
牧は、いつの間にか、だんだん光を失って、空虚になってきた眼で、じっと、小太郎を凝視していたが
「おお」
それは、ほんの脣の端から出た、微かな響きであった。微かに脣の動いた微笑であった。
「討つがよい」
と、いいたかったが、討つ、ということが、何ういうことか、討たれるとは何か――自分も、小太郎も、頭の中で、もう判断が、つかなくなってしまった。
身体が、地の下へ、急に落ちて行くようにも、感じるし、空中に、浮き上って行くようにも思えるし、赤い強い光が、眼の前いっぱいになったかと思うと、すぐ、暗黒になるし、物音は、何も聞えないし――何かが、身体に触れるようにも感じたが――その次の瞬間には、総ての感覚を、なくしてしまっていた。
小太郎は、血のついた刀を、提げたまま、じっと、牧の身体を、見つめていた。
(これが、牧仲太郎か――わしの一家を苦しめた、牧の最期か?)
斑点が――紫色の斑点が、どす黒い肌の上へ現れて、肉が落ち、髪は枯草のように――何んの抵抗力もなく――それは、老いた乞食が、野垂死をするように――その光った眼は物乞いの憐愍《れんびん》さのような微笑さえして――その死体は、白痴のように、口を開いて――
(これが、父を殺し、一家を離散させた奴の最期か)
小太郎は、牧の首を斬り、止めを刺し、蹴倒し、踏み躙って――と、思っていたが、ここに倒れている牧仲太郎は、漂泊の末に死んで行く、老人の残骸と同じ形であった。
(この男を斬るために、二年近く、様々の苦労をして――)
と、思うと、仇敵とも、敵とも、感じようのない、みじめな牧の骸《むくろ》の前に立って、何んのために――何うして、ああまで一家が、苦労したのか、判らなくなってしまった。
(これが、わしの、一生の目当としていた仇討か――これが――)
小太郎は、夕陽の当っている牧の骸を、じっと見たが、そこには、大きい空虚があるだけで、何んの憎さも、何んの怨みも、感じることができなかった。
(せめて、一太刀でも、合せたなら――)
小太郎は、父が、物足りなく感じているであろうと思い、母が、何故もっと早く斬らなかったと、怨んでいるように思ったが
(そうだ、叡山でのあの時に――牧は、わしを救ってくれた――それは、父も知っていよう――牧は、悪人ではない、兵道家として、道を踏外しただけだ――悪人でない。決してない。わしが牧なら、矢張りこうなったかもしれぬ)
小太郎は、刀を、草の上に置いて、牧の顔の前に膝をついた。そして、合掌して、称名《しょうみょう》した。
夕陽が、大阪の先へ落ちようとして、海も、空も、真赤に――だが、山の上の雲の下だけは、牧の顔のように、どす黒い色をして、ひろがっていた。
小太郎は、脇差を抜いて、牧の頸の下へ差込んだ。そして、膝で、肩口を押え、左手で、髻を掴んで、ぐっと、引上げた。草へ、音を立ててかかるべき血が、切口から力なく流れただけであった。だが、切り放たれた重い頭は、小太郎の手から、落ちようとした。
(わしの仕事は、これで済んだ。然し、これが、わしの仕事であったのかしら?――こういう仕事が――)
益満の言葉が、頭の中いっぱいになって来た。小太郎は、牧の片袖を切裂いて、首を包んだ。自分の刀を、脇差を拭って、収めた。そして、立上ると、山内の倒れているところへ行って、その袴を脱せた。それを、持って戻って来て、牧の首の切口へ被せ、手を、足を、包んで、もう一度、合掌した。
何かしら、自分の身体の中いっぱいになっていたものが、訳もなく、張合もなく、すっと、抜け出てしまったように感じた。頭の中も、身体の中も、空虚になってしまった。
小太郎は、首を、脇にかかえて、立上った。下の方に、警固の侍が、まだ刀を持ったまま、呆然として立っていた。
「牧を、手厚く、葬ってやってもらいたい」
小太郎は、こう叫ぶと、何故か――それは目的を果た
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