したことに対する嬉しさの涙であると共に、牧への手向けの涙でもあったか――薄い憐れさが、湧いて来て、涙が浮んだ。だが
(これから、斉彬公のために尽すのだ――こうして――牧を討ってしまえば、哲丸様も、島津も、安泰だ。益満は待っておろう――妹よ、これで、仙波の家は立派に立つぞ。牧の首は、ここにある。家中の正義派は、斉彬公のために、何んなに、己をほめてくれるか?――一刻も早く、京都へ、京都へ)
小太郎は、夕陽の落ちて行く空の中を、走り出した。京都の方角の山々は、暗くなりかけていた。
馬の蹄の音が、人々も、梢も、小鳥も、沈黙している山荘の中へ、微かに、響いて来た。人々は、その蹄の音の、あわただしさに、一寸、心臓を押されたが、吉之助も、その外の人々も、俯向いているだけであった。然し、心の中では
(何かの異変であろうかな、今時分、あの、けたたましさは?)
と、感じた。だが、今まで、吉之助が、一蔵が、話をし、説いてきた斉彬の言葉に対し、何うもいいようのない人々は、自分の命にかけて、起そうと意気込んで来たことが、斉彬の、その一言で、空に帰したがために、頭の中が、抜殻のように――
(只事の馬ではない)
と、感じても、立とうとも、思わなかった。
(何うにでもなるがいい)
と、いうような気持さえ持って、黙ったまま、坐ったままでいた。門が、軋った。すぐ、廊下へ、足音が、響いてきた。見張の者が、すぐ通した人なら、大したことではない――
(誰であろう?――何をしに)
と、人々が、振向いたり、感じたりした時
「吉之助、吉之助、居るかっ」
それは、西郷吉兵衛の声であった。
「居ります」
廊下の板戸が、開くと、吉兵衛が、鞭を持って
「お上が、お危い。お前、お庭先へ廻って、お暇乞いせいと、今、石見様から、お使が見えた。馬ですぐ――」
と、いって、鞭を出した。又、馬の蹄の音が――門で、誰かの叫びが――
「一蔵っ」
「岩下様、旦那様っ――」
座敷中の人々は、一斉に、顔色を変えて立上った。吉之助は、真赤な顔をして
「皆つづけ」
と、叫ぶと、廊下を走り出した。
「火急の用事でござります。樺山様っ」
門前から、庭から、人々を呼ぶ声が、起ってきた。人々は、刀を、周章てて、争って、取ると、誰も、眼を光らせて、誰も、怒ったように沈黙して、狭い廊下から、襖を叩き開けて、庭へ飛び降りて、走り出した。
「南無、維新公、この大難を、免れさせ給え」
と、叫んで、一人の青年は、庭で跪《ひざまず》いて、祈った。
吉之助が、門へ出ると、もう、五六頭の馬が、集まっていた。
小者も、馬丁も、ただ、目礼をしただけで、口さえ利かなかった。吉之助は、馬に跨がると
「一蔵、は、早くつづけっ」
と、叫んで、すぐ、走り出した。鞍に左手をかけ、手綱と共に、鬣《たてがみ》を引っ掴んで
(某の、到着致しますまでは――)
と、絶叫した。今朝、拝謁した時の斉彬の顔が、姿が、部屋が、庭が、いろいろの声と共に、頭の中に閃滅《せんめつ》しつつ、廻転した。ただ、呼吸もできぬような、切迫したものが、頭の中いっぱいになっていて、馬に乗っていることも、自分の身体も、感じなかった。
町へ出ると、町は、何事も知らぬように、静かに、通行の人々は、吉之助の馬の勢いに、走り、避け、見送っているだけであった。
何処を走っているのか? 何処へ行くのかも感じなかった。ただ
(もう、すぐだ)
と、思いつつ、明るい海の光っている、澄んだ空からさす陽の下の町を、絶望と、暗黒の心、固くなって、顫えている胸を抱いて、走って行った。
城へ近づくと、然し、徒歩で、馬で、人々は、急いでいた。吉之助は
(亡くなすものか――亡くなっては、いけませぬぞ――亡くなしてみるがいい)
と、歯噛みしながら――自分が、庭へ行けば、きっと、お癒ししてみせる、と云ったような意気込みで、走って行った。
もう、一族の人々は、集まりかけていて、御病床は、それらの人々の後姿で、いっぱいであった。
吉之助は、はだしのまま入って来て、後向きの人々の肩の、頭の間から、ちらっと見える、座の人々の憂色を見ると、脣を噛んで、庭先へ、坐ってしまった。
自分の息づかいも、汗も、小石に痛む膝も、暮れかかろうとする空の明るさも、何も、感じなかった。坐ると同時に、涙で、眼も、心も、曇ってしまった。
(いけないらしい)
と、部屋の、沈欝さから感じると、空も、地も、国中の人々も、天下の誰も、この人の死に対して、首をたれているような感じがして来て、ただ、じっと、冥福を祈っているより外に、何も考えることのできない、悲しみに満ちた心に、頭になってしまった。
部屋にいる人々で、庭の方に坐っている人が、左右へ開いた。斉彬の顔が、暗い部屋の中に朧気に見えた。誰かが、斉彬が、
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