南国太平記
直木三十五

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)樵夫《きこり》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)紺|脚絆《きゃはん》だ。

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]
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  呪殺変

 高い、梢の若葉は、早朝の微風と、和やかな陽光とを、健康そうに喜んでいたが、鬱々とした大木、老樹の下蔭は、薄暗くて、密生した灌木と、雑草とが、未だ濡れていた。
 樵夫《きこり》、猟師でさえ、時々にしか通らない細い径《みち》は、草の中から、ほんの少しのあか土を見せているだけで、両側から、枝が、草が、人の胸へまでも、頭へまでも、からかいかかるくらいに延びていた。
 その細径の、灌木の上へ、草の上へ、陣笠を、肩を、見せたり、隠したりしながら、二人の人が、登って行った。陣笠は、裏金だから士分であろう。前へ行くその人は、六十近い、白髯《しらひげ》の人で、後方《うしろ》のは供人であろうか? 肩から紐で、木箱を腰に垂れていた。二人とも、白い下着の上に黄麻を重ね、裾を端折《はしょ》って、紺|脚絆《きゃはん》だ。
 老人は、長い杖で左右の草を、掻き分けたり、たたいたり、撫でたり、供の人も、同じように、草の中を注意しながら、登って行った。
 老人は、島津家の兵道家、加治木玄白斎《かじきげんぱくさい》で、供は、その高弟の和田仁十郎だ。博士|王仁《わに》がもたらした「軍勝図」が大江家から、源家へ伝えられたが、それを秘伝しているのが、源家の末の島津家で、玄白斎は、その秘法を会得している人であった。
 口伝《くでん》玄秘《げんぴ》の術として、明らかになっていないが、医術と、祈祷《きとう》とを基礎とした呪詛《じゅそ》、調伏《ちょうぶく》術の一種であった。だから、その修道《すどう》者として、薬学の心得のあった玄白斎は、島津|重豪《しげひで》が、薬草園を開き、蘭法医戸塚静海を、藩医員として迎え、ヨーンストンの「阿蘭陀本草和解」、「薬海鏡原」などが訳されるようになると、薬草に興味をもっていて、隠居をしてから五六年、初夏から秋へかけて、いつも山野へ分け入っていた。
 行手の草が揺らいで、足音がした。玄白斎は、杖を止めて立止まった。仁十郎も、警戒した。現れたのは猟師で、鉄砲を引きずるように持ち、小脇に、重そうな獲物を抱えていた。猟師が二人を見て、ちらっと上げた眼は、赤くて、悲しそうだった。そして、小脇の獣には首が無かった。疵口には、血が赤黒く凝固し、毛も血で固まっていた。猟師は、一寸立止まって、二人に道を譲って、御叩頭《おじぎ》をした。玄白斎は、その首のない獣と、猟師の眼とに、不審を感じて
「それは?」
 と、聞いた。猟師は、伏目で、悲しそうに獣を眺めてから
「わしの犬でがすよ」
「犬が――何んとして、首が無いのか?」
 猟師は、草叢《くさむら》へ鉄砲を下ろして、その側《かたわら》へ首の切取られた犬を置いた。犬は、脚を縮めて、ミイラの如くかたくなってころがった。疵は頸にだけでなく、胸まで切裂かれてあった。
「どこの奴だか、ひどいことをするでねえか、御侍様、昨夜方《ゆうべがた》、そこの岩んとこで、焚火する奴があっての、こいつが見つけて吠えて行ったまま戻って来ねえで――」
 猟師は、うつむいて涙声になった。
「長い間、忠義にしてくれた犬だもんだから、庭へでも埋めてやりてえと、こうして持って戻りますところだよ」
 玄白斎は、じっと、犬を眺めていたが
「よく、葬ってやるがよい」
 玄白斎は、仁十郎に目配せして、また、草叢をたたきながら歩き出した。
「気をつけて行かっし――天狗様かも知れねえ」
 猟師は、草の中に手をついて、二人に、御叩頭をした。

 細径は、急ではないが、登りになった。玄白斎は、うつむいて、杖を力に――だが、目だけは、左右の草叢に、そそがれていた。小一町登ると、左手に蒼空が、果てし無く拡がって、杉の老幹が矗々《すくすく》と聳えていた。そこは狭いが、平地があって、谷間へ突出した岩が、うずくまっていた。
 大きく呼吸《いき》をして、玄白斎は、腰を延すと、杉の間から、藍碧に開展している鹿児島湾へ、微笑して
「よい景色だ」
 と、岩へ近づいた。そして、海を見てから、岩へ眼を落すと、すぐ、微笑を消して、岩と、岩の周囲を眺め廻した。
「焚火を、しよりましたのう」
 仁十郎が、こういったのに答えないで、岩の下に落ちている焚木の片《きれ》を拾う。
「和田――乳木であろう」
 と、差出した。和田は手にとって、すぐ
「桑でございますな」
 乳木とは、折って乳液の出る、桑とか、柏とかを兵道家
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