の方で称するのであった。
 玄白斎は、岩へ、顔を押当てるようにして、岩から、何かの匂を嗅いでいたが
「和田、嗅いでみい」
 仁十郎は、身体を岩の上へ曲げて、暫く、鼻を押しつけていたが
「蘇合香?」
 と、玄白斎へ、振向いた。玄白斎は、ちがった方向の岩上を、指でこすって、指を鼻へ当てて
「竜脳の香《におい》もする」
 和田は、すぐ、その方へ廻って鼻をつけて
「そう、竜脳」
 と、答えた。
「これは、塩だ」
 玄白斎は、白い粉を、岩の上へ、指先でこすりつけていた。仁十郎は、谷間へのぞんだ方の岩の下をのぞいていたが、急に、身体を曲げて、手を延した。そして、何かをつまみ上げて、玄白斎へ示しながら
「先生、蛇の皮が――」
 と、大きい声をした。玄白斎は、険しい眼をして
「人髪は?」
 仁十郎は、あたりを探して
「髪の毛はないか」
 二人は、向き合って、暫くだまっていた。玄白斎は、焚火をしたため、黒く焼けている岩肌を眺めていたが
「和田、この岩の形は?」
「岩の形?」
「鈞召《きんしょう》金剛炉に似ているであろうがな」
 和田は、ちらっと岩を見て、すぐ、その眼を玄白斎へ向けて
「似ております」
 と、答えた。
「牧は、江戸へ上《のぼ》ったのう」
「はい」
 玄白斎は、眼を閉じて、暫く考えていたが
「阿毘遮魯迦《あびしゃろか》法によって、忿怒※[#「諂のつくり+炎」、第3水準1−87−64]曼徳迦《ふんぬえんまんとくか》明王を祭った、人命調伏じゃ。この法を知る者は、牧の外にない」
 呟くようにいったが、その眼は、和田を、鋭く睨んでいた。和田は、自分がとがめられているように感じて、面を伏せると
「この品々を、拾って――」
 玄白斎は、岩の上の木片、蛇皮を頤《あご》で差した。和田が拾っていると
「他言無用だぞ」
 と、やさしくいった。その途端――下の方で、それは、人の声とも思えぬような凄い悲鳴が起ってすぐ止んだ。

 二人も、ちらっと、眼を合せて、すぐ、全身を耳にして、もう一度聞こうとした。何んのための叫びか、もう一度聞えたなら、判断しようとした。暫く、黙って突立っていた二人は、もう一度眼を合せると、和田が
「斬られた声でしょうな」
 玄白斎は、答えないで、下の方へ歩き出した。
「四辺《あたり》に気を配って――油断してはならん」
 玄白斎は、脚下《あしもと》の岩角を、たどたど踏みつつ、和田に注意した。
「今のは猟師でしょうか」
「そうかも知れぬ」
 二人の脚音と、衣ずれの外、何んの物音もない深山であった。あんな大きい、凄い悲鳴が起ろうとは、神も思えないくらいに、静かであった。
 二人は、声がしたらしいと考えた場所へ近づくと、歩みを止めて、四方を眺めた。そして、小声で玄白斎が
「この辺と思うが――」
 と、振返ると
「探しましょう」
 和田は、肩から掛けていた薬草の採取箱を卸《おろ》そうとした。
「下手人が、未だ、うろついておろうもしれぬ。用心して――」
 和田の置いた箱のところへ杖を立てて、玄白斎は、草のそよぎ、梢の風にも、注意した。和田は、杖で草を、枝を分けながら、薄暗い木《こ》の下蔭へ入って行った。玄白斎は
「径から、余り遠いところではあるまい」
 と、背後《うしろ》から、声をかけた。和田は、小径を中心に、左右の草叢へ、森の中へ、出たり、入ったりしていたが、暫く、身体《からだ》が見えなくなると
「先生、先刻の猟師です」
 落ちついた大声が、小半町先の草の中から起った。そして草を揺がして、陣笠が、肩が――和田が、小走りに戻って来た。
 二人が、小径から覗くと、背の着物だけが少し見えていた。近づくと、虫が、飛び立った。死体は草の間にうつ伏せになって、木《こ》の間《ま》からの陽光《ひかり》が斑に当っていた。
 着物が肩から背へかけて切裂かれて、疵口が、惨《むご》たらしく、赤黒い口を開けていた。肉が、左右へ縮んでしまって、肩の骨が白く見えていた。着物も、頸も、下の草も、赤黒く染まって、疵口には虻《あぶ》が止まって動かなかった。
「犬に、鉄砲は?」
 玄白斎は、髻《もとどり》と、頤とを掴んで、猟師の顔を検《あらた》めてから、立上って、和田にいった。
「径から、ここへ逃げ込んだのだから――」
 和田は、径の方を見て、二三歩行くと
「この辺に――」
 と、呟いて、左右の草叢を、杖で、掻き分けた。
 玄白斎は、杖の先で、着物を押し拡げ、疵口を眺めて、血糊を杖の先につけていた。和田が
「見つかりました」
 と、径に近い草の中から、こっちを見た。
「血が、十分に凝固《かたま》っていぬところを見ると、斬って間も無いが――一刀で、往生しとる。余程の手利きらしい」
 玄白斎は、独り言のように、和田を見ながら呟いて、和田が
「下手人は、未だ遠くへ走っておりますまい、探
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