しましょうかの」
 と、いうと
「見つけたとて、捕えられる対手ではあるまい」
 そういった玄白斎の眼は、脣《くちびる》は、決心と、判断とに、鋭く輝き、結ばれていた。

 島津家に伝えられている呪詛《じゅそ》の術は、治国平天下への一秘法であって、大悲、大慈の仏心によるものであった。私怨を以《もっ》て、一人、二人の人を殺す調伏は、呪道の邪道であり、効験の無いものである。仮《たと》えば、一人の敵将を呪い殺すということは、正義の味方を勝たしめることで――それは、一国一藩が救われ、ひいては天下のためになることで――つまり、小の虫を殺して、大の虫を助ける、というのが、調伏の根本精神であった。
 だから、術者は、外に憤怒の形を作り、残虐な生犠《いけにえ》を神仏に供し、自分の命をさえ、仏に捧げて祈りはしたが、それは、その調伏を成就して、多数の人々が幸福になれば、生犠は仏に化すという決心と信念とからであった。
 そして、その信念は、完全に、精神を昂揚し、普通の精神活動以上の不思議さを、常に示した。それは、小さい怨みとか、怒りでは到達のできない信念で、正義に立たなければ現れないものであった。
 そうして、加治木玄白斎にしても、代々の兵道家にしても、長い、大きい、深い、苦痛と、修練をして、その秘術を会得するのであったから、その智慧、知識、人格から見ても、一人の人に私怨をもって、調伏を行うような愚かな人間ではなかった。そんな人間では、修行のしきれる呪術ではなかった。
「薬草取りは?」
 玄白斎が、戻り道の方へ歩きかけたので、和田が、こう声をかけると
「止めた――戻ろう」
 と、玄白斎は答えて、もう、左右の草叢へは、何んの注意もしないで、うつむき勝ちに、足早に歩き出した。和田は玄白斎の心がわからないらしく、忠実に、草の中の薬草の有無を、杖の先で探しながら、黙ってついて行った。
 だんだん木が疎《まばら》になって、木床《きどこ》峠へ出る往来が近くなった。右手の前方に、桜島が、朗らかな初夏の空に、ゆるやかに煙をあげていた。
「仁十」
「はい」
 玄白斎は、こういったまま、また、暫く黙っていた。
「先生――何か?」
「ふむ――事によると、のう」
 何を考えているのか、玄白斎は、なかなか語り出さなかった。
「何か、大事でも――」
「うむ、容易ならぬ企てがあると、わしは思うが」
 と、いって、突然、振向いて
「近々に、牧に逢ったかの」
「一向に――」
「噂をきかぬか」
「ただ、江戸へ参られました、と、それだけより存じません」
 牧仲太郎とは、玄白斎の後継者で、牧に職を譲って、玄白斎は、隠居をしているのであった。
「もしか、牧が――」
 玄白斎が、呟いた。
「牧どんが?」
「いいや――」
 玄白斎は、首を振って
「今日のことは、和田、極秘じゃ」
 街道へ出てからも、玄白斎は、考えながら歩いているらしく、いつものように、左を見、右を見しなかった。和田は、大抵の雨にも、雪にも、薬草採りをやめない老師が、急に帰るのを考えると、何か、大変なことが起っているように感じられた。

(牧より外に、あの秘法を行う人間はない筈だ――牧の仕業としたなら――何んのために――誰《たれ》を――)
 玄白斎は、険路も、汗も感じないで、考えつづけた。
(もし、自分の考えが、当っていたとしたなら――島津家の興廃にかかわる――)
 玄白斎の考えは、次のようなことであった。
 当主|斉興《なりおき》の祖父、島津重豪は、英傑にちがいなかった。彼は、シーボルトが来ると、第一に訪問した。それから、大崎村に薬園を作ったし、演武館、造士館、医学院、臨時館の設立、それによって、南国|片僻《へんぺき》の鹿児島が、どんなに進歩したか?
 彼自らは「琉球産物誌」「南山俗語考」「成形図説」を著し、洋学者を招聘し、鹿児島の文化に、新彩を放たしめたが、然し、それは悉《ことごと》く、多大に金のかかることであった。
 また重豪は、御国風の蛮風を嫌って、鹿児島に遊廓を開き、吉原の大門を、模倣して立てた。洋館を作った。洋物を買った。そうして、最後に、彼の手元には、小判はおろか、二朱金一つしかないことさえできるようにもなってしまった。
 士《さむらい》は、鍔《つば》を売り、女は、簪《かんざし》を売って献金し、十三ヶ月に渡って、食禄が頂戴できないまでに窮乏してしまった。そして、彼は隠居をした。
 次代の斉宣《なりのぶ》も、士分も、人民も、この重豪の舶来好みによって、苦難したことを忘れることができなかった。だから、斉宣は、秩父太郎|季保《すえやす》を登用して、極端な緊縮政策を行った。然し隠居をしても、濶達な重豪は、自分に面当《つらあて》のようなこの政策に、激怒した。そして直ちに、秩父を切腹させ、斉宣を隠居させ、斉興を当主に立てた。
 斉
前へ 次へ
全260ページ中3ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング