興は、茶坊主笑悦を、調所《ずしよ》笑左衛門と改名させて登用し、彼の献策によって、黒砂糖の専売、琉球を介しての密貿易《みつがい》を行って、極度の藩財の疲弊を、あざやかに回復させた。
 然し積極政策では、重豪と同じ斉興ではあったが、大の攘夷派で、従って極端な洋学嫌いであった。尊王派の頭領として、家来が
「西の丸、御炎上致しました」
 と、いった時
「馬鹿っ、炎上とは、御所か、伊勢神宮の火事を申すのだ。ただ、焼けたと申せ」
 と、怒鳴る人であった。家来が恐縮しながら
「就きまして、何かお見舞献上を――」
「献上? 献上とは、京都御所への言葉だ。未だ判らぬか、此奴。何んでもよい、見舞をくれてやれ」
 ペルリが来た時、江戸中は、避難の荷物を造って騒いだ。その時、三田の薩摩邸は、徹宵、能楽の鼓を打っていた。翌日、門に大きい膏薬《こうやく》が貼ってあるので、剥がすと、黒々と「天下の大出来物」と書いてあった。
 斉彬《なりあきら》は、この父の子であった。だが、幼少から重豪に育てられて、洋学好みの上に、開国論者であった。そして、自然の情として、父斉興とは、親しみが淡《うす》かった。その上に、幕府は、斉彬を登用して、対外問題に当らせようとして、斉興の隠居を望んでいた。斉興が斉彬をよく思わないのは、当然である。
 そして、斉興も、家中の人々も、斉彬が当主になっては、また、重豪の轍を踏むであろうと、憂慮した。木曾川治水の怨みを幕府へもっている人々は、幕府が、斉彬を利用して、折角の金をまた使わせるのだとも考えた。
 そうして、斉彬の生母は死し、斉興の愛するお由羅《ゆら》が、その寵《ちよう》を一身に集めていた。そして、お由羅の生んだ久光は、聡明な子の上に、斉興の手元で育てられた。
(斉彬を廃して、久光を立つべし)
 それは、斉彬の近侍の外、薩藩大半の人々の輿論《よろん》であった。玄白斎は考えた。
(斉彬を調伏して、藩を救う――然し――)
 老人は、山路を、黙々として、麓へ急いだ。

 黙々として歩いていた玄白斎が、突然
「和田」
 と、呼んで立止まった。和田が、解《げ》しかねる玄白斎の態度を、いろいろに考えていた時であったから、ぎょっとして
「はい」
 と、周章《あわ》てて、返事して、玄白斎の眼を見ると
「その辺に、馬があるか、探してのう」
 こういいながら、腰の袋から、銭を出して
「一《ひと》っ走《ぱし》り、急いで戻ってくれぬか」
 和田は、何か玄白斎が、非常の事を考えているにちがいない、と思うと、ほんの少しでもいいから、それが、何《ど》んなことだか、知りたかった。それさえ判れば、自分にも多少の智慧もあり、判断もつくと思った。それで
「御用向は?」
「千田、中村、斎木、貴島、この四人の在否を聞いてもらいたい――居ったら、それでよい。もし居らなんだ節は――」
 玄白斎は、髯をしごきながら
「何時頃から居らぬか?――何処へ行ったか? 誰と行ったか?――それから、便りの有無――よいか、何時、誰と、何処へ行ったか? 便りがあったと申したなら、何時、何処から、と、これだけのことを聞いて――」
 玄白斎は、小首を傾けて、まだ何か考えていたが
「一人も、もし、居らなんだなら、高木へ廻って、高木を邸へ呼んでおけ。それから」
 玄白斎は、和田の眼をじっと見ながら
「何気なく、遊びに行ったという風で、聞きに行かんといかん」
 玄白斎は、こういって、静かに左右を見た。そして、低い声で
「牧は斉彬公を調伏しておろうも知れぬ」
 和田は、口の中で、はっといったまま、うなずいた。
「わしの推察が当って、もし、貴島、斎木らが四人ともおらなかったなら、一刻も猶予ならん。すぐに延命の修法《ずほう》だ」
「はい」
「斉彬公の御所業の善悪はとにかく、臣として君を呪殺することは、兵道家として、不逞、不忠の極じゃ。君の悪業を諫めるには、別に道がある。もし、牧が、軍勝の秘呪をもって、君を調伏しておるとすれば、許してはおけぬし、左《さ》はなくとも、秘法を行っている上は、何んのために行っておるか、聞きたださぬと、わしの手落になる」
 和田は、玄白斎の考えていたことが、すっかり判った。そして、判った以上、すぐに、命ぜられた役を、出来るだけ早く果したいと、気が、急《せ》いてきた。それで、大きく、幾度もうなずいて
「それでは、一走りして。谷山には、馬がござりましょうから――」
「わしも急ぐ――」
 和田は、木箱を押えて
「お先きに」
 と、いうと
「箱を――」
 と、玄白斎は、手を出した。
「はっ――恐れ入ります」
 和田は、急いで採取箱を肩から卸して、手渡すと、一礼して走り出した。土煙が、和田と一緒に走り出した。

 芝野の百姓小屋が、点々として見えてきた。和田仁十郎は、肌着をべっとりと背へくっつけ、汗
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