を拭き拭き、小走りに
(馬――馬)
 と、思いながら、馬の動きを、馬の影を求めていた。一刻も早く急ぎたかったし、暑かったし、心臓も、呼吸も、足も
(早く、馬を)
 と、求めていた。土埃《つちぼこり》が、額へまで、こびりついた。
「この辺に馬がないか」
 雑貨を売る店へ怒鳴って立止まった。
「馬?」
 と、店先にいた汚い女が、首を振って
「谷山まで、ござらっしゃらぬと、この辺には、無いですよ」
「済まぬが、水を一杯」
 仁十郎は、肩で呼吸をしながら、ようようこれだけいった。
「水なら――たんと――」
 女は、薄暗い勝手から、桶をさげて来た。和田の前へ置いて、容器を取りに入った。和田は、身体を曲げると手で掬って、つづけざまに飲んだ。女が、茶碗を持って、小走りに来ると
「忝《かたじけ》ない」
 と、投げつけるようにいって、もう、灼《あつ》い陽の下へ出ていた。
 暑い、この頃の陽の下を旅する人は少いから、戻り馬も通らなかった。和田は、俯向いて、口を開きながら、眉を歪めて、苦しそうに、小走りに走りつづけた。谷山の村へ入って、茶店へ来たが、いつも、茶店の脇の、大きい欅《けやき》の木の下に、一二疋ずついる馬が、一疋も見えないので、欅の下蔭は、淋しかった。
(出払いかしら)
 と、思うと、失望と、怒りを感じて
「婆《ばあ》さん」
 と、茶店の奥へ怒鳴った。
「馬は?」
「馬かえ」
 婆《ばば》は、いつも、馬のいるところに、影が無いから、聞かずともわかっていそうなものだ、というような態度で
「居りましねえが」
「馬子は?」
「馬子も、居りましねえ」
 和田は、この婆が、意地悪く、馬を皆、隠したように感じた。
「急用だに――」
「そのうちに、戻りましょう」
 和田は、渇と、疲れに耐えられなくなって、腰をかけた。
「水を一杯」
「水は悪うござるよ。熱い茶の方が――」
「水でよい」
 竈《かまど》のところから、爺《じじ》が、顔を出して
「つい、今し方まで、四五疋遊んでおりましたがのう。御武家が四人、急ぐからと――つい今し方、乗って行かっしゃりましたよ。ほんの一足ちがいで、旦那様」
「何処かに、爺《じい》――野良馬でも、工面つくまいか」
「さあ――婆さん、松のところの馬は、走るかのう」
 和田は
(走らぬ馬があるか、気の長い)
 と、じりじりしてきた。

 人通りの無い、灼熱した街道に、鉄蹄をかつかつ反響させて、小走りに馬が、近づいて来た。誰か、乗っているにちがいなかったが、和田は、町人か、百姓なら、話をして、借りて行こうと、疲れた腰を上げて、葭簾《よしず》の外へ、一歩出た。
「先生」
 玄白斎が、木箱をがたがたさせながら、半分裸の馬子を、馬側に走らせて、近づいて来た。
「馬がないか」
「一疋も、ござりませぬ」
「馬子」
 馬子は、呼吸を切らして、玄白斎を、見上げただけであった[#「あった」は底本では「あつた」]。
「もう一疋、都合つかぬか」
 馬も、馬子も、茶店の前で止まった。馬子は、胸を、顔を、忙がしく拭いて
「爺さん。四疋とも、行ったかえ」
「四疋とも、行ったよ」
「旦那、ここには、四疋しか居りませんのでのう」
 和田は、馬側へ近づいて
「一足ちがいで、家中の者が、四人で――」
 と、まで云うと、
「今か――」
 玄白斎が、大きい声をして、和田を、鋭く見た。和田は、玄白斎のそうした眼を見ると同時に
(そうだ。猟師を殺して、一足ちがいに)
 そう感じると、すぐ
「爺――その内の一人に、背の高い、禿げ上った額の、年齢三十七八の侍は居らなんだかの」
 玄白斎は、手綱を控えたまま、茶店を覗き込んでいた。
「額の禿げ上った、背の高い?――婆さん、あの長い刀の御武家の背が、高かったのう」
「一番えらいらしい――」
 婆は、首を振って、仁十郎を、じっと見て
「けれど、四十を越していなさったが――」
 玄白斎が
「その外のは、三十前後ではなかったか?」
「はい、お一人だけは、二十八九――」
「それは、少し、太った――」
「はいはい、小肥りの、愛嬌のある――」
 玄白斎は
「馬子っ」
 と、叫んだ。馬子は
「へっ」
 と、返事をして、茶店の中から、周章てて飛び出した。
「それが取計う」
 玄白斎は、和田を、顎《あご》でさした。そして、和田へ
「馬子に手当してやれ。わしは、彼奴を追うから、都合して、すぐ、続け」
 半分は、馬が、歩み出してからであった。馬子が
「旦那っ」
 と、叫んで、馬の口を取ろうとするのを、和田が、引戻した。玄白斎は、手綱を捌いて、馬を走らしかけた。
「いけねえ、旦那っ」
「手当は、取らすと申すに」
 和田は、力任せに、馬子の腕を引いた。

 人々の立去った足音、最後の衣ずれが、聞えなくなった瞬間――邸が、部屋が、急に、しいーんとした。
 それは
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