ぬことに対して、ただ、もがくより外にない自分に対して、怒りを感じた。
「呼べ」
「はい」
 久光は、一人の医者に、眼配せをした。そして
「只今」
 と、云った。医者が立って行くと、すぐ、将曹、豊後、平、側用人種子島六郎、島津石見が、入って来た。久光が
「一同、御前に」
 と、云った。斉彬は、眼を閉じたまま、低い声で
「わしの亡き後は、久光――忠義(久光の子)に相続させい。お前が、後見――」
 久光は、腹の中へ、熱い鉄を当てられたように感じた。
「いいえ、哲丸が――」
 と、云いたかったが、死んだ哲丸を――今、死んだ、と聞いた哲丸を、偽って、相続にとは、云えなかったし、哲丸が死んだということも、この死に瀕《ひん》している斉彬に、云えることではなかったし――が、黙っている訳には行かぬと思うと、腹が、胸が、悲しさに固くなって、痛みをさえ感じてきた。石見が、久光の顔を、じっと見ていたが、そっと、袖を引いた。それは
(何んとか、返事を――)
 と、いう合図であった。久光は、こうした最後の時にまでなって、猶、お由羅にいいよう、斉興にいいよう――己の子の哲丸がいるのに、それを犠牲にして忠義を立てよという斉彬の心に対して――斉彬に、謝するよりも――お由羅の陰謀を、悉く知っていて、猶、父のために、島津のために、平安なれと、祈っている斉彬の心へ、泣いて謝するよりも、こうした斉彬の心事を、何一つ察しないで、事ごとに斉彬を苦しめてきた父母に対し、将曹等に対し、押えきれぬ激怒が湧き上ってきた。そして、自分が、その斉興に愛せられ、お由羅に寵愛《ちょうあい》せられているかと思うと、この兄の前に――兄の死の前に、父母に代って、何う詫びていいか、何んと云っていいか――久光は、身体を固くして、俯向いていたが、肩を動かし、眼へ手をやると同時に、声を立てて、打伏してしまった。

「何を泣く」
 斉彬が、呟いた。人々が、久光を、のぞき込んだ。久光は、洩れる声を、歯で、袖でつつみながら――それでも、溢れて来る悲しさと、憤りを、何うすることも出来ないで、むせていた。
「久光」
 久光は、伏している袖の中から
「はい」
 と、答えた。人々は、何故久光が、泣いたのか判らなかった。それから、斉彬の病気の重いことは、十分感じていたが
(今、死ぬなど――)
 と――だから、久光の、嗚咽《おえつ》に対し反感さえ感じながら
(何を泣く?)
 と、思った。斉彬が、動かぬ頭を、久光の方へ向けて
「お前に、それが、合点行かぬか――」
 と、低く云って、久光を、眼の隅から見ようとした。久光は、少し、頭を上げて、だが、両手をついたまま、首垂れていた。
「わしは、自分を、子供を、天下のために、家のために、犠牲にしてきた。それは――ただ、島津が一致して、天下のために、快く、働けるようになってくれたならよいという、ただそれだけの望みからであった。今――哲丸が立てば、わしの亡き後、必ず、哲丸を守る者と、それに反対する者とが、相争うであろう。それをさせたくない。それが起れば、島津は、有為の士を悉く失い、天下は、何うなるか、判らぬようになる――」
 久光は、頭を上げて、夜具の端を、掴んだ。そうして
「兄上」
 と、曇った声で叫んだ。
「お心は、そ、そのお心、久光――よく、お察し申しております」
 斉彬は、頷いた。微かに、その眼に涙が浮んでいた。
「判ってくれるか」
「わ、判っております、お察し申します」
 斉彬は、顫える手を、夜具の中で延して、久光の手を握った。久光は、熱のある人の手を掴むと、涙で、顔が上げられなくなってきた。
「哲丸は――」
 と、斉彬が、呟くと共に、久光は、脣を噛んで、俯向いた。
「哲丸を――頼む」
「は、はい」
「将曹達はおるか」
「はっ」
「何事も、島津のため、天下のためとおもえ。軽輩を慈しめ。忠義をよく守立て、久光をよく輔佐せい」
 将曹は、膝の上へ、涙を落していた。斉彬の最後の時として、人間の最後の時として、当然、一言でも、陰謀に対する憤りが、怨みが、せめて、皮肉な言葉であろうと――己の陰謀の成就を喜びながらも、人の死に面して、異常な仁慈の心の主君の死に対して、平静な、厳粛な心に立返っていた将曹は、そうした一つの、皮肉さえなしに、自分に対して、後事を頼み、感謝の言葉を述べた斉彬に、腹の底からの畏敬と、後悔とを感じていた。
「わしの臨終に、間に合うように、あの若者共を、庭先へ、呼んでやってくれい」
「はっ。よ、喜びましょう」
 と、石見が、低く叫んで、勢いよく立って行った。歩きながら、眼を拭いていた。誰も、斉彬が、最後の一人の子供をまで、家のために、父のために犠牲にする心に、打ちくだかれてしまっていた。袖を当てたり、鼻をすすったり、しゃくり上げたり――そうして
(このまま、お逝くな
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