ると
「ほ、本当か」
「唯今、江戸表から――」
 と、云って、老臣は、咳を立てまいと、廊下へ伏して、袖の中へ、顔を包んだ。久光は、身体を、その肩へ曲げて、耳許へ
「他言致すな。秘めての」
 と、いうと、蒼白な顔をして、立上った。
 案内の坊主が、同じように、歩き出した。
「他言すな。すると捨ておかんぞ」
 と、久光は、小声で、口早に、坊主に云った。

 次の間へ入ると、薄暗い中に、将曹と、平とが、坊主だの、近習だのと一緒に、詰めていた。久光の影に振向いて、頭を下げ、眼を上げたそれらへ、久光は、蹴倒し、踏みにじりたいような、怒りとも、憎しみとも、判らぬものを感じながら、その眼を睨みつけて、病間へ入ろうとした。将曹が、周章てて立って来るのへ、烈しく手を振って、制した。そして、病間へ入ると――其処に立っている屏風、煎薬の臭、恐ろしいような沈黙――それから、夜具の端、そんなものが、悉く、久光の心に、身体に、冷たいものを、押しつけた。
 一足進めると、医師の顔が――それは、久光でさえ、病の障りになる、とでも云ったような烈しい眼をして――だが、お叩頭をした。二足目には、もう一人の医師の顔が――その顔は、自分が死病に罹ったように、沈鬱で、久光が、そうさせたかのように、恨めしそうな表情をして、挨拶した。久光は、その二人の医師の表情に
(兄は危いらしい)
 と、感じた。
(もし、危いと、きまっていたなら――)
 久光は、もう一足進んで、兄の顔を見るのが、自分の死よりも辛いように、心臓をしめつけられた。だが、その次の瞬間
(よかった)
 と、感じた。三足目に久光の眼に入った斉彬は、眠っているらしく、いつもの、穏かな顔――少しの窶《やつ》れもなく、苦しみもなく眼を閉じていた。だが、三人の医者の顔が、身動きもせずに、見守っているのを見ると、その平和な顔が、却って、薄気味悪く感じられた。
(もし、このまま逝ってしまったなら、何うなるのだ)
 久光は、喘いでくる心臓を、呼吸を、押えて、斉彬の枕頭へ坐った。そして、四人とも、暫く黙っていた。
「重いのか」
 低く、囁いた。
「はい」
「病名は?」
「それが――申訳ござりませぬが、判りかねております」
 久光は、お由羅の行っているという、呪殺の効験を信じなかったが、三人の、和洋医術に秀でた医者が、判らないというのを聞くと、ふっと
(牧の呪い)
 と、感じたり
(兄のような人物は、病まで、常人でない病に罹る)
 と、感じたり――だが、判らない、と聞くと、諦めきれぬような気がして、三人へ、腹が立ってきた。そして
「修業の足りないせいだ」
 と、云いたかったが、そうもいえないで
「判らぬ?――」
 と、低く、咎めた。
「お譫言《うわごと》が、時々、おうなされ遊ばすことが、時々――」
「うなされる?」
「はい」
 久光は、斉彬程の人物が、うなされるとは信じられなかった。
(哲丸が、死んだというが――あの、死んだ子供達と同じ病ではないのか? 最後の子供を殺して、それから、斉彬公の――)
 ふと、そう感じたが、斉彬の理化学に影響されている久光にとって、それは、愚かな閃きであると、すぐ打消されるべきことであった。医者が、手と、身体を動かして、斉彬の方へ顔を差出した。斉彬の眼が、瞼毛《まつげ》が、微かに動いたらしかった。久光は、心の中で
(兄上)
 と、叫んだ。
(久光が参っております)
 久光は、息をつめて、斉彬の顔へ、見入った。

 斉彬は、眼を上げたが、物を云わなかった。久光は、その眼の光の鈍さに、心臓を冷たい手で掴まれた。
「如何でござります」
 斉彬は、それに答えないで、もう一度、眼を閉じた。久光は
(苦しいのだろう?)
 と、自分の健康な体力を、兄へ透《とお》そうとでもするように、膝に、身体に、力を入れて
「さすりでも――」
 と、まで云った時、斉彬は、顔を歪めて、肩で、大きい息をした。三人の医者が、全身の神経を、斉彬の顔へ集めて、のぞき込んでいた。斉彬は、二三度、大きく呼吸をしてから、眼を開いた。
「如何でござります」
「久光」
 喘ぐような声であった。
「回復は――到底、難かしい」
 その声の中には、斉彬の、死の覚悟が、瞭乎《はっきり》としていたし、死の影さえ、含まれているように感じられるものであった。
「いいえ、左様な――」
「一同を呼べ」
「はい」
 久光は、そう云われて、すぐ立つことは、自分までが、斉彬の死を肯定しているようで、立てなかった。だが、常の人に、気安めをいうように、この兄に対して、ありふれた慰めの言葉も、かけられなかった。
 ただ、絶望と、憤りとで、自分のこうして坐っている脚下の砂が、だんだん谷底へ、崩れ落ちて行くように感じた。何んにも、縋るべきものがなかった――ただ一つ縋っている、斉彬が死
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