せたくてかなわぬらしいが)
 牧が、そう思って、扇を使っているところへ
「御免」
 と、廊下で、声がして
「お一人かの」
 と、部屋の中を覗き込みながら、京都藩邸の用人が、入って来た。江阪という六十近い老人であった。女が、すぐ、小走りに、蒲団を持って来た。
「京都は、暑いて」
 と、呟いて、額を拭いて、老人は、縁側へ、座蒲団を持って行った。そして
「江戸から、早馬が参って――」
 と、庭を見ながら
「いよいよ斉彬公、御相続と、決まりましたが、それに就て――」
 老人は、扇を、閉じて、牧の方へ向き直った。牧が、
「ははあ」
 と、頷いた。
「万一、貴殿に、不慮のことでもあってはと、一党心ならずの心痛で、暫く、何れへか、身を――」
「忝のうござる」
 牧は、冷やかに答えた。そして、
(昨日まで、斉興に忠義立てして、当主が代ると、又、斉彬の味方になる――頼むまじき人心)
 と、思った。
「当地へも、大分、国許の若い者が入込んで、これが又、刀を抜きたい連中のみで、ござってのう」
「左様」
「物騒な世の中になりましたわい。わしらの若い時、三十年が程は、静かすぎるくらい、静かであったが、近頃は、公卿衆までが、先立って、お騒ぎになるようになりましたのう」
「左様」
 牧は、己の信じる兵道などが、若い人々に、一顧もされず、若い人々が、悉く、斉彬の西洋学文に傾くのを見て、憤りと共に、呪い心になっていた。
(善にもあれ、悪にもあれ、己一人は、所信を貫こう。お由羅が、将曹が、よし、斉彬の方へ変更《へんが》えしようとも、己一人は、兵道の威力をもって、斉彬の化学を破って見せよう。物理、計数の上に立つ力が強いか、人間の霊妙心が強いか――斉彬を呪殺することは、よし、島津に対して不忠にもせよ、霊妙心の、不可思議を、天下に示すことは、兵道家としての務めであり、天下のためでもある。まして、謂わんや、斉興公への忠義になることを――この老人は、体よく、わしに、退去を願いに来たのであろうが、云われずとも、この炎暑の天に、諸天を迎えて祈ることは、何時よりも効験の著しいことだ――かかろう)
 牧は、
「明日、早々に、山へ籠ることに仕《つかまつ》ろう[#「仕《つかまつ》ろう」は底本では「仕《つかま》ろう」]」
「いや、そうせかずとも――」
 と、江阪は、外を眺めていた。
 牧は、指を繰っていた。そして
「斎宮合致の刻」
 と、呟いた。

「御存じかな」
 老人が、呟いて、
「聞かれましたかな」
 と、振向いた。そして、膝を、牧に向けて
「御子息の」
 と、顔を見た。牧は、眼を閉じて、何か考え込んでいた。
「御子息の――」
「倅の?」
「百城とか申される――」
「それが?」
「いや、未だ、お耳に入っておりませんとなれば、一大事」
 牧は、それでも、眼を閉じたきりであった。
「何んと、御挨拶申し上げてよいか――」
 老人は、そう云ったのに、未だ眼を開かぬ牧に、物足りなさを、感じながら、
(これだけ云えば、判りそうなものであるのに――そして、判ったなら、せめて眼だけぐらいは開くのが人の情であるのに――)
 と、思った。そして
「実に、御愁傷なことで――御子息が、先日、不慮の死を遂げられたよし、聞き及んでおりますが――」
 老人は、何処まで云えば、眼を開くか、意地のようなものが、出てきた。
「ははあ」
 牧は、そういって、眼を開いた。だが、瞳にも、眉にも、脣にも、何んの動きも、現れもなかった。
(勘ちがいではあるまいか)
 と、老人は、思った。そして
「この奥の叡山で、その百城――様かな――御子息が、町人に手傷を受けて、それが因《もと》で亡くなられたと、山でえらい評判が、京へも聞えておりますが、貴殿の、御子息に、間違いなしとしたなら、詮議もせにゃならず、始末も、せにゃならず、それで、参ったのでござるがな。一つ、所司代へ訴え出て、その手からも探索させ、又、当方からも、手をつくして――」
「御好意は、忝のうござるが、御打ち捨ておき下さるよう――」
「然し、余のこととちがい――御遠慮には、及ばん。その町人を――」
「町人に手傷を受けた不出来者などは、子でござらん」
「御尤もながら、そりゃ、貴殿の御気性として、さもあるべきところでは、ござれど、親の情として――」
「お断り申す」
 牧は、鋭く云った。そして、つっと立上ると、次の間を抜けて、廊下へ出て、手を叩いた。老人は、じろっと、その後姿を、睨みつけていたが
「それでは――牧殿」
 と、声をかけた。牧は、廊下へ立ったまま、出て来た女中に
「山内が、その辺に居らぬか、お捜し下さるよう」
 女中が、去ると
「牧殿、これへ、御手当金を、置いておきますぞ」
 と、云って、金包を出して、畳へ置いて、押えつけた。そして
「どれ――どれ」
 と、呟いて、
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