、女中に取らせながら、次の間の近習に
「渡来物の、氷砂糖があったの」
 と、いった。
「はっ」
 近習が、襖のところで、手をついた。斉彬は、褥の上へ、坐って
「それを、白金へ、御見舞に持って参れ。そして、父上の御機嫌を伺って参れ」
「はっ」
 近習が、襖の蔭へ身体を引くと、廊下の方で
「久光様、お渡りでござります」
 と、いう声がした。
「ああ」
 斉彬は、そう云って、眼を閉じて、肩で、大きい呼吸をした。女が、褥を持って来て、つつましく、斉彬の前へ敷いた。そして、暫くすると、足音がして、久光が、現れた。
「お疲れでござりましょう」
「うむ」
 斉彬は、未だ、眼を閉じたままであった。坊主が、入って来て
「お薬湯」
 と、云って、斉彬の膝のところへ、薬湯を置いて行った。斉彬は、眼を開いて、久光を見て
「何か、珍しい話はないか」
 と、聞いて、薬湯へ、手をかけた。
「兄上の、御発明の、あの日の丸の総船印が、日本の総船印として、定められたそうで、ござりませぬか」
「うむ」
「日章旗と、名づけて」
「ふむ」
 久光は、世継が、今日、殿中で決まったのに、いつもより、憂鬱な顔をしている斉彬の態度に、不安な影がさしてきた。
(何うしたのか――)
 と、感じながら、又、何かしら、自分の判らないことを考えて、沈んでいるのではなかろうかと、思うと、濫りに、口へ出して、聞けないような気がした。だが、斉彬が、薬湯を飲み終ると
「首尾、如何で、ござりました」
 と、口を切った。
「断れぬことゆえ、お受けはしたが――父上のことを思うと、気がふさいでならぬ」
 久光は、はっとした。自分が、無理に、斉興にすすめて、隠居願を書かせたことなど、斉彬に知れては、何う叱られるか、知れぬと思った。
「誰がすすめたものか――」
 斉彬は、湯呑の中の、薬湯を、じっと眺めながら
「父上は、未だ、隠居をなさるお心持は、無いに――誰が、おすすめ申したのか――」
 久光は、自分の兄に対する唯一の好意が、兄を怒らせ、兄を苦しめていそうなので、不安に脈打つ胸を押えて、俯向いていた。
「わしは、富国強兵の策として、理化学の外にないと信じているが、これを行うと、父上の御意にもとる――もとるにしても、天下のために、所信へ邁進する外にない」
 久光は、頷いた。そして、父の隠居を、誰がすすめたかという問題から、離れそうなので、安心して
「天下のためになら」
「御意に背いても、と、申すであろうが、わしも、それを思わんではない。然し、人の命は短く、理化学の道は遠い。学文、究理のみならば、容易であるが、それを、形に造り上げるまでには、幾多の困難がある。もし、わしが、その困難に耐えて、造り上げるまで、存命しておればよいが、もし、その間に、死ぬようなことでもあれば、理化学の仕事は、悉く水泡に帰する。それを思うと、父上の御意に背いてまでもすべきことか――久光」
 斉彬は、微笑して、久光を見ながら
「いっそ、すぐ様にも、わしも隠居をして、お前に、家督を譲ろうかと、おもうておるが。これが、四方八方、円く治まる法ではなかろうか」
「お断り申します」
 斉彬は、床の間の手文庫から、書付を出してきた。そして
「わしの志を継いでくれる者は、お前の外にない。然し、今すぐ、わしが隠居することも叶うまい。わしは、隠居をして、異国へ、理化学の研究に参りたいが、そうもならぬ。それで、お前が、わしの志をついでくれると、信じておるが、猶、念のためにこういうものを、作っておいた」
 斉彬は、その書付を開きながら
「わしは、天下のためという口実にて、父上や、家中の者と争いとうない。然し、この道の外に、富国強兵の策があろうと思えぬゆえ、お前の代になったなら、この者等と力を合せて、わしの志を継いでくれ。知己を後に待つ外に方法がない。何んとなく、わしは、疲れて来たように思う。或いは、父上に先立つかも知れん。もし、左様なことがあれば、わしは、ただ徒らに、父上の金を費したことになる。何一つ、完成せぬうちに死んでは、外のこととちがい、理化学は、途中で止めては、何んにもならん。それで、わしは、江戸在留の者、国許の者の中から、こうして、有為な青年の名を書き抜いておいた。大久保、有馬、西郷の徒は、わしらと、当面の難局に当るべき人材であるし、この者らは、三十年の後に、天下の役に立つ者共じゃ」
 斉彬は、手に書面を握ったまま、語りつづけていた。久光は、斉彬が家を継いで、自分のしたいと思うことを、存分にするであろうと信じていたのに、その反対の話を聞かされて、斉彬の、斉興を思う心に――そして、その斉彬に対して、斉興や、お由羅の採っている態度に対して、涙が出てきた。何も云うことが出来なかった。
「わしが部屋住の間は、未だ責任が軽うてよかったが、当主となれば、敵は、
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