んで近づく音と、話声とが聞えて来た。
 和田と、高木とが、眼を見合せてから、玄白斎を見ると、前のまま、俯向いて、眼を閉じたきりであった。爺が、表へ出て、下を眺めて、すぐ入って来た。そして
「婆、ござらしたぞ」
 と、云った。
「先生、芋粥が――」
 玄白斎は、頷いた。そして、眼を開いて、身体を起して
「わしには判らん――」
 と、呟いた。
「何が?」
「いや、食べるがよい」
 三人が、茶碗へ手をかけると、表が、騒がしくなった。
 馬上の士が一人、駕が一梃《いっちょう》、人々は、悉く脚絆掛けで、長い刀を差していた。茶店の前で立止まって、すぐ腰かけて、脚を叩いた。
「疲れた」
 と、一人は、股を拡げて、俯向いた。
「爺、食べる物があるか」
「芋粥なら丁度出来ておりますが、あのお髯の御武家衆は貴下方のお連れではござりませぬか」
「お髯の――幾人?」
「御三人」
 侍は、首を延して、奥を覗いたが、襖で何も見えなかった。士は、土間から出て、軒下の腰掛にかけている一人に
「斎木」
「うむ」
「玄白斎が、参っておるらしい」
 低い声であったが、こう云うと同時に、人々は、動揺した。
「玄白斎が――」
 と、一人が怒鳴った。馬上の士が、馬から降り立って、土間へ入って来て、三人の草鞋《わらじ》を見ると
「これは?」
 と、爺の顔を、咎めるように、鋭く見た。
「はいはい、これは、奥にいられます、三人の、お侍衆の――」
「三人の?」
「御一人は、御立派な、こんな――」
 爺は、髯を引張る真似をした。

 家老、島津豊後の抱え、小野派一刀流の使手、山内重作が
「斬るか」
 と、大きい声をした。斎木と、貴島が
「叱《し》っ」
 眼で押えて、頭を振った。重作は、二人を、じろっと見て、土間へ入って、突っ立った。
 馬から降りた侍は、豊後の用人、飽津《あくつ》平八で、七日、七ヶ所の調伏を終り、大阪蔵屋敷へ、調所笑左衛門を訪いに行く、牧仲太郎を、国境まで、保護して来たのであった。
 玄白斎が、自分一人で、牧を追うのとちがって、牧を保護するためには、家老も、目付もついていた。烏帽子岳から、牧の足跡を追って城下へ入り、高木市助をつれて、大箆柄《おおえがら》山へ向ったとき、もう目付の手から、牧へ、玄白斎の行動は、報告されていた。豊後は、手紙で
「玄白斎が、修法の妨げになるなら、何うでも、処分するが――」
 と、さえいった。だが、牧は
「老師を罰するが如き邪念を挟んでは、兵道の秘呪は、成就致しませぬ」
 と、答えた。然し、玄白斎が、牧を追いかけていると知っている人々は、牧の、厳粛な、自分を棄てて、主家のために祈っている、凄惨な様を見ると、それを邪魔する玄白斎が憎くなってきた。
 奥の間に、人影が動いたので、人々が一斉に見た。だが、それは、婆が立つ姿であった。が、すぐ婆の後方に――白い髯が、玄白斎が、独りで、ずかずかと出て来た。土間に立っている山内が、睨みつけているのを、平然と、横にして、狭い表の間――駄菓子だの、果物だの、草鞋、付木、燧石、そんなものを、埃と一緒に積み上げてあるところへ来て、立ったまま
「貴島、斎木」
 と、呼んだ。
「老先生、御壮健に拝します」
 二人は、御叩頭をした。
「牧は?」
「はい」
 飽津が、玄白斎の前へ行った。
「加治木老先生、拙者は、島津豊後、用人、飽津平八と申します。牧殿は、大任を仰せつけられて、連日の修法を遊ばされ、只今御疲労にて、よく、御眠《おやす》み中でござります。御用の趣き、某代って、承わりましょうが、御用向きは?」
「いや、御丁寧な御挨拶にて、痛み入る。余人には語れぬ用向きでのう」
「ははあ」
 飽津が、何かつづけようとした瞬間、玄白斎が
「牧っ、出いっ」
 と、大声で、呼んだ。
「玄白じゃっ」
 土間の、山内が、刀へ手をかけて、つかつかと、近づいた。斎木が、眼と、手とで押えて
「老先生っ」
 と、叫んだ時、駕の中から
「先生」
 低い、元気の無い、皺枯《しわが》れた声がして、駕の垂れが、微かに動いた。

 貴島が駕へ口をつけて
「垂れを、上げますか」
 と、聞いた。
「出してもらいたい」
「然し――」
 垂れが、ふくらんで、細い手が、その横から出た。人々が周章てて手を出して、集まった。飽津が
「牧氏、その御身体で――」
 と、いった時、牧は、痩せた脚を、地につけて、垂れの下から、頭を出していた。駕につかまり、人々の手にささえられながら、斎木と、貴島に、左右から抱えられて、牧は駕から立上った。
 玄白斎は、牧の顔を、じっと、睨んでいた。三月余り前に、一寸見たきりで逢わない彼であったが――何んという顔であろう。それは、身体の病に、痩せた牧でなく、心の苦しみに、悩みに、肉を削った人の面影であった。力と、光の無くなるべき眼は、却って
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