して、忘れていた臂の痛みに、一寸、手を止めた。
「もし、貴下――百城様」
南玉が、少し離れたところから、声をかけた。
「貴下は又、七瀬様が、その四ツ本と仰しゃる人に、殺されなさるのを、何うして、黙って――」
月丸は、険しい眼で、南玉を見て
「貴様、何者じゃ」
「手前? こういう親爺で――」
深雪は、二人の話の間に、手早く、襷をかけた。庄吉が、それを見て
「野郎っ」
と、叫んだ。そして、短刀を、突き出して
「なあ――さあ、来いっ。江戸の巾着切の胆っ玉を見せてやらあ」
「待て、庄公」
と、南玉が、手を突き出して、叫んだ。その途端、深雪が
「百城様」
と、声をかけて、脇差へ、手をかけて
「姉の仇敵」
脣を結んで、喘いでくる呼吸を、鼻で押えて、そこまでいうと、鋭く、百城を、睨みつけて
「尋常に、勝負なされませ」
一足進もうと思ったが、膝頭が固くなってしまって、曲らぬようであったし、呼吸が乱れてきて、大きく吐かぬと、苦しくなってきた。
(お由羅様へ、斬りかかった時のような、不覚をとらぬよう)
と、思ったが、月丸への憎しみと、憤りの心ばかりが、先に立って、息も、脚も、自由にならなかった。
(こんなことでは、一太刀も、斬らぬうちに、斬られてしまう)
と、思った。だが、月丸の返答の無いうちは、刀を抜くまい、それが作法だと、柄へ手をかけたまま、抜かずにいた。
月丸は、庄吉を一打ちにしようと、睨みつけていた眼を、深雪に向けて
「仇敵?――綱手の?――いかにも」
と、云って、頷いた。
「深雪さん――危い。そりゃ、無茶だ。そんなことで、貴女――」
南玉は、深雪の横へ来て
「討てるものか。そりゃ、貴女の気性として――」
と、腕へ手をかけた時
「綱手の仇敵? 成る程――無理も無い。討たれてやりたい――その志に免じて」
月丸は、蒼白な顔に、冷たい微笑をしながら
「綱手も、喜ぶであろうが――」
じっと、深雪を、凝視めていて
「あはははは」
と、笑い出した。
三人は、じっと、月丸の顔を、眼を、脚を、手を、凝視めながら――それを、凝視めているの外
(今に、大変なことが起る)
と、いう恐怖に、肌を、冷たく、顫えさせているの外――山の静けさも、物音も、何も感じなくなっていた。
南玉は、脚も、手も、顫わせながら
(折角、ここまで、漕ぎつけて、ここで、深雪さんを殺しては――)
と、思ったが、何うすることも、できないので、手近い、灌木の枝を、しっかり掴みながら、捻じ折っていた。
庄吉は、すっかり逆上してしまって、その眼は、殺気に輝いているし、米噛《こめかみ》は興奮にふくれているし――月丸の隙を覘《ねら》っていたが、微かな不安と、恐怖とがあって、突込んで行けば、抜討を食うかもしれないし
(深雪の出ようによって――深雪への出ようによって、斬られるのは承知の上で、眼をつぶって一突き――)
と、深雪と、月丸との間に立っている殺気の崩れ方を、考えていた。
「ははははは」
月丸の笑いは、刀を抜いたよりも、凄かった。それは、可笑《おか》しいからの笑いではなかったし、又、嘲笑した笑いでもなかった。もっと、空虚な、病的な、狂人に似た笑いであった。口だけが、笑っていて、声も、眼も、冷やかであった。
そして、三人が、その笑いに、無気味さを感じた時、月丸の眼は、もっと、凄く、険しく光っていた。そして、その上に、殺気が立ってきていた。
「綱手の妹と思えば、しおらしいが、小太郎の妹――何れ、遠からんうちに、死ぬる月丸じゃ。うぬらの一家を、悉く、月丸の手にかけてくれる。父が、斉彬のお世嗣を呪殺したる如く、うぬらの一家を、悉く、わしの手で、亡ぼしてくれる」
月丸は、じいっと、一足進んだ。深雪が、脇差を抜いた。南玉は、力任せに、木の枝を捻じ切って
「危い、深雪さん」
と、叫んだ。月丸は、左手を、鯉口へかけて、柄頭《つかがしら》を、じりっと、上へ突き出しつつ
「うぬら両人――」
と、左右を、睨みつけて
「斬られたいか」
南玉も、庄吉も、もう口が利けぬくらいに、呼吸《いき》づまり、緊張し、興奮してしまっていた。
月丸の顔に、赤味がさしてきた。殺気とも、微笑ともいえぬ閃きが、深雪の顔へ、そそがれていた。
「深雪」
月丸は、その眼から、脣へ、微笑をうつしてきて
「脇差を捨てい」
月丸は、綱手の、若葉のような耳朶を思い出していた。赤く、差恥に染んだ時、濃い白粉の刷かれている時――その二つながらの時に、囁いた言葉――張り切って、艶やかな四肢、閉じている眼瞼のうるおい、喘ぐ呼吸に動く鼻翼《こばな》、少し開いた脣と、歯。ひそめた眉の媚めかしさ――月丸は、一生をかけた綱手のその面影を、もう一度、深雪の身体の上で、見たいと思った。
(この山中の、人のおらぬとこ
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