時の醜さに対して、自分の心の癒えるように、したかった。
(もっと、落ちついて――あの、小太郎への説法ぐらいに、吾を忘れて、憤るようでは、いかん。何うして、こう、気短かになったのか――それにしても、小太郎の技量は、一流の達人だ。わしも、不用意であったが、義観へ、斬り込んだ時に、臂を打った早業は、人間業ではなかった)
月丸は、草の中、木の中を歩みながら、八郎太を埋めてある墓の方へ近づきつつ
(真知の働く時は、思わざるに勝つ、と、あの坊主は、小太郎に説いていたが――)
そう考えてくると、心が、落ちついてくるし、小太郎に対して、説いていた義観の言葉が、頭の中へ明るく、微笑して、浮んできた。だが
「馬鹿らしい」
と、呟いた。
「糞坊主、坊主の分際で、隼人に剣を説き――小太郎め、説かれて、恐れ入って、何んたるざまだ」
月丸は、憑《つ》かれた人のように、独り言を云いつつ、くるりと、堂の方を、振向いた。もう、縁側には誰も居なかった。月丸は、大きい溜息をした。そして、暫く、じっと、凝視めていたが、振返って、踏み出そうとして、さっと、顔色を変えた。
今まで、前方を、眺めながら、歩いて来たのに、少しも、眼に入らなかった墓が、はっきりと、眼についたのであった。そして、それが、眼に入ると同時に、月丸は、何かしら、脚下から、寒いものが、背骨を伝って、全身を掠《かす》めて行ったような気がした。
(墓が、おれを、招いている)
と、感じた。そして、佇んだまま、じっと、墓を睨みつけていた。
(こんなに、明瞭《はっきり》と、こうしていて見えるものなら、先刻から、見えるべき筈だ)
月丸は、何かしら、墓が、生きているように思われた。風もないし、小鳥も囀《さえず》らないし、寂寞とした、深い杉木立の中に、じっと、生きている墓を、睨みつづけていた月丸は
(八郎太が、招いている)
と、感じると同時に、綱手の死んだ時の血の臭が、鼻を掠めた。七瀬が、手を握りしめて、白い眼を剥き出して、脣を噛み切って、仰向きに、転がった時の、その、怨恨に充ちた眼を、思い出した。立っている地が裂けて、地獄へ陥るように感じたり、墓の後方から、三人の霊が、のぞくようにも、感じた。
(何うかしている)
月丸は、眼を閉じて、落ちつこうとしたが、眼を閉じると、赤く閃く玉が、上へ昇ったり、下へ降りたりするし、又、血の臭が、鼻の中へ、蘇ってきた。
(心の迷い――何んの、たわけた)
月丸は、眼を開いて、一足踏み出した。そして
(あの坊主は、心を説いていたが――)
と、思った。だが、それに感心するのは、何かしら、義観に、降伏するような感じがして
「くそっ」
と、懸声をして、勢いよく、八郎太の墓の方へ、足早に行った。
(死霊だの、幽霊だのと、愚にもつかぬ――そうだ、こういう深山へ入ると、人間の心が、こういう風になるのじゃ。それで、霊山などと――わしは、斉興公へ忠義のために、七瀬を殺したのだ。父への孝行のために、綱手を殺したのだ。何を、心に咎めることがある)
墓は、崖のところに――いつの間にか、草が茂り、土が、落ちついて、下に眠っている人の安らかさを、現しているようであった。
(こんな石に脅えて――心が足りなかったからだ。父も、心の不思議を説くが――)
月丸は、考えてみたが判らなかったし、長く考えもしなかったし、又、出来なかった。墓の前へ、膝をついて、懐中から、綱手の形見の鏡を出した。そして、それを包んである薄い絹をとって、鼻へ当てた。微かな、香の匂のほか、血の香はしなかった。
(何故、さっき、血の臭がしたのかしら――それも、心のせい)
だが、香の匂を嗅ぐと同時に、綱手の肌を、四肢を、思い出した。眼が、頭が、血管が、熱くなってきた。自分以外の世の中での、一番、いい物を失くしたように感じた。
「綱手」
と、云って、鏡を眺めてから
「わしを恨んでくれるな。そちを、決して、欺いたのではないぞ。わしは、そちに、惚れていたが、武士の意地として、仕方がなかったのじゃ。成仏してくれ。お前の、霊《たましい》の籠っているこの鏡を、父の墓へ埋めてやるから、父の側で――父に抱かれて、安らけく、眠るがいい」
そう云っているうちに、だんだん、涙で、眼が曇ってきた。
(お前の母を、わしが、手にかけたと同様にして殺したが、よく、冥土で、母に、わしの恋の、偽りでなかったことを、話してくれ)
月丸は、頬へ、涙の流れるまま、暫く、眼を閉じていたが
(義観に近い、こんなところで、泣いて、もしも、見つかったなら――)
と、思うと、手拭で、手早く、涙を拭いた。そうして、鏡を、丁寧に、拭って、自分の顔を写してみた。そして
「判るか、綱手」
と、いった。そして、微笑してみて、鏡に写った自分の微笑んでいる顔へ
「判ったか?」
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