とにかく、江戸中を騒がせて、三田の御邸へ匿れるのじゃ。上役人から、引渡せと申して参ろう。知らんと答える。これが、度重なると、そうでなくてさえ、斉彬公を奉じて、倒幕をしようという輩の多い時、幕府は黙っていまい。人数を向けよう。それを口実に、戦うのだ。倒幕の挙は、口火さえつけば、一挙に爆発するであろう。そして、いよいよ戦となれば、先ず、幕府には金子がない。当家には、調所の残しておいた三百万両の非常準備金がある。それから、江戸は四方から攻めかかれるが、当国は一方口じゃ。そして、天子を奉じて、錦旗を翻すなら、戦はそれまでであろう。斉彬公は、未だ、倒れんとする幕府を何んとかして生かそうと、考えておられるらしいが――それで、俺は、天下の気運に乗じ、幕府と雖も、天朝のお為とすべきこと、と、穏かに書いておいたが、俺は、先手を打って――脱藩しても、口火を切るつもりだ」
「大久保」
大久保は、顔をあげて
「三百万両で、幕府が倒せるか?」
「天下の勢いということもある」
「もし、天下が、徳川へついたなら?」
「そんなことはない。少くも、天下は二分してしまう」
「それでも、三百万両で、事足りるか」
「それは判らん」
「足りぬ時に、何うする?」
「何んとかなろう。そう一々、先のことを考えていては、何もできん」
「斉彬公は、その、先の先まで、考えておられるではないか? 調所は、一生かかって、薩摩のために、三百万両を積立てた。常人にできぬ腕だ。だが、斉彬公は、日本国中のために、三千万両、三億万両の富を作ろうとしておられる。それが判らんか?」
「判らん、判らん」
と、有村が、大きい声を出した。
「判らんなら、聞かしてやろう」
大久保は、有村の方を向いて、有村の顔を睨みつけた。そして
「斉彬公のため、斉彬公のためと、斉彬公の御意に反いても、為だというのか」
大久保は、いつになく、熱していた。有村も、大久保の顔を睨みつけていた。
「高崎殿への、御書状のことを聞いたであろう。将曹、平の如き人物に対してでさえ、人には何か、取柄のあるものゆえ、喧《やかま》しく申すなと仰せられた。幕府に対しても、このお心で、接しておられる。犯さずして、救いたい、というお心だ」
「救えるか?」
「日本中が、富めば、幕府は自然に倒れよう。と、申しても、判るまいが、当家の力にて、日本が富めば、幕府を倒さずとても、天下は、当家へ集まってくる。今日の問題は、幕府を倒すか、倒さぬかということでなく、日本の進歩を、異国と同じところまで、引上げるか、引上げぬかだ。公が、何故、硝子を製造し、紡績機を造り、反射炉を作り、大砲を鋳造し、異国の科学に、いそしんでおられるか、判るか? 専心、産業の開発に、力を尽していなさる意が、那辺にあるか、判るか? 戦はいつでも起せる。民の力を養うことは、そうは行かない。幕府も、敵であると共に、異国も敵だ。公は、四方、八方のことを考えて、その根本を、国力の充満と考えておられる。三百万両の金の如き、眼中に無いぞ。謂わんや、お由羅や、将曹の如き、蠅にも如《し》かぬ。その虫を相手に、二十人の、三十人の集まって、一体、何を斉彬公のおためにしようと、申すのだ。有村、それが、忠義と申すことか? 忠義とはそれだけか?――俺は、お由羅が憎い。憎くて耐らんぞ。然し、こうまで考えてくると、俺は、公の仰せのままに、御指図のままに働くより外に、本当の公への忠義というものはないと思うのだ」
大久保が、言葉を、これで切ってしまったが、有村は、何も云わなかった。西郷が、頷いて
「よく判る。理窟は、そうにちがいない。だが、俺は、俺の出来ることからして行こう。お前が、理窟を考えている間に、俺は、同志を糾合しよう。人、各々、性に従って、長短がある。俺は、今更、科学者にもなれん。ただ、名も、金も要らん。赤心をもって、公のため、天下のために働いてみる」
「そうか」
大久保が、こう云った時、女中が
「旦那様が、お召しでござります」
と、云って来た。西郷が、去った。二人は、黙って、明るい陽ざしの庭を眺めていた。暫くして、西郷が出て来て
「有村」
と、云って、刀を、刀掛けに置いて、坐った。
「大殿が、急に、御出府になるぞ」
「駄目か」
有村が、叫んだ。
「同志の者に――御出府のこともあるし、御家督がきまるし、斉彬公の御代になってからのことにしては、と、申して参らんか。今から、用意しても、追いつくまい」
有村は、立上った。大久保が
「その方がよい」
と、云った。有村は、西郷に目礼したままで、足早に、出て行ってしまった。
「西郷、なまじなことをしては、当家に、人種《ひとだね》が無くなるぞ」
「斉彬公と、貴公とさえ残っておってくれたなら、何んとかなるであろう。俺は、何んでも、頼まれたら、断れんからのう」
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