、掛金を外すらしく、ことこと音がした。深雪は、宿直《とのい》と聞いて、ほっとした、と同時に
(戻って、明日のことに)
とも、思ったし
(いいや、このまま――なまじ、戻っては)
とも、思って、じっと、地獄へ陥ちるような心持で、物音を、聞いていた。
「さ、明朝」
と、南玉が、肩のところで囁いた時、駕屋の足音が近づいて
「おおっ」
「はっ」
駕人足の懸声がして、駕がとまった。南玉は
(益満さんだ)
振向くと、垂れを上げて、庄吉が
「師匠っ」
「早く、来いっ」
戸が開いた。深雪が、素早く入ろうとした。
「深雪」
益満が、駕の中から、叫ぶと同時に、庄吉が
「お嬢さん」
袖を引いた。南玉が、手を掴んだ。深雪が、身体に力を入れて入ろうとするのを、二人が引きとめた。南玉が
「小藤次は、御殿泊りで、居ねえんで――」
「お嬢さん、小藤次さんに逢いたかろうが、明日になせえ、な、留守に行くにゃ及ばねえ。一寸、話があるんだ」
益満が、駕の中から、声をかけた。深雪は、頭を戸から出した。
「ここで、話ができる。若い衆、一寸の間だ」
庄吉が
「一寸、内所話」
と、云って、戸を閉めてしまった。南玉が
「牧は、上方へ参ったそうで、たった今、名越さんから、聞きました」
「上方っ」
庄吉は、声をひそめて
「吉っ、仲間へ触れりゃ、五日、七日の内に、判らあな。しめたっ」
「七日と踏みゃあ、大丈夫だ」
「ようし、俺、今度、左の腕を、切られに行かあ。休さん、あっしら二人に任しておくんなせえ。さあ、しめた」
「籠屋、女を乗せて、宇田川町へ戻ってくれ」
益満は、落ちついた声で云った。
動揺
「未だ、お眼覚めでは、ござりませぬか」
と、いって、お由羅が、もう、朝の化粧を済ませて、斉興の枕頭に坐った。斉興は、枕の上へ両手を置いて、その上へ俯向きになったまま、お由羅の言葉へ、答えなかった。
「お悪いところでも?」
「いいや」
斉興は、上夜具を半分除けて、俯向きに臥たまま
「近頃、とんと、気が弱うなった」
と、呟いた。
「何んぞ、お気にかかりますことでも?」
「うむ」
「あの騒ぎのことでも、お気にかかるのでございますか?」
「いや――」
と、斉興はいったが、お由羅の心の中で
(きっとそうだ)
と、考えた。そして
(本当に、ああまで死ななくてもいいものを、勝手に、切腹したりして――)
と、お為派の死んで行った人々に憐さと――同時に腹立たしさとを、一所《いっしょ》に感じていた。
「将曹様が、お待ちになっております。起きて、陽の目を御覧なされませ。気が晴れます。今日は、からりとした日和で、開聞岳まで見えます」
斉興は、未だ、俯向いたまま、肩で呼吸をして
「齢をとった。齢のせいであろう」
「何を仰せられます」
「いいや――夢を見た」
「何か――お気に召さぬような?――そうそう、今日は、妾も、まあ厭な夢を見まして――この歯がすっかり、上も下も抜けてしまった夢をみて、ぞっとしたら、眼がさめましたが、未だ、歯の根に夢が残っているような――」
「わしは、高崎の夢をみたが――」
斉興は、そう云って
(将曹も、やりすぎる)
と、思った。と同時に、すぐ
(然し、やるなら、あれまでやらぬと、何を又、仕出かすか知れん――だが、今度のことで、わしは、隠居せずばなるまいが――したくない――未だ、したくない)
と、考えた。そして
「将曹を、これへ」
と、云って、頭を上げた。
「眼が血走っております」
お由羅は、心配そうに覗き込んだ。
「昨夜は、ろくろく眠らなんだ。斉彬も、不孝な奴じゃ」
「では、将曹様を、これへ?」
「うむ」
「それでは、お顔の水を、こちらへ運ばせましょう」
「口だけ嗽《すす》げばよい」
お由羅が、出て行った。斉興は、又元のように枕の上へ、額をつけながら
(将曹は、不逞の徒を、根絶させると申したが――あれだけやらぬと、彼奴の命が危いから――それは、将曹として尤もだが、わしの命を取ろうという奴もないであろうから、わしの命令としては、少し、殺しすぎたと、世上から見られても、仕方あるまい)
そう思っている時、侍女が、黒塗の浅い器と、薩摩紅硝子のコップとを持って来た。別の女が、同じ塗の桶に入れた水と、手拭と、房楊枝《ふさようじ》とを持って来て、枕頭へ置いた。
「よし、わしがする」
と、斉興が、手を振った。そして、起き上って、房楊枝をとった時、お由羅と、将曹とが入って来た。
「早朝から――急用か」
「はっ」
将曹は、敷居際へ平伏してから、枕頭へ出て来た。
「何んじゃ」
斉興は、房楊枝をつかいながら、聞いた。お由羅が、コップに水をとった。
「処分すべき人は、悉く、処分を終りましたが、井上出雲が、唯一人、捕まりませぬ」
「引渡さんのか?」
「何
前へ
次へ
全260ページ中189ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
直木 三十五 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング