周章てて、抱かれに行かずとも――」
 深雪は、黙って、足早に、歩き出した。三田の通りへ出ると、暖かい夜とて、通行人が、ちらちらしていた。
(困った。もう、二町と、ありゃしねえ)
 南玉は、思案につきた。
「よう」
 と、声をかけて、一人の若い衆に、擦れちがうと、侍が一人、小者を二人供にして、足早に歩いて来た。小者は、ちらっと、深雪を見てから、すぐ、南玉へ眼をくれて
「今晩は、師匠」
 と、いった。
「ええ」
 南玉が、士を見ると同時に、士が、深雪を見て
「珍しい。深雪ではないか」
 と、声をかけて、立止まった。

「ああっ」
 深雪は、小腰をかがめて
「お変りもござりませんで、お目出度う存じます」
「まだ、江戸にいたか」
「はい」
「小太郎は、如何している?」
「共々――」
「その方は、講釈師だの、よく、益満と一緒に歩いていた」
「はい、名越の殿様でござりますか。お目にはかかっておりますが、つい、御挨拶も致しませず、手前、桃牛舎南玉と申します、何分よろしく」
「只今の住居は?」
「はい、宇田川町の、こちらの家に」
「小太郎は、牧をねらっておるらしいが、牧の消息を存じているか」
「いいえ、それを――」
「又、上方へ上るのを見かけたと、国許から、参った使が、申していたが――」
「あの、上方へ」
「うむ、国許にも、大騒ぎがあったぞ。小太郎にも話してやってくれ。お為派の重立った者は、悉く切腹した、わしも、いつ何うなるか判らん」
「ええっ」
「然し――いや、急ぐから、又逢おう、邸へ遊びに参れ」
 名越左源太は、こういいすてて、行ってしまった。
「お嬢さん、若旦那に、このことを、一刻も早く、さあ」
「ええ」
 二人は、一寸、戻りかけた。だが、すぐ、深雪が、立止まつて
「小父さんだけ戻って、兄に、このことを知らせて下さいませ。妾は、矢張り、小藤次のところへ参りますから」
「め、めっそうな。証拠人がいぬと――」
「いいえ、小父さんだけで――」
「ああっ、しまった。名越が、何を、いったっけ。牧が、牧が――湯治に行った。ちがう。吉原へ女郎買いに――ちがう。何うも、老人は、物憶えが悪うて――」
「まあ、※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]ばかり――頼みます、妾は、お先きに――」
「お嬢さん。その名越に逢うた人に、逢うて、牧が、何処へ行ったか、聞いたら――名越を追っかけて、その使の名を聞こう。な、これが早道だ」
「小父様一人で行って聞いて下さいませ」
「これもいかんか。そんなら、この手は、何うだ」
 南玉は、深雪の前に、大手を拡げた。
「何を為されます」
「通せん坊、通せんぼ」
 南玉は、両手を拡げて、足踏しながら、深雪の行方をふさいだ。
「人様が怪しみます」
 深雪は、南玉の手を、押除けて、歩き出した。
「困ったなあ、深雪さん。折角の、益満さんの厚意を無にして――」
 深雪は、もう、答えなかった。南玉は、もし、手を出して止めたなら、きっと、深雪は怒るにちがいない、と思った。そして、街を眺めて、駕の提灯が二つ、走って来ないかしらと、思った。だが、街は、暗いだけであった。
「ああっ」
 南玉が、叫んで倒れた。深雪は、振向いただけであった。
「生爪剥がした。あ、痛っ、痛、たっ」
 深雪は、ぐんぐん歩いていた。
「これも利かねえか」
 南玉は、跳ね起きて走り出した。

 小藤次の家の前に立った深雪は、戸を叩こうとして、手をとめた。何かしら、汚い物へ触れるような気がしたし、叩くということが、自分の操を破るのと、同じような気持がした。だが、それは、ほんの瞬間だけで、すぐ叩いた。返事が無かった。
「今晩は」
 三度目は、物音がして
「誰だい」
「今晩は」
 足音が近づいて
「誰?」
「お開け下さいまし」
 南玉は、心の内で、神に祈りながら、街を見ると、微かに、灯影が、近づいて来た。
(あれであってくれ)
 と、思った時、戸の上の方についている小さい窓が、開いて
「誰方?」
「小藤次様は、御在宅でございましょうか」
「親方かい? 貴女は?」
「深雪でございます」
「深雪?」
「お目にかかりとうて、夜更けに参りましたが――」
 南玉は、戸に、背をつけて、近づいて来る提灯が、二つなら、益満と、庄吉――。
(もし、そうだったら、袖を掴んでも、中へは入れねえぞ)
 と、足を構えていた。だが、提灯は、三つであった。
(駄目だ)
「親方は――今夜、御殿泊りだけど」
 そういいながら、下職は、じっと、深雪をすかし見た。南玉は
(しめたっ)
 と、心の中で、叫んで
「じゃあ、いくら恋しくったって、仕方がねえ、明日になさい、ね」
「深雪さんなら、御殿へ行って、知らして来らあ、近えから――入って、待っててくんな。おーい。三公っ」
 職人が、叫んだ。そして、戸を開けようと
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