りました」
襖外で、そういう声がした。
「通せ」
靱負が、答えると同時に、襖が開いて、西郷吉兵衛が、入って来た。そして、敷居際へ、平伏した。
「それは、吉井へ――」
靱負は、用人へ、そう云ってから
「近う、参れ」
「はっ」
「介錯をしてもらいたい」
吉兵衛は、じっと、靱負の顔を、眺めていた。用人が、手をとめたのを見ると
「国重は、三原へ」
「はい」
用人は、周章てて、筆を走らせた。
「して――その日は?」
「今夜」
「然し、余り――それは」
靱負は、じろっと、吉兵衛を見て
「死体さえ掘り起す殿ではないか。わしが、今まで、こうしているのさえ、忌々しかろ」
「いささか、手前、腑に[#「腑に」は底本では「俯に」]落ちませぬが――」
「何が?」
「追っつけ、斉彬公の御代になりますが、公の御代になれば、当然、この処分は、御取消に、相成りましょう。一旦の、御立腹にて、早忽《そうこつ》と、腹をなさることは――」
「皆、そういうが、お前もか。斉彬の代になるのを待つつもりで、あれ見よ、赤山は、未だ生延びておる、と、後ろ指を指されるのが、嬉しいか」
「いや、決して左様な――」
「恥を忍んで、斉彬のために尽せ、というのであろう」
「はい」
「斉彬の代に、近々なるときまっておれば、それでよいではないか。そのためにわしが企てたことだ。後のことは斉彬が、何んとかするであろう――倅は、家にいるか」
「はい」
「呼べ」
靱負は、そういってから、用人に
「この形見分けは、吉兵衛から、それぞれに届けさせい」
と、いった。
吉之助は、両手をついたまま、いつまで経っても、顔を上げなかった。
「お前を、見込んで、頼んでおきたいことがある」
靱負が、こういうと、吉之助は、手の甲で、眼を撫でた。
「斉彬へ、手紙を書いておいた。お前を、庭番にするようにと――親爺から、時々、聞いておるが、この先、当家を背負って立つ者は、軽輩に多いらしい。その中でも、わしは、お前を、見込んでいる。わしの存じている若者の中では、お前が、一等じゃ。未だ、思慮も、分別も、未熟なところはあろうが、わしは、お前の、素朴な、一本気な――その、すぐに泣くところが、大好きじゃ。斉彬には、それがない。お前が、斉彬から、学ぶものも、多いであろうし、斉彬が、お前から、省みることも、多いであろう。そして、お互に、えらくなる。わしは、斉彬をよく知っておる。当今、天下第一の人物じゃ。この人物に、お前が、薫陶されたなら、この末、よし、お由羅の陰謀が、成就しようとも、十分、久光を守立てて、天下に号令のできる人間になれるであろう。久光は、愚かではないが、斉彬あっての、久光じゃ。斉彬が無くなったら、無一物になろうかも知れん。その時、お前が、斉彬の意を帯《たい》して、久光の後見をしてくれたなら、当家は、三百諸侯の中で、矢張り、ただ今の如く、重きを置かれるであろう――斉彬は、よく士を愛するが、国許に、お前の居ることを知らんかもしれぬ。お前と話したなら、きっと気に入るであろう。わしは、それを信じて、安心して死ぬ。親爺に、介錯をしてもろうて、倅に、行末を頼んでの。わしの、家来に、お前等二人のいることは、わしの誇りじゃ」
靱負は、こういって、笑ったが、その眼の中には、微かに涙が、薄紅く光っていた。
「忝のう存じまする」
吉兵衛が、手をついていた膝の上へ、涙を落した。吉之助は俯向いて、眼を閉じていたが、父が、こういうと、垂れていた頭を、もっと低くした。
「この間、高崎の死体を掘り出す時に、人夫へ手伝ったということを聞いたが、真実かの」
「はい」
「それもよい。だが、なるべくば、その情をもっと大きく、天下蒼生のために、用いるよう心掛けてくれ。斉彬は、冷徹、信ずる理前の通りに行おうとしているし、お前は、熱情をもって、人間の大道を行こうとしているが、極まるところ、二つは合致していて、何れも、人間の大道は通じておる。そうであろう」
靱負は、こういった時、隣りの部屋で、三時の時計が、ゆるやかに、鈍く、響き渡った。三人は、暫く、黙っていた。
「わしの、この肌衣を、形見に与えよう。血染めになったのを――」
「はい」
吉之助の声は、顫えていた。
「悉く、お集まりに、相成りまして、ござります」
次から、切腹の座に、つらなる人々の、到着したことを、知らせに来た。
「では、戻るがよい」
吉之助は、真赤な、そして、涙の溢れている、大きい眼を上げて、靱負を見た。
「泣くな」
靱負は、そういって、微笑した。
「大久保は、何があっても泣かんし、お前は何かがあると、すぐ泣く」
靱負は、そういいながら、立上った。そして
「判ったか」
「はっ」
吉之助が、そう答えると、振向きもしないで、次の間へ入ってしまった。吉之助は、掌を顔へ当てた。
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